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第一章 旅立ち
05 旅立ちの前夜
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「よかったですね。みんなに見送ってもらって」
「せやなぁ」
大量の荷物のほとんどを俺が持って、二人で家路につく。
送迎会は、株主総会後の打ち上げと兼ねて週あたまに開いたらしい。
3月の夜風はもう冬のような刺す冷たさを感じさせない。それにしても今夜は温かいようだ。春一番にはまだ早いはずだが、なんとなくほやほやとした外気だった。
口を開きかけ、やめた。
隣を歩く妻を見下ろす。
ヨーコさんは少しだけ口の端が引き上がった顔つきで歩いていた。普通の顔をしていても、どこか微笑んで見えるその表情は昔から変わらない。
一歩一歩、会社を離れていきながら、俺は思う。
「……もう、こうやって二人で帰ることもないんですね」
思うと同時に口から出た言葉に、ヨーコさんはまばたきをして微笑みを返した。
「……せやな」
微笑みを受け止めて、俺も微笑みを返す。
本当なら、彼女と手を繋いで歩きたかったけれど、抱えた荷物がそれを許さない。
悔しさに内心歯がみした俺の肘に、彼女の手が触れた。
はっとして見やると、少女のような微笑みがそこにある。
「……そう思うと、寂しいなぁ」
じわり、と愛おしさが胸に広がる。
会社での彼女との思い出は、いいものばかりではない。
出会った頃のわがままな自分。彼女を振り向かせようと必死になった幼稚な自分。彼女のことを支えたいと、少しだけ、成長した自分。
走馬灯のように巡る記憶に、複雑な想いを感じるものもあったが、それはそれ。
彼女が関係している思い出ならば、俺にとっては宝物だ。
「……いろいろ、ありましたね」
俺が言うと、ヨーコさんは笑った。
「せやな。いろいろあったなぁ」
くつくつと喉の奥で笑う声に、俺は微笑む。
いろいろあった。
けど、今、こうして彼女が笑っていることが一番だ。
「ヨーコさん」
「なんや」
「愛してます」
ヨーコさんはふと、足の運びをゆるめた。
切れ長の目で俺を見上げて、まばたきする。
長いまつげの動きは綺麗で、思わず見惚れた。
「……どないしたん」
問われて、俺は笑った。
「発作みたいなもんです」
「発作」
「そう、発作」
ヨーコさんはくつくつ笑い始めた。
抱えた荷物が憎らしい。こんなにも彼女を抱き寄せたいのに、それを許してくれない。
俺ははぁ、と息をついた。
「しまったなぁ」
「何や」
「荷物、送ればよかった」
「……重いか?」
気遣うように言われて、首を振る。
「重くはないですけど。自由がきかないのが」
「自由?」
「ヨーコさんに触りたいです」
ヨーコさは途端に呆れた。
「……相変わらずやなぁ」
言って、俺の腕にそっと身を近づける。
そういうことを、自分から外ですることはあまりない人だ。彼女も一つの生活に終わりを告げて、多少安堵しているのだろう。
ガードレール越しの車道を、ヘッドライトを点けた車が行き交っている。
夜の黒に帯を引く白い光を見送って、ヨーコさんは呟いた。
「……せやから、安心して向こうに行けるわ」
俺は微笑む。
「もちろんです。浮気なんかしませんよ」
「そんな心配してるんちゃうわ」
ヨーコさんはふんと言って、切なさを宿した目で俺を見上げた。
「……あんたが幸せやったら、それでええ」
ヨーコさんの黒目がちな目に、ライトの光が反射している。
宝石箱のように小さな光を宿した目が、俺を見つめる。
「幸せですよ」
俺は微笑み返してから、
「まあでも、やっぱり寂しいですけどね。一人になるのは」
ヨーコさんは困ったように笑った。
「……うちも寂しいわ」
二人でまた、駅へと歩いていく。
駅へ向かう交差点の信号は赤だった。二人で立ち止まり、信号が変わるのを待つ。
「電話しますね」
俺が言う。
「うん」
ヨーコさんが頷いた。
「メールも、写メも送ります」
「うん」
ヨーコさんはまた頷き、俺の顔を見上げた。
目が合い、二人で苦笑する。
「……でも、やっぱり、触りたくなっちゃうだろうなぁ」
信号が青に変わった。
「せやね」
言いながら、ヨーコさんが一歩踏み出す。
俺もその後ろに従った。
「なあ、ジョー」
信号を渡り切ろうという頃、不意にヨーコさんが振り向いた。
「なんですか」
答える俺に、
「せやからな」
彼女は楽しげに笑ってみせる。
爪先立ちで俺の耳元に唇を寄せ、かすれたアルトが言った。
「今夜はたっぷり……可愛がってあげるな」
ぞわ、と半身に痺れが走る。
「ちょっと、もう。ヨーコさんたら」
くすくす笑って足早に駅へ向かう彼女に、俺は文句を言った。
その顔は多分、抑え切れずににやけてしまっていたけれど……
それはまあ、ご愛敬ってことで。
「せやなぁ」
大量の荷物のほとんどを俺が持って、二人で家路につく。
送迎会は、株主総会後の打ち上げと兼ねて週あたまに開いたらしい。
3月の夜風はもう冬のような刺す冷たさを感じさせない。それにしても今夜は温かいようだ。春一番にはまだ早いはずだが、なんとなくほやほやとした外気だった。
口を開きかけ、やめた。
隣を歩く妻を見下ろす。
ヨーコさんは少しだけ口の端が引き上がった顔つきで歩いていた。普通の顔をしていても、どこか微笑んで見えるその表情は昔から変わらない。
一歩一歩、会社を離れていきながら、俺は思う。
「……もう、こうやって二人で帰ることもないんですね」
思うと同時に口から出た言葉に、ヨーコさんはまばたきをして微笑みを返した。
「……せやな」
微笑みを受け止めて、俺も微笑みを返す。
本当なら、彼女と手を繋いで歩きたかったけれど、抱えた荷物がそれを許さない。
悔しさに内心歯がみした俺の肘に、彼女の手が触れた。
はっとして見やると、少女のような微笑みがそこにある。
「……そう思うと、寂しいなぁ」
じわり、と愛おしさが胸に広がる。
会社での彼女との思い出は、いいものばかりではない。
出会った頃のわがままな自分。彼女を振り向かせようと必死になった幼稚な自分。彼女のことを支えたいと、少しだけ、成長した自分。
走馬灯のように巡る記憶に、複雑な想いを感じるものもあったが、それはそれ。
彼女が関係している思い出ならば、俺にとっては宝物だ。
「……いろいろ、ありましたね」
俺が言うと、ヨーコさんは笑った。
「せやな。いろいろあったなぁ」
くつくつと喉の奥で笑う声に、俺は微笑む。
いろいろあった。
けど、今、こうして彼女が笑っていることが一番だ。
「ヨーコさん」
「なんや」
「愛してます」
ヨーコさんはふと、足の運びをゆるめた。
切れ長の目で俺を見上げて、まばたきする。
長いまつげの動きは綺麗で、思わず見惚れた。
「……どないしたん」
問われて、俺は笑った。
「発作みたいなもんです」
「発作」
「そう、発作」
ヨーコさんはくつくつ笑い始めた。
抱えた荷物が憎らしい。こんなにも彼女を抱き寄せたいのに、それを許してくれない。
俺ははぁ、と息をついた。
「しまったなぁ」
「何や」
「荷物、送ればよかった」
「……重いか?」
気遣うように言われて、首を振る。
「重くはないですけど。自由がきかないのが」
「自由?」
「ヨーコさんに触りたいです」
ヨーコさは途端に呆れた。
「……相変わらずやなぁ」
言って、俺の腕にそっと身を近づける。
そういうことを、自分から外ですることはあまりない人だ。彼女も一つの生活に終わりを告げて、多少安堵しているのだろう。
ガードレール越しの車道を、ヘッドライトを点けた車が行き交っている。
夜の黒に帯を引く白い光を見送って、ヨーコさんは呟いた。
「……せやから、安心して向こうに行けるわ」
俺は微笑む。
「もちろんです。浮気なんかしませんよ」
「そんな心配してるんちゃうわ」
ヨーコさんはふんと言って、切なさを宿した目で俺を見上げた。
「……あんたが幸せやったら、それでええ」
ヨーコさんの黒目がちな目に、ライトの光が反射している。
宝石箱のように小さな光を宿した目が、俺を見つめる。
「幸せですよ」
俺は微笑み返してから、
「まあでも、やっぱり寂しいですけどね。一人になるのは」
ヨーコさんは困ったように笑った。
「……うちも寂しいわ」
二人でまた、駅へと歩いていく。
駅へ向かう交差点の信号は赤だった。二人で立ち止まり、信号が変わるのを待つ。
「電話しますね」
俺が言う。
「うん」
ヨーコさんが頷いた。
「メールも、写メも送ります」
「うん」
ヨーコさんはまた頷き、俺の顔を見上げた。
目が合い、二人で苦笑する。
「……でも、やっぱり、触りたくなっちゃうだろうなぁ」
信号が青に変わった。
「せやね」
言いながら、ヨーコさんが一歩踏み出す。
俺もその後ろに従った。
「なあ、ジョー」
信号を渡り切ろうという頃、不意にヨーコさんが振り向いた。
「なんですか」
答える俺に、
「せやからな」
彼女は楽しげに笑ってみせる。
爪先立ちで俺の耳元に唇を寄せ、かすれたアルトが言った。
「今夜はたっぷり……可愛がってあげるな」
ぞわ、と半身に痺れが走る。
「ちょっと、もう。ヨーコさんたら」
くすくす笑って足早に駅へ向かう彼女に、俺は文句を言った。
その顔は多分、抑え切れずににやけてしまっていたけれど……
それはまあ、ご愛敬ってことで。
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