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第二章 それぞれの生活
01 新生活
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そうして、新年度。
とうとう、俺とヨーコさんの別々の生活が始まった。
平日、どんなに早く帰宅しても、凝った料理を作っても、彼女の笑顔は見られない。
それでも毎晩電話して、声を聞くだけでも幸せだ。感じた気持ちをそのまま、「幸せだよ」と告げる俺に彼女はくすぐったそうに笑った。
世間一般的な甘い恋人期間がなかった俺たちにとっては、それこそ遠距離恋愛をしているに近い感覚だ。
仕事があった頃はほとんど週末の度に京都に行っていたヨーコさんだが、京都に生活を移した今、関東に帰宅するのは月に1度あるかないか。
毎週末帰っていては金銭的にも厳しいし、責任感もなく実家をあける気にもなれない。ヨーコさんの言い分は俺も分かるので、基本的に彼女の意思を尊重している。
俺が京都に行ってもいいけど、という提案は、やっぱり苦笑の気配と共に見送りになった。
『そうしてもええかなと思うたら言うさかい。……かんにんな』
離れて生活していたとはいえ、当然俺よりも彼女の方が義父母の感覚には詳しい。謝る必要はないと答えながら、俺は日々を過ごした。
彼女がいない毎日はこんなにも味気ないものか。
毎朝水を変える卓上の花。彼女と結婚してから摂るようになったシリアルとヨーグルトの簡単な朝食。彼女のために揃えた紅茶と花柄の茶器。彼女が好きな画家の絵。
新聞を見ていて、「ああ彼女が好きそうな記事だなぁ」と思うときには、切り抜いておくことにした。実家ではもう新聞をとらなくなったと聞いたからだ。
同じように、彼女が好きそうなテレビ番組も、こまめに予約することにした。「好きにテレビも見られひん」と苦笑していたからだ。
彼女が家からいなくなっても、俺の生活は彼女を中心に回っていく。彼女だったらどうするだろう。これをしておいたら喜んでくれるだろうか。何をするにもまずそう思うのは、もうこの10年で身についた習慣だ。
カレンダーが5月に変わる頃。例の後輩、財務部のアキちゃんとばったり会った。
「あっ、どもー。おはよーございます」
控えめな顔立ちの中で、笑んだ口元は大きく見える。
考えてみれば、この子も俺と同じで、基本的に笑った顔しか見せない。
「おはよ」
当たり障りない程度に応えると、アキちゃんはまじまじ俺の顔を見上げてきた。
「……なに?」
「いや、意外と」
アキちゃんはにまりと笑って、俺から離れる。
「ヨーコさんがいなくなったら、安田さん色々やる気が失せて駄目人間に戻っちゃうんじゃないかと予想してたんですが。意外とちゃんとしてますね」
言われて、俺は苦笑を返した。
「そうだなぁ」
オフィスビルを目指して、昨日磨いた靴を運ぶ。何度かマーシーの足にぶつけて「凶器」と言われた先の尖った革靴だ。
そう。ふと思い立った俺は、昨日を靴を磨く日にした。
まずは、冬にヨーコさんが履いていたロングブーツから。彼女の靴を二週間に一度磨くのも、俺の楽しみの一つだった。
歩き癖で減ったヒールは、メンテナンスに出すものとしまっておくものに割り振る。磨くのは自分でやるが、さすがに修理まではできない。いや、やろうと思えばできないことはないだろうが、彼女が気に入っているものを壊してしまってはと細心の注意を払っているのだ。
一通り彼女の冬靴を磨き終えると、ようやく自分の靴へ取り掛かった。
そんな俺のことを、彼女は笑うに違いない。「あほやなぁ」と、柔らかい声で呆れるに違いない。思いながら苦笑する。
「だって、ヨーコさんのためだから」
「え?」
「俺が仕事がんばるのは、ヨーコさんのため。身なりをちゃんとするのも、食事をちゃんと摂るのも、ヨーコさんのため」
アキちゃんは目を丸くして立ち止まっている。彼女には分からないだろうか。それならそれでいい。俺は笑いながら歩みを進める。アキちゃんはわざとらしく息を吐き出して、後ろについてきた。
「徹底してますね」
「うん。もちろん」
「まあでも、安田さんらしいです」
俺はちらりとアキちゃんを見下げた。アキちゃんはにかっと大きな口を引き上げ、俺の背中を叩いて前へ出る。
「はいっ、ピース」
いきなりスマホを掲げられ、俺は困惑しながら立ち止まる。
いまいち笑顔を浮かべきれないままに写真に撮られたかと思いきや、アキちゃんは笑った。
「ヨーコさんに連絡しときますね。安田さん、がんばってますよって」
言われて、俺は「え」と「う」の間のような声を出した。
思わず頬が赤くなる。
「い、いや、いいよ。別にそんなの」
「えっ、えー! 何いまさら照れてるんですか。照れどころがズレてますよ。やっだーもー、おもしろすぎる!」
アキちゃんはからから笑いながら、逃げるようにビルへと入っていく。
取り残された俺は落ち着かない気分で頬を掻いた。
そう、全部ヨーコさんのためだ。
ヨーコさんが心配しないように。
ヨーコさんの夫として恥ずかしくないように。
でも、本当のところ、その半分は自分のためだ。
いつでも、戻ってきたいと思える存在でいられるように。
少しでも、魅力的に思ってもらえるように。
俺は赤くなった頬をごまかすように、後ろ頭を乱暴にかいてため息をついた。
とうとう、俺とヨーコさんの別々の生活が始まった。
平日、どんなに早く帰宅しても、凝った料理を作っても、彼女の笑顔は見られない。
それでも毎晩電話して、声を聞くだけでも幸せだ。感じた気持ちをそのまま、「幸せだよ」と告げる俺に彼女はくすぐったそうに笑った。
世間一般的な甘い恋人期間がなかった俺たちにとっては、それこそ遠距離恋愛をしているに近い感覚だ。
仕事があった頃はほとんど週末の度に京都に行っていたヨーコさんだが、京都に生活を移した今、関東に帰宅するのは月に1度あるかないか。
毎週末帰っていては金銭的にも厳しいし、責任感もなく実家をあける気にもなれない。ヨーコさんの言い分は俺も分かるので、基本的に彼女の意思を尊重している。
俺が京都に行ってもいいけど、という提案は、やっぱり苦笑の気配と共に見送りになった。
『そうしてもええかなと思うたら言うさかい。……かんにんな』
離れて生活していたとはいえ、当然俺よりも彼女の方が義父母の感覚には詳しい。謝る必要はないと答えながら、俺は日々を過ごした。
彼女がいない毎日はこんなにも味気ないものか。
毎朝水を変える卓上の花。彼女と結婚してから摂るようになったシリアルとヨーグルトの簡単な朝食。彼女のために揃えた紅茶と花柄の茶器。彼女が好きな画家の絵。
新聞を見ていて、「ああ彼女が好きそうな記事だなぁ」と思うときには、切り抜いておくことにした。実家ではもう新聞をとらなくなったと聞いたからだ。
同じように、彼女が好きそうなテレビ番組も、こまめに予約することにした。「好きにテレビも見られひん」と苦笑していたからだ。
彼女が家からいなくなっても、俺の生活は彼女を中心に回っていく。彼女だったらどうするだろう。これをしておいたら喜んでくれるだろうか。何をするにもまずそう思うのは、もうこの10年で身についた習慣だ。
カレンダーが5月に変わる頃。例の後輩、財務部のアキちゃんとばったり会った。
「あっ、どもー。おはよーございます」
控えめな顔立ちの中で、笑んだ口元は大きく見える。
考えてみれば、この子も俺と同じで、基本的に笑った顔しか見せない。
「おはよ」
当たり障りない程度に応えると、アキちゃんはまじまじ俺の顔を見上げてきた。
「……なに?」
「いや、意外と」
アキちゃんはにまりと笑って、俺から離れる。
「ヨーコさんがいなくなったら、安田さん色々やる気が失せて駄目人間に戻っちゃうんじゃないかと予想してたんですが。意外とちゃんとしてますね」
言われて、俺は苦笑を返した。
「そうだなぁ」
オフィスビルを目指して、昨日磨いた靴を運ぶ。何度かマーシーの足にぶつけて「凶器」と言われた先の尖った革靴だ。
そう。ふと思い立った俺は、昨日を靴を磨く日にした。
まずは、冬にヨーコさんが履いていたロングブーツから。彼女の靴を二週間に一度磨くのも、俺の楽しみの一つだった。
歩き癖で減ったヒールは、メンテナンスに出すものとしまっておくものに割り振る。磨くのは自分でやるが、さすがに修理まではできない。いや、やろうと思えばできないことはないだろうが、彼女が気に入っているものを壊してしまってはと細心の注意を払っているのだ。
一通り彼女の冬靴を磨き終えると、ようやく自分の靴へ取り掛かった。
そんな俺のことを、彼女は笑うに違いない。「あほやなぁ」と、柔らかい声で呆れるに違いない。思いながら苦笑する。
「だって、ヨーコさんのためだから」
「え?」
「俺が仕事がんばるのは、ヨーコさんのため。身なりをちゃんとするのも、食事をちゃんと摂るのも、ヨーコさんのため」
アキちゃんは目を丸くして立ち止まっている。彼女には分からないだろうか。それならそれでいい。俺は笑いながら歩みを進める。アキちゃんはわざとらしく息を吐き出して、後ろについてきた。
「徹底してますね」
「うん。もちろん」
「まあでも、安田さんらしいです」
俺はちらりとアキちゃんを見下げた。アキちゃんはにかっと大きな口を引き上げ、俺の背中を叩いて前へ出る。
「はいっ、ピース」
いきなりスマホを掲げられ、俺は困惑しながら立ち止まる。
いまいち笑顔を浮かべきれないままに写真に撮られたかと思いきや、アキちゃんは笑った。
「ヨーコさんに連絡しときますね。安田さん、がんばってますよって」
言われて、俺は「え」と「う」の間のような声を出した。
思わず頬が赤くなる。
「い、いや、いいよ。別にそんなの」
「えっ、えー! 何いまさら照れてるんですか。照れどころがズレてますよ。やっだーもー、おもしろすぎる!」
アキちゃんはからから笑いながら、逃げるようにビルへと入っていく。
取り残された俺は落ち着かない気分で頬を掻いた。
そう、全部ヨーコさんのためだ。
ヨーコさんが心配しないように。
ヨーコさんの夫として恥ずかしくないように。
でも、本当のところ、その半分は自分のためだ。
いつでも、戻ってきたいと思える存在でいられるように。
少しでも、魅力的に思ってもらえるように。
俺は赤くなった頬をごまかすように、後ろ頭を乱暴にかいてため息をついた。
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