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(7)雨の午前の来客・・・鮎美の視点で
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雨はしとしとと降っていた。
鮎美にとって一年でいちばんうっとうしい、梅雨という季節がやってきたらしい。
洗面所から茶の間に向かう廊下の窓ごしに、椿の厚い葉が雨に濡れているのを眺め、日曜の朝だというのに気は重くなった。
古い屋敷の中は、ますますかび臭く感じられる。
畳や、床板や、壁や、ふすまが湿気を含んでぶよぶよになっているのを感じた。
蛍光灯の埃を拭ってもまだ部屋の中は暗く感じられる。
兄の利一は、金曜の夜から帰っていなかった。
出かける時、やけに念入りに身支度をし、衣類を詰めたバッグとかなりの現金を持って出たから、おおかた飲み屋の店員の女性と旅行にでも出たのだろうと察しはついた。
両親も祖父母も健在な時は、鮎美にとって利一は頭が良くて優しくて力持ちのスポーツマンの、自慢の兄だった。
それがたった数年で、ただただ自堕落なダメ人間になってしまったのは、信じられない気もした。
鮎美はその日、紘孝と映画を観に行く事になっていた。
紘孝とは、平日は日常の事、学校の事、テレビの事、本の事、音楽の事、いろいろな事を書いたメールを交換し、休日に会うという毎日が一月ほど続いていた。
紘孝は、彼女が見た限りでは頼りなさそうなのがマイナスポイントではあったが、優しくて性格の良い少年だった。
彼女はそれまでは孤独を感じる事が多かった。
けれども彼といる間は、あるいは彼とメールで繋がっていると思う時は、寂しさは和らぎ、心が満たされた。
さみしい彼女に神様か、さもなくば運命というべきものが引き合わせてくれた・・・そんな気さえした。
待ち合わせは午後からだった。
部屋で、何を着て行こうかとあれこれ考えた。
気分は上向きで、気もそぞろだった。
彼と出会ったことで、初めて感じた気分だった。
けれども、そればかり考えてもいられなかった。
昼前に、来客の予定があった。
鈴木さんという、両親の知り合いだった男性が訪ねて来る事になっていた。
鮎美は詳しい経緯は知らない。
彼女が生まれる前の事だが、鈴木さんが奥さんと駆け落ち同然でそれぞれの家を出たものの、仕事も住む所も安定せず、とうとう露頭に迷ってしまった。
どうしようもなくなり、もうだめだ、心中しようかと追い詰められていた時に、たまたま知り合った鮎美の両親が二人の世話をした。
そして今は阿蘇で農園とペンション風民宿を経営している。
その時の恩義をいつまでも忘れずに、両親が亡くなってからも年に2、3回は屋敷を訪れて、さまざまな相談事に乗ってくれるのだった。
・・・
鈴木さんは、前もって電話で伝えてきた時間通りにやって来た。
軽ワゴンから段ボールやバケットに入ったおみやげを家の中に運び込むのを、鮎美も手伝った。
中身は、採れたての野菜や、自家製の漬物だった。
それらは、乏しい家計からやりくりする鮎美にとってはありがたかった。
仏壇に線香を上げ応接台に着いた鈴木さんは、鮎美から出されたお茶を飲みながら客間を見回し、ため息をついた。
「ふうん・・・見るごとにどんどん荒れていっとるなぁ・・・」
「すみません、汚い家で・・・」
「いや、別にそぎゃん意味で言ったんじゃなかけん。ばってんが・・・お兄さんはまだ働かんでブラブラしよっとね?」
「はい・・・」
鮎美はいたたまれなくなり、赤くなって下を向いた。
「困ったもんじゃねぇ。本当だったら一家を背負って、妹ば食わしていかんとならん人間が、遊びほうけてしもうとる」
鈴木さんは、髭面のこわもてをさらに険しくさせた。
「私はね、あゆさんたちのご両親から言われとったんよ。親戚ん連中はあてにならんから、もし自分たちの身に何かあったら、二人の子供の面倒ば見てくれ、て」
「はぁ」
「ばってんが、こん状態じゃぁ、私が遺言を守ってないという事になるがね」
「いえいえそんな」
鈴木さんは決して嫌味でも皮肉でもなく、また苦言でもなく、心の底から鮎美の事を、そして道を誤った利一の事を気にかけて言ってくれているのだという事は、痛いほど分かっていた。
鮎美は心の底から恐縮し、頭を下げた。
鮎美にとって一年でいちばんうっとうしい、梅雨という季節がやってきたらしい。
洗面所から茶の間に向かう廊下の窓ごしに、椿の厚い葉が雨に濡れているのを眺め、日曜の朝だというのに気は重くなった。
古い屋敷の中は、ますますかび臭く感じられる。
畳や、床板や、壁や、ふすまが湿気を含んでぶよぶよになっているのを感じた。
蛍光灯の埃を拭ってもまだ部屋の中は暗く感じられる。
兄の利一は、金曜の夜から帰っていなかった。
出かける時、やけに念入りに身支度をし、衣類を詰めたバッグとかなりの現金を持って出たから、おおかた飲み屋の店員の女性と旅行にでも出たのだろうと察しはついた。
両親も祖父母も健在な時は、鮎美にとって利一は頭が良くて優しくて力持ちのスポーツマンの、自慢の兄だった。
それがたった数年で、ただただ自堕落なダメ人間になってしまったのは、信じられない気もした。
鮎美はその日、紘孝と映画を観に行く事になっていた。
紘孝とは、平日は日常の事、学校の事、テレビの事、本の事、音楽の事、いろいろな事を書いたメールを交換し、休日に会うという毎日が一月ほど続いていた。
紘孝は、彼女が見た限りでは頼りなさそうなのがマイナスポイントではあったが、優しくて性格の良い少年だった。
彼女はそれまでは孤独を感じる事が多かった。
けれども彼といる間は、あるいは彼とメールで繋がっていると思う時は、寂しさは和らぎ、心が満たされた。
さみしい彼女に神様か、さもなくば運命というべきものが引き合わせてくれた・・・そんな気さえした。
待ち合わせは午後からだった。
部屋で、何を着て行こうかとあれこれ考えた。
気分は上向きで、気もそぞろだった。
彼と出会ったことで、初めて感じた気分だった。
けれども、そればかり考えてもいられなかった。
昼前に、来客の予定があった。
鈴木さんという、両親の知り合いだった男性が訪ねて来る事になっていた。
鮎美は詳しい経緯は知らない。
彼女が生まれる前の事だが、鈴木さんが奥さんと駆け落ち同然でそれぞれの家を出たものの、仕事も住む所も安定せず、とうとう露頭に迷ってしまった。
どうしようもなくなり、もうだめだ、心中しようかと追い詰められていた時に、たまたま知り合った鮎美の両親が二人の世話をした。
そして今は阿蘇で農園とペンション風民宿を経営している。
その時の恩義をいつまでも忘れずに、両親が亡くなってからも年に2、3回は屋敷を訪れて、さまざまな相談事に乗ってくれるのだった。
・・・
鈴木さんは、前もって電話で伝えてきた時間通りにやって来た。
軽ワゴンから段ボールやバケットに入ったおみやげを家の中に運び込むのを、鮎美も手伝った。
中身は、採れたての野菜や、自家製の漬物だった。
それらは、乏しい家計からやりくりする鮎美にとってはありがたかった。
仏壇に線香を上げ応接台に着いた鈴木さんは、鮎美から出されたお茶を飲みながら客間を見回し、ため息をついた。
「ふうん・・・見るごとにどんどん荒れていっとるなぁ・・・」
「すみません、汚い家で・・・」
「いや、別にそぎゃん意味で言ったんじゃなかけん。ばってんが・・・お兄さんはまだ働かんでブラブラしよっとね?」
「はい・・・」
鮎美はいたたまれなくなり、赤くなって下を向いた。
「困ったもんじゃねぇ。本当だったら一家を背負って、妹ば食わしていかんとならん人間が、遊びほうけてしもうとる」
鈴木さんは、髭面のこわもてをさらに険しくさせた。
「私はね、あゆさんたちのご両親から言われとったんよ。親戚ん連中はあてにならんから、もし自分たちの身に何かあったら、二人の子供の面倒ば見てくれ、て」
「はぁ」
「ばってんが、こん状態じゃぁ、私が遺言を守ってないという事になるがね」
「いえいえそんな」
鈴木さんは決して嫌味でも皮肉でもなく、また苦言でもなく、心の底から鮎美の事を、そして道を誤った利一の事を気にかけて言ってくれているのだという事は、痛いほど分かっていた。
鮎美は心の底から恐縮し、頭を下げた。
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