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(8)覚えのない貸金の返済・・・もういちど鮎美目線で

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深いため息をついて黙り込んだ鈴木さんは、しばらく雨の音を聞くように目を閉じてから言った。

「私と家内はね、あゆさんのお父さん、お母さんからいろいろ世話してもろうとるばってん、本当の事を言うと少なからずのお金も借りとるのよね」
「はい……それは聞いています」

そんな話も聞き覚えがあった。
けれど、いくら貸したのかは知らなかったし、借用書が無い以上、もう返済されているものと思っていた。

鈴木さんは、鞄から通帳を出した。

「勝手な事して申し訳なかと思うけど、あゆさんの名義で通帳ば作らせてもらったけん、受け取ってはいよ」
「・・・?」

鮎美は、きょとんとした。
彼女に、鈴木さんは言った。

阿蘇に移るにあたり、800万円を13年前に借りた。
ある時払いの催促無しだと鮎美の父親は言い、借用書も作らなかった。

その金を元手に民宿と農園を始めたが、経営は、困難を極めた。
特に天気任せ気候まかせの畑は、もともと農業には素人の鈴木さんにとってゼロどころかマイナスからの出発に等しかった。

けれども近隣の農家に教えを乞い、試行錯誤を繰り返すうちに、なんとか軌道に乗ってきた。
民宿の方も、口コミで評判が伝わり、固定客もできてきた。

そこでようやく、借りた金の返済に目途がついた。
貸した本人がこの世にいない以上、口約束で借りた金は踏み倒す事もできた。

けれど、そんな事はできない・・・なぜなら恩人だから。
とりあえず100万円の通帳を鮎美の名義で作った。

これから、利子もつけて返済総額一千万円になるまで、何年かけてでも少しずつ返していく・・・。

「何と言っても、恩人だけん。あゆさんのご両親がおらんかったら、私らもこの世におらんかったかもしれん」

それだけのお金があったら日々の生活は楽になるだろうし、彼女自身、おしゃれや洋服に同じ歳の女の子くらいの事もできるだろうし、家の普請だって余裕でできるだろう。
けれども、鮎美にとっては知らなかった事だし、だいいち、利一に万が一でも見付かってしまったら、鈴木さんの血と汗の結晶みたいなお金が、くだらない事に使われてしまうに決まっている。

だから受け取る訳にはいかないと思い、一度は辞退した。
けれども、頭を畳にこすり付けるようにして、受けとってくれと懇願するのを断る道理もなかった。

最後には、鮎美が折れた。

・・・

帰りぎわ、鈴木さんを表に停めた車のところまで送っていった。
雨はまだしとしとと降り続いていた。

車に乗り込みながら、大役を果たしたように安堵の表情を浮かべた鈴木さんは笑いながら言った。

「夏休みになったら、うちの民宿に遊びにきなっせ。友だちでも連れて・・・彼氏でもええけん」

鮎美は、おそらくなんの気なしに投げかけられたであろう、その言葉・・・その中の「彼氏」という単語に心が過剰に反応し、顔が赤くなった。
けれども鮎美は赤い傘をさしており、赤みを帯びた光が彼女に映えていたから、鈴木さんがそれに気付く事はなかった。

「お気をつけて」

車は、雨の中、ゆっくりと走り去った。
運転席から腕が伸び、挨拶代わりに揺れていた。
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