羽子板星

まみはらまさゆき

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第1章

(6)後悔

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彰子は牧雄を絶対的に信頼していたはずだ。
そして気心の知れた相手だからこそ、寂しいところに一緒にいようという気になり、彼を造成地の中へ招き入れたはずだ。

そんな信頼を、一気に突き崩す事をやってしまった。

彰子は無言のまま、時折鼻をすすりながら服の乱れを直し始めたらしく、衣擦れが微かに聞こえてきた。
牧雄は俯いた。

(もう僕は嫌われてしまっただろう。もう二度と口も聞いてもらえないかもしれない。それだけの事をしてしまったんだ・・・でも、なぜ?)

彼自身、どうしてあんな行動を衝動的に取ってしまったのか、分からなかった。
あえて言えば、発作か・・・しかしそんな言い訳が、ショックを受け泣いている彰子に通用するはずもない。

冷たい空気を裂いて、遠くから電車の警笛が聞こえてきた。
それは自分のしてしまったことに傷付き、寒風の吹き抜けるような牧雄の胸に虚ろに響いた。

それから長い時間が過ぎた。
彰子の近付いてくる足音がした。牧雄は身をこわばらせた。

(なんと言って謝ろう・・・けれど、どんなに言葉を尽くして詫びても、許してくれないかもしれない)

彰子は牧雄のすぐそばに来た。
それからしばらく黙り込んだのちに、「帰ろう」とだけ言った。

しかしその言葉は震え、不自然で、牧雄はさらに胸を締めつけられた。
牧雄が黙っていると、

「ね、帰ろう」

と再度、試みかけてきた。
牧雄は口を開いた。

「信じてもらえないかもしれないけど・・・あんな事するつもりはなかったんだ。少しも、全然・・・」
「とにかく、帰ろう」

彰子は、歩き始めた。
牧雄はそれでも立ち上がれず、彰子がぬかるんだ地面を踏む足音が遠ざかるのをただ聞いていた。

しかし彼女が足を滑らせて短い声を上げるのを耳にして、ようやく腰を上げた。
吹く風は痛いほど身にしみるのを感じながら、距離を置きつつ牧雄は彰子の後を追った。

そして造成工事現場の外れ、公社住宅へ向かう道路の境の鉄柵まで来た時、彰子は立ち止まって振り向いた。
防犯灯の黄色い明かりの下でその顔には赤みがさしつつ、作り笑いでない微笑が浮かんでいた。

牧雄はぎょっとして足がすくんだ。
けれども彰子は穏やかな微笑をたたえつつ、言った。

「一緒に歩こう」

牧雄はどうしたものかと迷ったが、恐る恐る歩み寄っていった。
そばまで彼が来るのを待ってから彰子は家へ向けて歩き始めた。

牧雄は彰子が手に提げている荷物の中からせめて自分の分だけは取り戻そうとした。

「あの、僕の荷物は自分で持つよ」
「ん? あ、はい」

彼に紙袋を手渡しながら彰子は小声で言った。

「さっきは本当にびっくりした」

牧雄はうつむいた。

「私、怖かった。恐ろしかった。どうなるんだろう、何されるんだろうって生きた心地もしなかった。優しい牧雄くんがあんな事するなんて、思いもしなかった」
「本当に悪かった。ごめん」
「もう、いい・・・自分で止まってくれたから。だけど、もしあのまま、あれ以上続けていたら、私、絶対に牧雄くんの事を許さなかったかもしれない。嫌いになって絶交していたかもしれない・・・」

牧雄は足が前に進まなくなった。
次第に彰子に遅れていった。

すると、彼女は振り向いた。

「だけどね、牧雄くんに好きだと言われた時は、本当に嬉しかった。私も、牧雄くんの事がずっと前から好きだったから」

思いもよらぬ彰子の言葉に、牧雄は胸が温かくなり、傷付いた心が急に癒されるのを感じた。
彰子は笑いながら、涙声になった。

「本当はね、私も牧雄くんに抱かれたい・・・お互いに素のままで抱き合っていたいと思ってる。けど、それは今じゃない。それより前にいろいろとしなきゃいけない事も多いと思う。もっともっと、お互いに大切に思う心を深めてからでもそれは遅くはないと思うし、そうした方がもっと私たちお互いの気持も深まると思う・・・」

そこまで彼女が言った時、公団住宅の方から歩いてやって来る人影があった。
その人影は、前方にぽつりと立つ電柱に取り付けられた防犯灯の黄色い明かりの下に入った。

彰子が身を強張らせて緊張する気配が、電気が伝うように牧雄の方まで届いてきた。
彰子の祖父だった。

ただ、ふだんからの気難しそうな顔に、不安と焦りの混じった感情を浮かべているのが遠目にも分かった。
彰子は足を止めた。

ちょうど、手前側の防犯灯の下だった。
祖父も彰子を認めた。

「彰子!」

祖父は目を見開き、足をもつれさせながら彰子に飛びつくように駆け寄った。
牧雄は思わず半歩だけ身を引いた。

祖父は彰子の前まで来ると両手で彼女の肩を掴み、怒りにも似た眼で見据え、そして次の瞬間、表情は崩れた。
彰子を抱きしめ、白い無精髭の生えた顔を彰子の頬にすり寄せながら、祖父は言った。

「心配した、心配したぞ。遅くなるなら遅くなるって、どうして家に電話しなかったんだ。いくら牧雄くんが一緒でも、事故に遭ったんじゃないかと心配したぞ。・・・だけど良かった、無事に帰ってきて本当に良かった、良かった」

牧雄は半ば茫然としながら、そして彼自身どうしたら良いのか分からないまま、祖父の腕の中でもみくちゃにされる彰子を眺めていた。

(私も、牧雄くんの事がずっと前から好きだった)

ただ黙って眺めながら、彰子の言葉を心の中で反芻していた。

やがて祖父は気が治まり、3人は並んで公団住宅の方へ戻った。
彰子の家の前で、別れぎわ、階上へ向かう牧雄に祖父は言った。

「牧雄くん、これからも彰子のことをよろしく頼む」

何の気無しに出てきた言葉かもしれなかった。
けれども牧雄はどぎまぎし、彰子も照れたように微笑みながら下を向いた。

あるいは、祖父にとっては何かの重大な意味をはらんだ言葉かもしれなかった。
知らず知らずのうちに、自分の生命に残された時間を感じ取っていたのだろうか。
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