売り言葉に買い言葉

菅井群青

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28.森くん?

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「悪かったな、車用意してくれたのにな」

「いえ、よかったです。去年は三人も送り届けましたから助かりました……じゃ、社用車戻してから帰ります」

 澤は上司に挨拶をすると忘れ物がないか最終チェックの為に店内へと戻った。先ほどまで人で溢れかえっていた座敷は寂しく、空けられたジョッキの数を見て澤は感心した。毎度のことながら皆の飲みっぷりの良さに驚く。確認をして車に戻ろうとしたところで手洗いの壁に寄り掛かったまま動かない風香の姿を見つけた。まだ帰っていなかったらしい……。

「あの、渡辺さん……お疲れ様です、大丈夫で──」

「あ、うんうん! 元気だよぉ」

 頬を赤らめふにゃりと微笑む風香に澤が固まる。酒を飲んでいないはずの風香がなぜこんなにも酔っているのか分からず戸惑う。確かに十分ほど前に会計を行った時にはしっかりと受け答えをしていたはずだ。その後に一体何が起こったのか──。
 澤は風香の腰に手を回し体を支えると声を掛けた。

「ちょ……渡辺さん……しっかりしてください」

「しっかり者ぉ」

 風香は握り拳を振り上げると楽しげに大声で笑い出した。澤は車に風香を押し込むと運転席に乗り込んだ。今年は誰も送り届けなくて済んだと思っていたのにまさかの伏兵がいた。風香はオレンジジュースと間違ってグラスたっぷり入ったチューハイを一気飲みしていた。走り回る風香を不憫に思った誰かが注文し置いてくれたようだが……後の祭りだ。喉が渇いており一気に飲んだので酒を飲んでいることにも気が付かなかったせいでかなりの量を摂取した。

 助手席に座らされた風香は大人しくなり澤をじっと見つめていた。その瞳は潤んでいて物欲しいそうに見える。澤はいつもと違う風香の色香に息を呑む。無自覚だろうが少し開いた口元を見てしまい澤は困ったように笑った。

 まさか……こんな事になるなんて……。これはチャンスなのか? だめだ。しっかりしろ。

 澤は風香のシートベルトを装着しようとすると風香が顔を上げて澤の瞳を見つめた。澤の胸は高鳴り始めた……いけない事だと分かっていても引き寄せられるようにゆっくりと風香に唇に近付く。もう少しで触れ合いそうになると風香は澤の頭を両手で掴んだ。酔った風香は視界がぼやているのか目を細めて澤を睨む。それまでのロマンチックな雰囲気は一蹴した。頭突きをされそうで澤は身構える。

「あ……あの──」

「……貴弘」

 貴弘

 風香の口から出たその名前は澤の脳裏に刻まれた。もしかしなくてもこの男の名は恋人か、好きな人の名だろう……。澤は風香に振られるのは分かっていた。気持ちを伝えた時の風香の申し訳なさそうな表情で分かっていた。でも、諦めきれなかった澤は返事を貰うのを先延ばしにし続けた。少しでも自分の事を長く考えて欲しかった。
 風香は澤を解放したがその表情は暗かった。

「あんたなんて……大嫌いだから、バカ……」

 風香は寂しげにそう呟いた。言葉と表情が合っていない気がした。風香が眠った事を確認すると澤は車を発進させた。一緒にペットショップに行った時に最近引っ越した話を聞いていた。そのマンションの近くの美味しいカレー屋の話で盛り上がった。まさかその時の会話が今役に立つとは思わなかった。

 風香が住んでいると思われるマンションの前に車を停めると風香の肩に触れた。少し揺らすと風香の黒髪が動いた……髪の束の間から風香の白い肌が見えて澤は手を離した。密室で二人っきり……しかも相手は無防備だ。もっと触れていたい気持ちはあるがそれは間違いだ。澤は息を吸い大きな声で風香を呼んだ。

「渡辺さん! 起きて!」

「あ、あれ? ここって……」

 風香が目の前のマンションを指差して可愛く首を傾げている。どうやら間違ってはいなかったようだ。似たようなマンションが意外にも多くあり悩んだが合っていたらしい。
 風香が澤に気づいて瞬きを繰り返す……自分がなぜ車に乗っているのか、どうして意識が朦朧としているのか分からずぽかんと口を開けている。店の時より酔いが覚めているようだ。

「澤、くん……だよね」

 風香は状況を飲み込むと額を叩いて頭を覚醒させようとしているがまだ酒が抜き切れないようだ。澤は心配そうに風香の顔をのぞいた。

「帰り道なので大丈夫です。一人で帰れますか?」

「ごめんね、ほんと……大丈夫」

 風香は慌てて頷くと車を降りた。澤に深々とお辞儀をしてお礼を言い微妙に体を左右に揺らしながらマンションの中へと消えていった。車を発進させてすぐに澤は車を停車させた。後部座席に自分の上着と一緒に風香のコートを置いたままな事に気が付いた。

「あ、しまった……」

 澤は慌ててマンションに引き返すとエレベーターは四階に止まったままだった。さっき別れたばかりだ……きっと四階が住まいだろう。澤はすぐにエレベーターに乗り込み四階ボタンを押した。

 間に合うといいけどな……。ダメだったら週明けか……。

 四階に到着して廊下を進むと奥のクリーム色のドアが開いていた。そこには渡辺さんともう一人部屋着姿のままの男がいた。抱き合う二人を目にして思わず立ち止まった。相手の男が俺に気付き鋭い視線を向けた。今時の精悍な顔立ちをした男は渡辺さんを部屋の中へと連れていくとドアを閉めて俺のそばまでやって来た。目の前まで来ると随分背が高く威圧感がある。男は話しかける訳でもなくただじっと俺を見下ろしたままだ……。

「…………コート、ですか?」

「……あ、そうです……お願い、します」

「すみません、ありがとうございます」

 コートの受け渡しが終わって変な空気が流れている。同じ階の住人が二人の横を通り過ぎていくが二人は会釈をしてそのまま動かなかった。廊下の薄暗い照明が二人を照らしている。貴弘は無表情のまま何も話さない。澤も貴弘もまさかの展開にどうすればいいか分からなかった。

「…………」
「…………」

 沈黙が続く。

「あ、俺……同じ会社で……」
「知って、ます……風香から聞いてます。その、特別んですよね」

 澤はまさか自分のことを話しているとは思わなかったので驚いた。この人は恐らく貴弘さんなのだろう……下の名前で呼び合っている二人の関係にショックを受けていた。薄々は分かってはいたが先程の抱擁シーンや本人を目の前にすると凹んだ。貴弘は澤の様子を見て目を細めて長く息を吐いた。

「もう、遅いので……森くんが送ってくれたと伝えておきます」

「あ、はい……よろしくお願いします、失礼します」

 貴弘はお辞儀をすると玄関のドアが閉まった。澤は緊張がようやく解けて溜息をついた。澤はエレベーターに乗り込んで壁にもたれ掛かった。この狭苦しい空間がやけに居心地が良かった。エレベーターが動き始めてようやく変なことに気が付く。


「森……くん?」

 俺、名前を間違われたか? 確かにさっき……森くんって言ったよな? ま、いいか。

 澤はまさか自分が森という名の風香のセフレと勘違いされているとは夢にも思わなかった。



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