忙しい男

菅井群青

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帰宅

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 あくる日、私はひとり暮らしの部屋ヘと戻る事にした。着替えが無かった事もあるが、なにより記念日の日に捨てた食べ物を明日の朝にゴミに出さなければいけない。意外に現実的に物事を考えられるものだと自分でも思う。

 今日も一日しっかりと働いて気怠い体で階段を上り部屋へと向かう。鍵を開けてすぐに変化に気付く……部屋がきれいだ。ゴミ箱の蓋を開けてみると殴りつけるように入れたはずのケーキやご馳走たちもなくなっている。皿はきれいに洗われて水切りに置かれていた。

 憲司──憲司だ。憲司が、この部屋に来たの?

 合鍵を使って部屋に入ったのだろう。五年の付き合いで彼が合鍵を使って入ったのは初めてだ。いつも私が彼を待ち、おかえりと迎え入れていた。なんの意味もなさない合鍵が使われたのが別れてからだなんて、なんて皮肉な話なんだろう。

 きれいになった部屋の真ん中で座り込むと膝を抱えて深呼吸をする。この部屋で憲司の痕跡に触れて一気に辛くなる。税理士らしくきちんと皿の大きさ別に水切りに並べるところや、台拭きを干す時にきちんと端のバランスを取るところ……以前は笑いながら「憲司らしいね」なんて言っていたが今はそれを見ると悲しみしかない。

 ピピピッピピピ──

 携帯電話の着信が鳴る。カバンから取り出すとそれはやはり憲司だった。

 逃げていてもダメなのだろう、通話ボタンを押すと携帯電話を耳に当てた。

「もしもし」

『里美……ようやく出たな』

 久しぶりに聞いた憲司の声だ。記念日前もなかなか会えなかったし、付き合いが長いと恋人同士のように長時間の電話もしなくなった。電話の向こうの憲司は怒っていないようだ、ただ、ゆっくりとした口調で話すだけだった。それが余計に辛かった……。憲司に何も響いてないようで、自分だけがあらゆる感情に振り回されているようで悔しい。

「なに? 切るよ」

『まて、いや、ごめん……記念日、行けなくて……ご馳走ダメにして……』

 憲司の声は本当に申し訳なさそうで、辛そうだ──でも、私は騙されない。

 胸がひんやりと冷気に包まれていく。驚くほど心臓が音を立てているというのに。

 記念日に知らない女と歩いていたね。
 ずっと寂しかった。
 会いたいと言っても「ごめんな仕事だ」といつも同じ答えのあなたをじっと待ち続けた。もう十分私は待った。もう十分だ。もう、もう……放っておいて欲しい。

「もういいの、終わったことだから」

 私の声に電話の向こうで憲司が息を飲むのが分かった。傷ついた? 驚いた? ごめんね。でも、私ももう自分を守るために必死なの。

『終わってない。別れないから、俺』

 何を言っているのだろう。里美は何も言わずに固まる。
 別れない? 私のことをまだ好きだと思う気持ちが残っていることが信じられない。

『俺は本当に里美のこと──』
「やめて……」

 憲司は弱々しい里美の声に黙り込む。いつも優しく笑顔の絶えない里美の声だと思えなかった。

「憲司は私を捨てた。とっくに捨ててた……すがっていたのは私でそれを止めるタイミングは私が決めるの。記念日の日に違う人といたくせに、仕事なんて終わっていたくせに、あの日に笑顔でいたくせに!」

『さ、里美……違う、俺は──』

「真実なんて必要ない。本当のことを知ったって終わりは終わり……さようなら」

 一方的に通話を切ると里美は荒くなった呼吸を止めるため胸を拳で叩く。何度も何度も叩くがどんどん涙が溢れ出して止まらない。視界が歪み生温い涙が頬を伝う……。

「う……ふう……うう……」

 大人になってこんなに泣くのは初めてだ。嗚咽を抑えることもできず肩が揺れる。昨日も、その前も両親がいるからと堪えたがとうとうたがが外れたように感情が爆発した。

 あぁ、どうかもう終わりにしてほしい。どうか私を解放して──あなたにもう振り回されたくないの。
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