財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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82.甘い時

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 美智が黒のフードを被り宿舎を抜け出した。美智は寒そうに肩を竦めるとはぁっと温かい息を夜空に向かって吐いた。案の定吐いた息が真っ白になった。今夜は随分と冷え込んでいる。美智は階段を駆け上がりいつものように三回拳でドアを叩いた。美智の気配を察知していたのだろう、木戸はすぐにドアを開けた。

「おぅ、おかえり。何か掴めたか?」

「いや、収穫無し。あの猿…どこに隠れているんだか……。ねえ、やっぱりどこかの組の人間なんじゃないの?」

「真守さまはその辺りは慎重なはずだ。ヤクザ関連とはツルまねぇよ」

 今日は美智は夜の街へと出掛けていた。あの日ホテルの部屋にいた男はあれから真守の周りに現れなかった。あの一件で警戒して会うことを避けてしまっているらしい。木戸も美智もどうにか突破口はないかと試行錯誤していた。まずあの男の素性を知るために街に聞き込みに行ったが空振りだ。名の知れた資産家でも企業の重役でもない。ビジネスがらみの男のはずだが正体は不明だ。

「ホテルの防犯カメラなんとか見せてもらったけど地下駐車場にはいなかった。どうやら公共機関を使っているみたいだ。これ以上は東郷の名を出しても追えないしな……こういう時に警官だと良かったけどな……」

「偽物の警察手帳でも作れば? 本物持ってたんだからうまく作れるんじゃない?」

「あり得ねぇ、バレバレじゃねぇか。元同僚の耳に入ったら泣かれちまう」

 木戸は机の上に置いていた地図を丸めて戻していく。美智はベッドの端に座ると考え込むように腕を組んだ。

「ねぇ、携帯電話の情報とか盗めないの? ほら、パソコンの中とか スパイ映画みたいにさ」

「出来たらやってるっつぅの。盗みたいけど近づけないだろ……。直接屋敷に忍び込めねぇだろ。あの屋敷も常に使用人がいるからな……」

 美智が木戸を睨むと大きく息を吐いた。

「探偵でも雇いたいな……」

「金があったらそうしたいけどな……ん? そうか、そうかもな」

 木戸は慌ててパソコンを開き何かを調べ始めた。


 ◇

 雫は額の中央を指で押し真剣な表情で唸り続ける。何かを引き出そうとしているがどうにもこうにもうまくいかない。誠大はスイス製の高級腕時計の秒針を見つめる。滑らかな短針の進みを眺めつつ雫を追い詰める。

「二十秒経過……降参でいいか?」

「ちょっと待ってください! もう少しで出てきそうなんです……うううう、う……ウガンダ!」

 額に押し当てていたのは記憶を呼び覚ますツボらしい。雫はソファーから立ち上がった。

「ほう、……メキシコ」

「しまった! 抜けてた! サルサの国忘れるなんてどうかしてた……待って、ブータンは言ったし、インド……あぁ……どうしよう」

「何でアジア系の国しか言えないんだ?……十秒経過」

 二人はいつものように脳トレ、いや、調教中だ。今日は古今東西を二人で始めた。次第にお題が高度なものになり世界の国々というお題で交互に国名を出し合っている。しかし圧倒的に誠大が有利だ。脳を絞るように悩む雫をよそにスラスラと国名が出てくる。雫はもう瀕死寸前だ。案の定雫がタイムオーバーで古今東西は呆気なく終了した。頭を使うゲームは雫は圧倒的に弱い。

 誠大が優雅に足を組み紅茶を口に含むと雫が意を決したように誠大に話しかけた。

「あの、誠大さま、あの……明日の休みなんですけど……おにぎりを作るのでジャックと遊びませんか? 最近遊べていないですし。その……話もあるんです。いや、もし良かったらなんですけど!」

「え? ああ、そうか……。そうしよう」

 顔を真っ赤に染める雫を見て、もしかしたらあの時の告白の返事かもしれないと思った。つられるように誠大も耳まで赤くなった。誠大は雫の様子から雫が気持ちに応えてくれるのかもしれないと淡い期待を抱いた。恥ずかしそうに笑う雫は可愛くて誠大は視線を逸らした。

「とりあえず明日お願いしますね。おにぎりは──」
「調教師……」

 誠大は雫の手を取ると親指で雫の手の甲をなぞった。ただそれだけなのに雫は蝋人形のように固まり耳まで赤くなった。誠大が雫を引き寄せると頬に触れて目を細めた。まるで子犬のような表情に雫は胸を撃ち抜かれた。

「今じゃ……ダメなのか?」

「今は、その……調教の時間だし、ちょっと違うっかなって……と、ともかく明日ですから! 明日! お願いしますね!」

「真面目だな。君らしい……」

 雫が無意識に息を吐き、火照った顔を手で仰ぐ。まるでその様子が告白の返事のようで誠大は吹き出して笑った。てっきり意識されていないと思っていたがこうして見るとそれが間違いだったと気付く。自分と同じように顔を赤らめているのがその証拠だった。

「……可愛いやつ」
「え、ななな、何を──」

 誠大は雫を抱きしめると髪を優しく撫でた。前髪を除けると額に優しくキスをした。誠大は想いを込めてキスをした。

 好きだ。自分でもバカだと思うが……君ともっと一緒にいたい、笑い合って遊びたいんだ。

 誠大の唇が離れると、慌てたように雫が誠大の胸板を押した。その表情に誠大は思わず笑ってしまった。雫がこんな表情をしているとは思わなかった。瞳を潤ませて顔を赤らめているなんて想像もしていなかった。雫が恥ずかしさをごまかそうと肩を叩こうとすると誠大はその手を掴んで引き寄せると頬にキスをして離れた。不意打ちのキスに雫は威嚇する猫のように身体中の筋肉を強張らせた。

「な……ず、ずるいですよ……明日って言っているのに……」

「惚れた女が可愛いんだから仕方がないんじゃないか? 唇じゃないんだ。譲歩したぞ」

「いや、惚れ……可愛く……譲歩ってなんだ! 何なんだぁ! 何者だぁ!」

 誠大の攻撃に焦って訳の分からない言葉を返してしまう雫だった。

「俺のことが嫌いなら殴ればいいじゃないか? 君の平手打ちの威力は経験済みだ……さぁ、やるか?」

 誠大が自分の左頬を雫の方へと差し出した。そのきめ細かな肌に色気のある横顔と唇のラインに雫は息を呑んだ。女が男に欲情するのは本当だったらしい。雫はその唇に触れたくて仕方がなかった。思わずキスしそうになってしまう。

 ダメだ! 痴女はダメ! 痴女だけは……。明日って決めたんだもん、明日だ、明日! 明日言うんだ!

 雫が唇を噛み締めて震えると勢いよくソファーから立ち上がった。

「明日って言うまで、キスしないでください! いいですね!? 絶対ダメですよ! もう、知らない!」

 雫は大股で部屋を出て行った。誠大は一人残されて呆然としていた。勢い余って雫が告白の返事をして出て行ってしまった。その言葉に気付き誠大は一人肩を揺らして笑った。こんな間抜けな人間がいるなんて、こんなカッコ悪くて愛おしい人間がいるなんて信じられなかった。

 明日私も好きだって言うまでって……さすがだな、調教師……。

 誠大は嬉しくて顔を覆ったまま暫く動けなかった。
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