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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む皇女リリーは泣いたことがない。父である先帝ルキウスが戦場で斃れたときも、母ルシアが餓死刑に処されたときも、一粒の涙すら流さなかった。眉一つ動かさないリリーを見て、人々は「なんと酷薄な女か。あの女は人としての感情が欠落している」とささやきあった。
人々の噂をよそに、思春期を迎えたリリーは恐ろしいほどに美しくなってゆく。陽を浴びて白銀に染まる銀髪、サファイアのように輝く碧眼、さくら色の薄い唇、そして透き通るように白い肌としなやかな肢体……リリーを彩るすべてが完璧だった。
リリーの美しさは現皇帝ガイウス大帝の妃妾も霞んでしまうほどで、リリーが宮中を歩けば誰もが見とれて足を止め、微笑むと灰色の宮殿が華やいだ。
幼さの残る顔で無邪気に微笑んでいたかと思えば、ときとして口元に妖艶な笑みを浮かべる。男たちはそんなリリーの虜となった。冷酷な女と言われれば言われるほど、「俺がリリー殿下に愛というもの、情熱というものを教えてやる」と夢中になった。実際、リリーには大貴族、大商人の息子たちとの噂が絶えない。しかし……。
リリーは誰かに心と肌を許すことがなかった。それどころか、「リリーと寝所を共にしたい」と熱望する男たちを手玉にとり、その領地や財産を貢がせた。
10代とは思えないしたたかさで男たちを翻弄し、すべてを取り上げると容赦なく捨てる……リリーのせいで領国を失い、断絶した家名は4つ。大店を畳んだ商家は3つにおよんだ。
「わたしはリリー殿下に騙された!!」
と、リリーの横暴を朝廷に訴える者もいた。しかし、リリーは皇位継承権第5位の皇女であり、現皇帝『ガイウス大帝』が溺愛する孫。ガイウス大帝は「自ら進んでリリーへ寄贈したのだ。リリーに問題はない」として取り合わなかった。
それに……。
リリーの隣にはいつも長身の女が立っている。リリーが華のある美女なら、こちらはどこか陰のある美女だった。艶やかな黒髪を束ね、腰には年に数本しか鍛刀されない希少なゲルン鋼でできた長剣を差している。まるで影のようにリリーにつき従い、切れ長の目をいっそう細めて周囲を警戒していた。
女の名前はソフィア・ラザロ。帝都でも指折りの名門貴族、ラザロ家の一人娘でリリーの幼馴染。皇女親衛隊の隊長で『四聖』と称されるほどの剣士だが、それよりも黒い噂のある人物として有名だった。
ソフィアはリリーに仇なす存在を絶対に許さない。いかなる理由があっても、冷酷非情、無慈悲に粛清する。その残虐性は拷問官も顔を背けるほどで、リリーを糾弾した貴族が無残な斬殺死体で発見されることもあった。ソフィアの長剣は暴力と恐怖の象徴だった。
「ソフィアに物事の善悪など関係ない。あるのはリリー殿下への狂信的な忠誠心のみ。あれこそ、まさに『リリーの冷たい狂剣』。余計なことは言わぬ方がよい……」
と、誰もがソフィアの目と長剣を恐れた。
リリーとソフィア、二人の美貌はどうしても人々の耳目を集めてしまう。人々は畏怖と羨望が入りまじる複雑な感情を抱いた。
「リリー殿下は男たちから領国と財産を奪い、破滅させる。ソフィアが『リリーの冷たい狂剣』なら、リリー殿下は……」
どこで誰が聞いているかわからない。ソフィアの知るところとなれば不敬罪の名のもとに斬殺されてしまう。それでも、人々は隣人の袖を引いた。
「やはり、『傾国姫』。いつか、あの二人は神聖グランヒルド帝国を滅ぼすだろう」
国を滅ぼすほどの美女……人々はリリーを『傾国姫』と呼んだ。人の口に戸は建てられない。宮殿や巷で語られる陰口を知ったとき、リリーは薄い唇の端を上げてクスクスと笑った。そして……。
「傾国姫とは面白いわね。そこまでわたしを危ぶむのなら、わたしは降嫁して帝都グランゲートを出ましょう」
と、言いながら宮殿の窓へ視線を移した。深い青色の瞳には天を衝く巨大な塔が映っている。広場にそびえ立つ塔は『昏い静寂の塔』といい、太古から伝わる歴史書によれば、星が誕生した神話の時代から存在するという。
黒光りする滑らかな壁面はどんな鋼や炎も寄せつけず、いつも雲を従えて帝都に長大な影を落としている。その姿は神聖グランヒルド帝国の威信そのものだった。
「神話を語る『昏い静寂の塔』よ……」
リリーはサラサラと流れる銀色の髪を耳へかけながら、塔が古い知人でもあるかのように語りかけた。
「そこからわたしを見下ろしているがいい。今にお前は帝国の墓標となる」
リリーの声はどこまでも冷たく、宮殿を支配する静けさに溶けこんでゆく。傍らではソフィアが静かに頷いていた。
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