扇屋あやかし活劇

桜こう

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三章

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 富川町の表通りを、すずめは小さな風呂敷包みに収まった引越し荷物を抱え、扇屋目指して歩いていた。
 天下泰平、安寧な時代を謳歌する江戸の町はどこも人で溢れ、活況を呈している。
 すずめは駕籠かごに乗った武家の娘の美しさに見とれたり、棒手振ぼてふりの担いだ桶いっぱいの魚に目を奪われたり、風車売りの店先で一番大きな風車に、ふ~と息を吹きかけたりしながら、朝も遅い頃合になって、ようやく扇屋へ続く細い路地の前に立った。
 奉公勤め初日の今日は昼までに来てくれればいいと、店の主人夢一……ではなくましろが話してくれた。その際、引越しの荷が多いならましろもはちみつも手を貸すとまで言ってくれたが、すずめはそれに感謝しつつも断った。新米女中のためにそこまでしてもらったら罰当たりだし、なにより手伝ってもらうほどの荷物なんてすずめの身の回りにはなかった。
 それでも昨日一日だけで、ましろもはちみつも親切で心根の優しい娘たちだとわかり、すずめはほっとしたし、仲良くできそうで嬉しくもあった。
 しかし問題は……。
 路地の前ですずめはしばし立ち止まっていた。
 そう、問題はあの男――衣音夢一。
 あの男の下でやっていけるのだろうか。もちろん女中の分際でおたなの主人が気に食わないなどとは口が裂けても言えない。口答えなどできるわけもない。
 昨日はしたけど。
 まあ、あれは奉公が決まる前だから関係ないということで。これからは絶対にしてはいけない。したら放り出されるだけだ。お店の旦那様には絶対服従。それが女中というものだ。すずめはそう教えられてきた。
「う~ん」
 でもなあ、あの男、いちいち頭にくるのよね。たとえば、ほら…………昨日の洗濯板発言?……洗濯板~!? なんなのよ! 思い出すだけで腹が立つ! わたしにだって胸ぐらい――あるけど、たしかに小さいな……て、自分で言ってどうすんのよ!?
「ああ、もう忘れよっ」
 すずめは自分に言い聞かせた。
 旦那様の性格なんて関係ない。今日から気分一新。新しい奉公先で新しい生活がはじまる。何事も前向きに明るく、すずめは頑張るんだ。
 路地の前、よしっと心の中で気合を入れると、胸を張って大きく足を踏み出した。
 つぎの瞬間、どしんっとなにかにぶつかり、すずめは小さな悲鳴とともにしりもちを付いた。
「おっと、こりゃすまねえ。大丈夫かい? 嬢ちゃん」
 腹に響く声が頭上から降ってくる。見上げると熊のような男が立っていた。男は丸太のような腕を伸ばしてくると、造作もなくすずめを持ち上げ、立たせてくれた。
「怪我、ないかい?」
 男はすずめと目の高さを合わせるように背を曲げ、顔を覗きこんでくる。
 か、顔、怖っ……。
 つのがあったら、鬼よりも鬼らしくなりそうな男の顔に肝を冷やしつつ、すずめは慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、すみません。きちんと前を見てませんでした」
「へっ、おおかた食いもんのことでも考えてたんだろ? 食い意地張った餓鬼がよだれを垂らしてやがるぜ」
 すずめの下げた頭に向かって、忘れようにも忘れられない、小憎らしい声が浴びせられた。
「よ、よだれなんか――」
 垂らしていない! と怒鳴りそうになるのをぐっと堪え、すずめは顔を上げると笑顔を見繕った。
「お、おはようございます……旦那様」
 くぅ~、なんだか屈辱。
 熊のような男の背後で、嘲笑を浮かべている夢一に向かって、すずめはどうにか安穏に挨拶を返した。
「ん? なんだこの嬢ちゃん、知り合いか?」
 男が訝しげに眉をひそめ、はたと思い当たったように自分の手を叩いた。
「おお、そうか。嬢ちゃんが今日から扇屋で働くという……」
「すずめと申します」
 すずめは男に改まってお辞儀をした。男は「うむ、礼儀正しく、かわいらしい娘さんじゃないか。夢坊の店にはもったいねえな」と、感心したように頷く。
 夢坊?
 不思議顔のすずめに、男は着物の襟を正すと自らの名を告げた。
「俺は、夢坊の叔父で、我聞がもんという。この辺一帯を取り仕切っている岡っ引きだ」
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