誰からも愛されないオレが『神の許嫁』だった話

野良猫のらん

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第十七話

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 何日も、夢中で山神に文字を教わった。
 彼の教え方は決して下手ではなかった。丁寧すぎるくらいに、丹念に着実に文字を教えてくれた。
 
「基本文字だけで文を書いてみたよ。読めるかい?」
 
 紙の上にさらさらと書いた文字を、彼が見せてくれた。
 
「えと……旅人、西へ、行く。読めた!」
「すごいよウエル、正しく読めているよ!」
 
 一つの文の意味が分かった。その瞬間、喜びで胸がはち切れそうになった。
 数日間、学んできたことがようやく小さな実を結んだ。それだけで、こんなにも嬉しいだなんて。
 
「山神、ありがとう!」
 
 ウエルは満面の笑みを見せた。
 
「ウエル……! うん、私も嬉しいよ!」
 
 彼も喜びに震えているように見えた。気のせいだろうか、最近は急速に人間らしくなったように思える。
 
「へへ……なんだか懐かしいな、こういうの」
「おや、以前にもこういう経験が?」
「山跳び修行のときだ。こうして一つ一つ教わって、だんだんと色んなことをできるようになっていったなって」
 
 ウエルは過去を思い出す。
 
 五歳で両親が流行り病で亡くなり、山跳びの集落に引き取られた。年上の山跳びたちに育てられ、八歳から仕事を開始した。
 もちろん、最初から大人たちと同じ荷物は背負えない。最初はほとんど足手まとい同然だった。わずかな荷物を任せてもらいながら大人の山跳びの横を歩き、道すがら山で死なないようにする方法などさまざまなことを教えてもらった。
 初めは山道を往復するだけで、死ぬかと思うほど疲弊した。集落に帰り着くときには、大人の山跳びの背におぶられていた。自分が情けなかった。
 初めてひとりの力で山道を往復できた日は、誇らしくて仕方なかった。
 ウエルはその日のことを思い出していた。
 
「今思えば、幼い頃のオレは本当に足手まといだったな。大人の山跳びたちは本当に苦労しただろうな。オレは文字通り荷物になっていた。……なのに、いつも優しかったな。そりゃ、危ないことしたら拳骨食らったけど」
 
 いま思えば、その拳骨にすら愛を感じる。

「あ……そっか」
 
 愛なんて無縁だと思っていたのに。愛してくれていたのは、両親だけではなかった。
 ぽろりと、涙が溢れた。
 
「ウエル、どうしたんだい!?」
 
 いきなりの落涙に、彼は慌てふためいた。
 
「ふふっ、違うんだ……ただ、オレってとんだ馬鹿だったんだなって気がついて」
 
 自分で勝手にハリネズミみたいに尖って、与えられたものに気がつこうともしていなかった。
 なんという愚か者だろう。
 集落で必要とされていなかったかも、なんて。
 大人の山飛びたちは必死にウエルに知識を伝授し、ウエルを生かそうとしていくれていた。それが愛でなければなんなのか。必要とされている証明でなければ、なんなのか。
 
「大丈夫かい、ウエル? ウエルは馬鹿なんかじゃないよ」
 
 彼がうろたえているのがおかしかった。
 ウエルは涙をこぼしながら、くすくすと笑った。
 
「ウエル……もしかしてこれは、嬉し泣きかい?」
「そうかもな」
 
 肩を竦めてあげると、彼はやっと落ち着きを取り戻した。
 
「よかった。人の子の情緒は私には難しいよ」
 
 そんなこと言って、最近は随分と理解してくれている癖に。
 
「ウエルが悲しいわけじゃなくて、よかった」
 
 彼の長い指が、頬を伝い落ちる雫がそっと拭った。
 蒼い瞳と視線が合った。彼にまじまじと見つめられ、ウエルは照れ臭くなった。
 
「ウエルは綺麗だね」
 
 山神が、呟いた。
 
「えっ?」
 
 信じられない言葉に、頬が熱くなる。
 こんな自分のどこが綺麗だというのか。
 
「涙も綺麗だし、ウエル自身も綺麗だ。真っ黒な睫毛がどこまでも長く、上を向いている。君の意志の強さを表しているかのようだ」
「な、なに言ってるんだよ、馬鹿!」
 
 真面目な言葉に、どんどん体温が上がっていく。耳まで真っ赤になってしまっているだろう。
 
「そんなこと言ったら、お前の方が睫毛が長いだろ! 真っ白だから長さが目立たないだけで!」
 
 ウエルは言い返した。
 ウエルは山神の純白の睫毛が好きだった。白く透き通っていて細くて、まるで途中で消えゆくように見えるのだ。文字を教えられているときなど、ウエルはよく彼の睫毛を盗み見ていた。
 
「そうなのかい? 自分の睫毛など、気にしたことがなかったよ」
 
 微笑みながら、彼はじっと見つめ続ける。そんなに見られたら、気がおかしくなってしまいそうだ。
 
「おや、ご主人さまとウエルさまは近頃とみに仲がいいようで」
「うわっ!」
 
 急に聞こえてきたヤルトの声に、ウエルは飛び上がらんほどに驚いた。
 振り返ると、にこやかにヤルトが部屋に入ってくるところだった。
 
「ヤルト、邪魔をするな」
 
 山神は不機嫌にヤルトを睨みつけた。不機嫌な彼を見るのは珍しくて、ウエルは目を丸くさせた。
 
「山神、ヤルトに邪険にしたら可哀想だろ?」
 
 ウエルは思わず彼を咎めていた。
 タイミングは悪いが、彼に悪意はなかっただろうに。ヤルトはいつも美味しいご飯を作ってくれるいい人だ。
 
「ウエル、騙されてはいけないよ。ヤルトはね、人の子をからかうのが好きなんだ。面白がるためにわざと人の子を理不尽な目に遭わせたり、逆に途方もない幸運を与えたりしているんだよ。いまだって、邪魔をするためにわざと乱入してきたに決まっているよ。ほら見てごらんウエル、ヤルトはお茶も持ってないじゃないか」
 
 ヤルトを見れば、手に何も持っていない。お茶を運んできたわけでもないことは見て取れた。用もないのに部屋に入ってきたのだろうか。
 
「たしかに人をからかうのは好きそうだけど……」
 
 面白さを優先させそうな気配をヤルトから感じるのは、同意だ。だが、理不尽な不幸を与えていくような存在にはどうも思えない。山神にはヤルトのことがどう見えているのだろうか。
 
「ふふふ、これは心外ですね。決してわざと邪魔したわけではございません。ご主人さまがウエルさまに夢中で気づいていなさそうなので、お報せにきたのでございます」
 
 ヤルトは糸のように細い瞳を、いつも以上に細めた。
 
「お客さまがいらっしゃいますよ」
 
 ウエルは目を瞬かせた。お客さまとは一体なんだろう。こんなところまでわざわざ訪ねてくる者がいるのか。
 ヤルトの言葉に、山神は上を向いた。まるで匂いを嗅ぐように。
 
「……本当だ。彼は相変わらず熱いね」
「彼?」
 
 ウエルはきょとんとした。
 
「ああウエル、私が目覚めたからだろうね。挨拶しにきてくれた神がいるんだよ。ウエルも一緒に行こう。ウエルを自慢するんだ」
 
 山神は微笑んで説明してくれた。彼の微笑に、ウエルは安心した。
 
「けど山神が目覚めたのって、結構前じゃ……?」
 
 こうして彼との生活を初めて、何日も経っている。
 いや、それどころか彼は自分が産まれてからずっと見守っていたと言っていた。そのときから彼は目覚めていたのではないのか。
 ならば二十年以上経っていることになる。
 
「ウエルさま。これでも神の基準では全速力でございます」
 
 思考を見抜いたかのように、ヤルトが答えてくれた。
 
「これで全速力……?」
 
 時間間隔の違いに、ウエルは目眩を覚えることとなった。
 
「それにしても、ヤルトは彼の熱さが苦手ではなかったかな? 大丈夫かい?」
「はい? ワタクシがでございますか? かような脆弱なともし火ごとき、どうということはございません」
 
 ともし火とは一体なんのことだろう、とふたりの会話を不思議に思う。
 
「さあウエル、一緒に行こうか」
「あ、ああ」
 
 神に会うなんて緊張する。
 でも山神だってヤルトだって神なんだし、山神が会って大丈夫だと判断したのだからなにも危険はないはずだ。
 
 ウエルは安心して山神と手を繋いで、応接間へと向かった。
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