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39.旅立ち
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とうとう、クレーネー王国を出る日がきた。
しかし、見送りがつくでもない。人目につかぬよう、ひっそりと旅人に紛れ出ていくだけだ。
行き先はブルーナと話し合った結果、マレの両親の故郷へと向かう事に決めた。
ただし、マレの体力はそこまでない。
途中の村で滞在しながら、小金を稼ぎつつ向かう予定だ。行ってみて、そこに住まうかはまだ決めていない。
北方は寒い国だ。無理であればまた戻って、今まで滞在した村のどこかに落ち付こうと考えている。
幸いブルーナは剣の腕も立つ。マレも薬師としての腕があった。滞在先でそれらを駆使すれば、なんとか生きていく糧は得られそうだった。
多少ではあったが、旅費も支給される。とにかく、これで行けるところまで行こうとなった。
「マレ、あまり荷物を詰めては背負うのに大変ですよ? 背中が痛むでしょう?」
「大丈夫。だって、みんな必要だもの。これくらい平気──」
と、押さえこんだはずのザックの口が、幾ら紐を締めても締まり切らなかった。
中身は薬草に関する本と、薬を作るのに必要な道具の数々。あとは日々の着替えが少々。生活に必要なものは殆どはいっていない。
けれど、どれも置いて行くわけには行かなかった。途中で手に入るとは限らないのだ。必死なマレを見て、ブルーナは笑うと。
「少し、私の方に移しましょう。途中でばてても困りますから」
「ごめん。ブルーナ…」
「いいえ。──ああ、そう言えばアロが見送りに来ると言っていましたよ。玄関で待ってはいかがですか?」
「本当? 良かった。じゃあ、お言葉に甘えて…」
「こちらは私がなんとかしておきます」
「ありがとう! ブルーナ」
マレは声を弾ませ、玄関へと向かった。
アロとはなかなか会えず終いで。最後にやっと会えるとあって、心が浮き立った。
国の外に出てしまえば、もう会うことはできないだろう。
扉を開ければ、すぐそこにアロがいた。
「マレ!」
今、丁度着いたところらしい。マレを見て、飛びつくように駆けて来た。
「アロ。久しぶりだね? 見ないうちに、大きくなったね」
屈んでアロを見つめる。身長もまえよりずっと伸びていた。心なしか面差しも大人のそれになった気がする。
「身長、伸びたんだ! あれからずっと会ってなかったもの…。──ねえ、本当に行っちゃうの?」
「うん…。決まりだからね。アロは──僕のこと、聞いている?」
「うん…。けど、僕は信じない。──だって、僕の知っているマレは優しいもの。僕の知っている中で一番だ!」
「──ありがとう。アロ…」
アロの存在に、いつも救われている気がした。
「ね、最後にあのお唄、歌ってくれる? 忘れちゃいそうだから。いっぱい聞いて覚えたいの」
「うん。いいよ」
マレはアロの手を引くと、木陰に置かれたベンチに座ってそれを歌う。サイアンが歌ってくれたあの子守唄だ。
唄と言っても旋律のみで。ちょっと悲しいけれど綺麗な歌。
──二度とサイアンが歌ってくれることはない──。
「マレ? 泣いてるの?」
思わずこぼれた涙を手の甲で拭う。
「…ううん。なんでもない。ほら、アロも歌って。一緒に歌って覚えよう」
「うん!」
晴れ渡った空には、渡り鳥が舞っていた。もうそんな季節なのだ。黒い影が幾度も視界を横切る。巣作りに忙しいのだろう。
──父ルボルと、サイアンと作った巣箱は、今もそこにあるんだろうか。
そうして歌う事に熱中していたマレは、背後に立った人影に気づくのに遅れた。幾度目かを歌い終えた所で。
「──怪我は癒えたのか?」
唐突にかけられた声に飛び上がるほど驚き、背後を振り返った。
「──」
驚かないはずがない。そこにはサイアンが立っていたのだから。
「…誰?」
傍らのアロが不審げな表情を浮かべる。マレはアロと共にベンチから立ち上がると、
「アロ、お家に入ってブルーナに伝えてきて。──お客様が来たからって…」
「うん!」
アロは小走りになって家の中へと駆けていく。その背を見送った後、ゆっくりと振り返る。
そこには、見間違い等でなく、金の髪を風に揺らすサイアンが立っていた。
✢
「──どうして、ここに?」
「今日の旅立ちを確認するためだ。関所まで見届ける」
確かにブルーナから聞いていた。
だが、それは部下の仕事で、指揮官のサイアンが直々に来るとは聞いていなかった。見れば他に部下の姿もない。一人で来たようだった。
「わかりました…」
沈黙が続く。
サイアンの顔をまともに見ることはできなかった。
──これで最後だと言うのに。
怖くて見ることができないのだ。ぶたれた時の記憶が蘇る。実際の痛みより、胸に刺さった痛みの方がより鮮明だった。
──二度と会うことはないと、思っていたのに。
最後の確認に来たのだろう。もしかしたら、命を奪いに来たのかもしれない。
だから共もつれずに一人できたのか。
──それも、仕方ない。
生きて逃がすつもりはないのだろう。マレはそれでもいいと思った。せめて、サイアンの為に死ぬことができるなら本望だった。
そう思うと、自然と怖さはなくなった。それでようやく顔を上げることができる。
見返したサイアンは、以前より幾分、頬のあたりが痩せた様に見えた。美しい容姿なのは変わりないが、太陽のような明るさがそこに欠けている。
──僕のせいだ。
マレは唇を噛みしめる。
──僕が消えたばかりに、サイアンに辛い思いをさせた。
今さらながらに悔やまれる。あのとき、サイアンの言うことを聞いて、ラクテウス家に帰れば良かったのだ。リーマのことなど放って。
──そうしたら今頃。
けれど、やはりあの時、マレにリーマを捨てていくという選択はなかったのだ。
過去を悔やんだ所で、元には戻らない。もう、あの頃には帰れないのだ。
「ついでに、──これを託された」
そう言ってマレに近寄ると、懐から取り出したものをこちらに差し出してきた。
緑の石のついたネックレスだ。以前、リーマが大切にしていたカフス。
「──どうして?」
これは執事に渡したものだった。サイアンはその石に目を落したまま、
「執事がどうしてもと。自分がもつべきものではないと、託された」
「そうですか…。ありがとうございます」
マレが差し出した手の平に、それが落ちてくる。サイアンが握っていた所為で温もりが残っていた。
ついでサイアンが口を開く。
「…さっきの唄」
その言葉にはっとする。
「アロに──先ほどの少年に歌って聞かせたことがあったのです。…それで、最後にもう一度聞きたいと。申し訳ありません…」
マレはネックレスを胸ポケットにしまうと、居住まいをただした。
唄はサイアンが『マレ』に聞かせたものだ。『リーマ』が勝手に歌っていいものではないだろう。
また怒りを買うのかと、視線を落とせば。
「──そうか」
それだけだった。
顔を上げれば、サイアンは視線を空へと向けていた。視線の先には渡り鳥がせわしなく飛び交う。
「…サイアン様?」
家の戸口に、アロを伴ったブルーナが現れた。サイアンはそれを認め、表情を上官のそれに切り変える。
「出立を見届けにきた。準備はできたのか?」
「はい…。しかし、サイアン様自らとは」
ブルーナに緊張が走る。そっと腰に帯びた剣の柄に手をかけるのが見えた。
「…案ずるな。命を取りに来たわけではない」
腰に下げた剣を見えるようにローブを翻した。ブルーナも同じことを考えたのだろう。その言葉に幾分、緊張を解いたようだった。
マレはブルーナの元へ向かうと。
「──ブルーナ、荷物を。待たせては申し訳ない。…さあ、行こう」
「はい…」
ブルーナは足元に置いた荷物を背負わせてくれる。前より随分軽くなっていた。かなりの量を引き受けてくれたのだろう。
とは言っても、ブルーナとマレでは鍛え方が違う。マレの大変は、ブルーナにとってさほどのことではないのだろう。
ブルーナは自分の荷物を軽々と背負うと、そばにいたアロを振り返り。
「アロ、この鍵を先生に渡して置いてくれるか? ありがとうと伝えて置いて欲しい」
今も院内で忙しく立ち回っているはずで。そのため、すでに先に別れは伝えてあった。アロは大きく頷くと。
「うん、わかった。ブルーナ。──それと…」
アロはマレに向かい。
「マレ。僕、大きくなったら、きっと会いに行くからね? お手紙、絶対よこしてね?」
「うん、分かったよ…。手紙は先生の所へ送るから。先生がきっと伝えてくれるよ。──それじゃあ」
マレと呼ばせているのを、咎めないだろうかと気になったが、サイアンは別段気にした様子はなかった。腕組みし、ただこちらのやり取りを見つめている。
「マレ! マレのこと……大好きだよ!」
そう言ってアロが首筋に抱き着いてきた。それを屈んで抱き返す。
アロはリーマがどんな人物か、母親や周囲の大人から聞いているはずだった。けれど、出会った頃とちっとも変わらない。
それがどんなに自分を救ったか。自分のしたことは間違っていなかったのだと思えた。
「…ありがとう。アロ」
滲みそうになった涙をこらえ、アロの頭を軽く撫でてから身体を離した。
✢
アロに見送られ、間借りしていた医者の家を後にした。
ここは街はずれで、関所にも近い。一時間もしないうちにそれが見えてきた。
街道の入口に頑丈な木製の門扉がある。そこを越えれば隣国だった。皆、手にしたり、首にかけた札を、関所番に見せて通過していく。
マレ達のものは片道のみだ。出ることはできても、戻ることは不可能で。戻るには自国の許可と相手国の許可がいる。リーマにその許可は下りない。
それに、身分や名前を偽って入ったとしても、バレた時点で極刑となる。罪人とはそう言うものだった。その危険を冒してまで、戻ろうとは思わない。
それに手を貸したブルーナも巻き添えを食うことになる。そんな目にあわせるわけには行かなかった。
「それでは──」
ブルーナが、後方からついてきたサイアンに、軽く目礼して見せる。マレは何か口にしたかったが、言葉がみつからなかった。
本当は伝えたいことがたくさんある──。
けれど、どれを口にしても、今のサイアンには受け入れられないだろう。
全てを飲み込み、ただ頭を深々と下げた。
──どうか、幸せに。
と、そこへサイアンが思わぬ言葉を投げかけてきた。
「巣箱は…私がかけ直した。──心配しなくてもいい…」
その言葉にはっとして顔をあげ、サイアンを見つめる。
その表情には、今までとは明らかに違う、苦悩と共に、懐かしいサイアンの顔があった。
サイアン──。
「……っ」
思わずその場に泣き崩れる。
「リーマ様?」
ブルーナが咄嗟に腕を差し出した。その腕につかまって、さらに泣き続ける。ブルーナには、泣く意味が分からないだろう。
──でも、涙が止まらない。
肩を支えられ、そのまま関所に向かおうとすれば。ざりと土を蹴る音。それと同時に、背後から強く抱きすくめられた。
ふわりと懐かしい香りがする。いつもサイアンが好んで使っていた、クリームの香りだ。
「……!」
「──いつか。…訪ねよう…」
マレは顔を上げ、振り返る。
日の光をすべて集めた金糸のような髪。澄んだ湖水のような青い瞳。口元に浮かぶ柔らかな笑み──。
どれもが昔のままだった。
マレは小さくうなづくと、幼い子どもの様にサイアンの腕の中に頬を埋めた。サイアンもまた、慈しむ様にマレを抱きしめる。
──生きていて、良かった…。
すべてが報われた瞬間だった。
時が止まった様に、しばらくの間、そうしていたが。
「──別れの時だ…」
そう言ってサイアンは腕を解くと、マレの頬にそっと触れ、
「次、会う時まで──どうか息災で」
「……うん」
サイアンの瞳は優しいままだ。マレは名残り惜しげに手を離す。
「──行きましょう」
ブルーナが促す。
「…サイアンも、どうか──お元気で…」
「ああ…」
その瞳を、表情を。しっかりと記憶に刻みつけた。
その後、サイアンに見送られ、マレはブルーナと共に旅立った。
サイアンは、最後に認めてくれた。──いや、確かめただけなのかもしれない。巣箱の事を知っているのは、マレだけなのだ。
──本当に僕が『マレ』なのか。
『──いつか、…訪ねよう』
──あの言葉は、サイアンの精一杯。
そのいつかが一生こなくとも、十分、報われた気がした。
✢
サイアンは去っていく二人の背を見えなくなるまで見つめていた。
──行ってしまった。──やはり、あれはマレだったのか…。
リーマはすっかり以前と姿を変えていた。
火災で火傷が影響したのか、心労が祟って髪がすっかり白髪となっていて。顔や手足にも火傷の痕が残る。背中はもっと酷いと聞いていた。
以前のリーマを知るものが見ても、同一人物とは思わないだろう。それほど、外見はかわった。
──だからと言って。
やはり、あれはリーマなのだ。中身がたとえマレだとしても。
ブルーナのように、全て許して受け入れることはできない。自分の愛したマレを奪った男の身体だ。愛せと言われて、簡単にそうとはならない。
──だが、生きていた。
リーマの中に。
巣箱のことは、マレと自分しか知らない。ラーゴでさえ知らないのだ。まして、リーマが知るはずもなく。
──ブルーナの言葉は正しかった。
もっと、かけるべき言葉があったはず。
今でも愛していると。生涯、愛するのはマレだけだと。
──しかし。
マレの笑顔を思いだす。あの、マレは二度とこの手の中に帰ってはこないのだ。
──私のマレは死んでしまった。
きっと、次、リーマに会うことがあっても、マレのように愛すことはできないと分かっていた。どうあっても、あれはリーマなのだ。
──いつか。
この胸のわだかまりが消えた時、訪ねてみようと思った。
それがいつ来るかは分からない。
落ち着き先が決まれば、きっと医師へ手紙を書くのだろう。その時、また考えようと思った。
──それまで、どうか息災で。
今はそれが精一杯だった。
しかし、見送りがつくでもない。人目につかぬよう、ひっそりと旅人に紛れ出ていくだけだ。
行き先はブルーナと話し合った結果、マレの両親の故郷へと向かう事に決めた。
ただし、マレの体力はそこまでない。
途中の村で滞在しながら、小金を稼ぎつつ向かう予定だ。行ってみて、そこに住まうかはまだ決めていない。
北方は寒い国だ。無理であればまた戻って、今まで滞在した村のどこかに落ち付こうと考えている。
幸いブルーナは剣の腕も立つ。マレも薬師としての腕があった。滞在先でそれらを駆使すれば、なんとか生きていく糧は得られそうだった。
多少ではあったが、旅費も支給される。とにかく、これで行けるところまで行こうとなった。
「マレ、あまり荷物を詰めては背負うのに大変ですよ? 背中が痛むでしょう?」
「大丈夫。だって、みんな必要だもの。これくらい平気──」
と、押さえこんだはずのザックの口が、幾ら紐を締めても締まり切らなかった。
中身は薬草に関する本と、薬を作るのに必要な道具の数々。あとは日々の着替えが少々。生活に必要なものは殆どはいっていない。
けれど、どれも置いて行くわけには行かなかった。途中で手に入るとは限らないのだ。必死なマレを見て、ブルーナは笑うと。
「少し、私の方に移しましょう。途中でばてても困りますから」
「ごめん。ブルーナ…」
「いいえ。──ああ、そう言えばアロが見送りに来ると言っていましたよ。玄関で待ってはいかがですか?」
「本当? 良かった。じゃあ、お言葉に甘えて…」
「こちらは私がなんとかしておきます」
「ありがとう! ブルーナ」
マレは声を弾ませ、玄関へと向かった。
アロとはなかなか会えず終いで。最後にやっと会えるとあって、心が浮き立った。
国の外に出てしまえば、もう会うことはできないだろう。
扉を開ければ、すぐそこにアロがいた。
「マレ!」
今、丁度着いたところらしい。マレを見て、飛びつくように駆けて来た。
「アロ。久しぶりだね? 見ないうちに、大きくなったね」
屈んでアロを見つめる。身長もまえよりずっと伸びていた。心なしか面差しも大人のそれになった気がする。
「身長、伸びたんだ! あれからずっと会ってなかったもの…。──ねえ、本当に行っちゃうの?」
「うん…。決まりだからね。アロは──僕のこと、聞いている?」
「うん…。けど、僕は信じない。──だって、僕の知っているマレは優しいもの。僕の知っている中で一番だ!」
「──ありがとう。アロ…」
アロの存在に、いつも救われている気がした。
「ね、最後にあのお唄、歌ってくれる? 忘れちゃいそうだから。いっぱい聞いて覚えたいの」
「うん。いいよ」
マレはアロの手を引くと、木陰に置かれたベンチに座ってそれを歌う。サイアンが歌ってくれたあの子守唄だ。
唄と言っても旋律のみで。ちょっと悲しいけれど綺麗な歌。
──二度とサイアンが歌ってくれることはない──。
「マレ? 泣いてるの?」
思わずこぼれた涙を手の甲で拭う。
「…ううん。なんでもない。ほら、アロも歌って。一緒に歌って覚えよう」
「うん!」
晴れ渡った空には、渡り鳥が舞っていた。もうそんな季節なのだ。黒い影が幾度も視界を横切る。巣作りに忙しいのだろう。
──父ルボルと、サイアンと作った巣箱は、今もそこにあるんだろうか。
そうして歌う事に熱中していたマレは、背後に立った人影に気づくのに遅れた。幾度目かを歌い終えた所で。
「──怪我は癒えたのか?」
唐突にかけられた声に飛び上がるほど驚き、背後を振り返った。
「──」
驚かないはずがない。そこにはサイアンが立っていたのだから。
「…誰?」
傍らのアロが不審げな表情を浮かべる。マレはアロと共にベンチから立ち上がると、
「アロ、お家に入ってブルーナに伝えてきて。──お客様が来たからって…」
「うん!」
アロは小走りになって家の中へと駆けていく。その背を見送った後、ゆっくりと振り返る。
そこには、見間違い等でなく、金の髪を風に揺らすサイアンが立っていた。
✢
「──どうして、ここに?」
「今日の旅立ちを確認するためだ。関所まで見届ける」
確かにブルーナから聞いていた。
だが、それは部下の仕事で、指揮官のサイアンが直々に来るとは聞いていなかった。見れば他に部下の姿もない。一人で来たようだった。
「わかりました…」
沈黙が続く。
サイアンの顔をまともに見ることはできなかった。
──これで最後だと言うのに。
怖くて見ることができないのだ。ぶたれた時の記憶が蘇る。実際の痛みより、胸に刺さった痛みの方がより鮮明だった。
──二度と会うことはないと、思っていたのに。
最後の確認に来たのだろう。もしかしたら、命を奪いに来たのかもしれない。
だから共もつれずに一人できたのか。
──それも、仕方ない。
生きて逃がすつもりはないのだろう。マレはそれでもいいと思った。せめて、サイアンの為に死ぬことができるなら本望だった。
そう思うと、自然と怖さはなくなった。それでようやく顔を上げることができる。
見返したサイアンは、以前より幾分、頬のあたりが痩せた様に見えた。美しい容姿なのは変わりないが、太陽のような明るさがそこに欠けている。
──僕のせいだ。
マレは唇を噛みしめる。
──僕が消えたばかりに、サイアンに辛い思いをさせた。
今さらながらに悔やまれる。あのとき、サイアンの言うことを聞いて、ラクテウス家に帰れば良かったのだ。リーマのことなど放って。
──そうしたら今頃。
けれど、やはりあの時、マレにリーマを捨てていくという選択はなかったのだ。
過去を悔やんだ所で、元には戻らない。もう、あの頃には帰れないのだ。
「ついでに、──これを託された」
そう言ってマレに近寄ると、懐から取り出したものをこちらに差し出してきた。
緑の石のついたネックレスだ。以前、リーマが大切にしていたカフス。
「──どうして?」
これは執事に渡したものだった。サイアンはその石に目を落したまま、
「執事がどうしてもと。自分がもつべきものではないと、託された」
「そうですか…。ありがとうございます」
マレが差し出した手の平に、それが落ちてくる。サイアンが握っていた所為で温もりが残っていた。
ついでサイアンが口を開く。
「…さっきの唄」
その言葉にはっとする。
「アロに──先ほどの少年に歌って聞かせたことがあったのです。…それで、最後にもう一度聞きたいと。申し訳ありません…」
マレはネックレスを胸ポケットにしまうと、居住まいをただした。
唄はサイアンが『マレ』に聞かせたものだ。『リーマ』が勝手に歌っていいものではないだろう。
また怒りを買うのかと、視線を落とせば。
「──そうか」
それだけだった。
顔を上げれば、サイアンは視線を空へと向けていた。視線の先には渡り鳥がせわしなく飛び交う。
「…サイアン様?」
家の戸口に、アロを伴ったブルーナが現れた。サイアンはそれを認め、表情を上官のそれに切り変える。
「出立を見届けにきた。準備はできたのか?」
「はい…。しかし、サイアン様自らとは」
ブルーナに緊張が走る。そっと腰に帯びた剣の柄に手をかけるのが見えた。
「…案ずるな。命を取りに来たわけではない」
腰に下げた剣を見えるようにローブを翻した。ブルーナも同じことを考えたのだろう。その言葉に幾分、緊張を解いたようだった。
マレはブルーナの元へ向かうと。
「──ブルーナ、荷物を。待たせては申し訳ない。…さあ、行こう」
「はい…」
ブルーナは足元に置いた荷物を背負わせてくれる。前より随分軽くなっていた。かなりの量を引き受けてくれたのだろう。
とは言っても、ブルーナとマレでは鍛え方が違う。マレの大変は、ブルーナにとってさほどのことではないのだろう。
ブルーナは自分の荷物を軽々と背負うと、そばにいたアロを振り返り。
「アロ、この鍵を先生に渡して置いてくれるか? ありがとうと伝えて置いて欲しい」
今も院内で忙しく立ち回っているはずで。そのため、すでに先に別れは伝えてあった。アロは大きく頷くと。
「うん、わかった。ブルーナ。──それと…」
アロはマレに向かい。
「マレ。僕、大きくなったら、きっと会いに行くからね? お手紙、絶対よこしてね?」
「うん、分かったよ…。手紙は先生の所へ送るから。先生がきっと伝えてくれるよ。──それじゃあ」
マレと呼ばせているのを、咎めないだろうかと気になったが、サイアンは別段気にした様子はなかった。腕組みし、ただこちらのやり取りを見つめている。
「マレ! マレのこと……大好きだよ!」
そう言ってアロが首筋に抱き着いてきた。それを屈んで抱き返す。
アロはリーマがどんな人物か、母親や周囲の大人から聞いているはずだった。けれど、出会った頃とちっとも変わらない。
それがどんなに自分を救ったか。自分のしたことは間違っていなかったのだと思えた。
「…ありがとう。アロ」
滲みそうになった涙をこらえ、アロの頭を軽く撫でてから身体を離した。
✢
アロに見送られ、間借りしていた医者の家を後にした。
ここは街はずれで、関所にも近い。一時間もしないうちにそれが見えてきた。
街道の入口に頑丈な木製の門扉がある。そこを越えれば隣国だった。皆、手にしたり、首にかけた札を、関所番に見せて通過していく。
マレ達のものは片道のみだ。出ることはできても、戻ることは不可能で。戻るには自国の許可と相手国の許可がいる。リーマにその許可は下りない。
それに、身分や名前を偽って入ったとしても、バレた時点で極刑となる。罪人とはそう言うものだった。その危険を冒してまで、戻ろうとは思わない。
それに手を貸したブルーナも巻き添えを食うことになる。そんな目にあわせるわけには行かなかった。
「それでは──」
ブルーナが、後方からついてきたサイアンに、軽く目礼して見せる。マレは何か口にしたかったが、言葉がみつからなかった。
本当は伝えたいことがたくさんある──。
けれど、どれを口にしても、今のサイアンには受け入れられないだろう。
全てを飲み込み、ただ頭を深々と下げた。
──どうか、幸せに。
と、そこへサイアンが思わぬ言葉を投げかけてきた。
「巣箱は…私がかけ直した。──心配しなくてもいい…」
その言葉にはっとして顔をあげ、サイアンを見つめる。
その表情には、今までとは明らかに違う、苦悩と共に、懐かしいサイアンの顔があった。
サイアン──。
「……っ」
思わずその場に泣き崩れる。
「リーマ様?」
ブルーナが咄嗟に腕を差し出した。その腕につかまって、さらに泣き続ける。ブルーナには、泣く意味が分からないだろう。
──でも、涙が止まらない。
肩を支えられ、そのまま関所に向かおうとすれば。ざりと土を蹴る音。それと同時に、背後から強く抱きすくめられた。
ふわりと懐かしい香りがする。いつもサイアンが好んで使っていた、クリームの香りだ。
「……!」
「──いつか。…訪ねよう…」
マレは顔を上げ、振り返る。
日の光をすべて集めた金糸のような髪。澄んだ湖水のような青い瞳。口元に浮かぶ柔らかな笑み──。
どれもが昔のままだった。
マレは小さくうなづくと、幼い子どもの様にサイアンの腕の中に頬を埋めた。サイアンもまた、慈しむ様にマレを抱きしめる。
──生きていて、良かった…。
すべてが報われた瞬間だった。
時が止まった様に、しばらくの間、そうしていたが。
「──別れの時だ…」
そう言ってサイアンは腕を解くと、マレの頬にそっと触れ、
「次、会う時まで──どうか息災で」
「……うん」
サイアンの瞳は優しいままだ。マレは名残り惜しげに手を離す。
「──行きましょう」
ブルーナが促す。
「…サイアンも、どうか──お元気で…」
「ああ…」
その瞳を、表情を。しっかりと記憶に刻みつけた。
その後、サイアンに見送られ、マレはブルーナと共に旅立った。
サイアンは、最後に認めてくれた。──いや、確かめただけなのかもしれない。巣箱の事を知っているのは、マレだけなのだ。
──本当に僕が『マレ』なのか。
『──いつか、…訪ねよう』
──あの言葉は、サイアンの精一杯。
そのいつかが一生こなくとも、十分、報われた気がした。
✢
サイアンは去っていく二人の背を見えなくなるまで見つめていた。
──行ってしまった。──やはり、あれはマレだったのか…。
リーマはすっかり以前と姿を変えていた。
火災で火傷が影響したのか、心労が祟って髪がすっかり白髪となっていて。顔や手足にも火傷の痕が残る。背中はもっと酷いと聞いていた。
以前のリーマを知るものが見ても、同一人物とは思わないだろう。それほど、外見はかわった。
──だからと言って。
やはり、あれはリーマなのだ。中身がたとえマレだとしても。
ブルーナのように、全て許して受け入れることはできない。自分の愛したマレを奪った男の身体だ。愛せと言われて、簡単にそうとはならない。
──だが、生きていた。
リーマの中に。
巣箱のことは、マレと自分しか知らない。ラーゴでさえ知らないのだ。まして、リーマが知るはずもなく。
──ブルーナの言葉は正しかった。
もっと、かけるべき言葉があったはず。
今でも愛していると。生涯、愛するのはマレだけだと。
──しかし。
マレの笑顔を思いだす。あの、マレは二度とこの手の中に帰ってはこないのだ。
──私のマレは死んでしまった。
きっと、次、リーマに会うことがあっても、マレのように愛すことはできないと分かっていた。どうあっても、あれはリーマなのだ。
──いつか。
この胸のわだかまりが消えた時、訪ねてみようと思った。
それがいつ来るかは分からない。
落ち着き先が決まれば、きっと医師へ手紙を書くのだろう。その時、また考えようと思った。
──それまで、どうか息災で。
今はそれが精一杯だった。
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最終的に「真のムル」かどうかを見極められるのは――ルガルだけ。
ムルが覚醒したとき、同じ場所に「紋章」が現れ、その瞬間から、ルガルとムルの力は共鳴し始める。
ムルの能力はルガルの力を最大限に引き出す。
ゆえにルガルたちは、自らのムルを求め、時には他人のムル候補を奪い合う。
そして、すべての出生データと遺伝情報を管理するのは、
巨大企業イルジオン――国家をも超える存在。
その頂点に立つ社長、一条レイ。
冷徹なルガルの頂点に君臨する彼が「自分のムル」と出会った。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
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俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学時代後輩から逃げたのに、大人になって再会するなんて!?
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ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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