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1巻
1-3
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長安を出て近くの町で居を借り、旅芸人の俺の一家ではなく、この武官の子として生活する。それで広利は仕事を得やすくなるだろう。妹は万一のために歌舞の稽古をして暮らすのだ。俺が目標を遂げていれば、おそらく弟妹はこの男の庇護のもと、五年は安定した生活が送れるだろう。
死んでしまえば男は一年で去るが、兵役につくと言って出るように頼んである。二人は武官の子として過ごし、半年に一度、二人の様子を見に戻った武官が手数料を得る代わりに二人の石を売って生活の費用とすることを約束した。そのように説明したが、弟妹の目から不安は消えなかった。
「必ず五年以内には便りを送る。けれどもこの武官への給金が途絶えれば、俺は死んだということだ。お前たちは二人で助け合って生きてゆけ」
「兄ちゃんが死ぬなんて嫌だ!」
「広利、俺たちの暮らしはいつも野垂れ死にと隣り合わせだ。いつ死んでもおかしくない。俺たちが幸せを掴むには、これしか方法がない」
弟妹を再び強く抱きしめる。もう会うことは叶わないだろう。俺にとっての唯一の人間と呼べる家族の温かさ。それを魂に刻み込む。
俺の家族で、俺の幸せ。大切な二人。
筋書きはこうだ。俺が妹を強姦し、広利が助けを求めたところ、武官の男が急行して俺を殴り倒して縛り上げ、警吏に通報する。だから齟齬がないよう、弟妹を納屋の外に出してから武官は俺を殴り、捕縛した。
荷物をまとめた弟妹と武官の男が去ったあと、納屋でぼんやりと転がりつつ、痛む腹が熱を持っているのを感じた。固く締め付けられた縄が擦れて痛い。殴られたことなど星の数程ある。骨が折れたこともある。
武官の男は暴力の専門だ。だから最も派手に見えるよう、俺が武官と僅かでも争ったように見えるように何箇所かに跡に残らぬ打撲痕を作ってもらった。
実際に目を閉じると、さほど痛くはない。けれどもこれで弟妹とは今生の別れだと思えば、やけにその傷が傷み熱を持つのだ。
やがてばたばたと慌ただしい足音が納屋に踏み込んでくる。転がっていた俺は乱暴に引き立てられた。目の前に仁王立ちになったのが懇意の警吏であることに、心の内だけで胸をなで下ろす。
警吏は厳しい顔で俺に告げる。酒を奢ったときとは全く異なる硬い声だ。
「貴様は李延年で間違いないか」
「ありません」
「貴様の妹から、貴様に強姦されたとの陳情が上がっている。相違ないか」
「ありません。暮らしに先が見えず、いっそのこと死のうと思い、その前に……」
「どのような理由があろうと妹を襲うなど言語道断。畜生にも劣る行いだ。引っ立てよ」
警吏に引き立てられ、市を歩く。ヒソヒソと後ろ指をさされた。先祖に辱めを与え、自身を辱め、道理を外して引き立てられる。縄をかけられ首枷をはめられ、痛んだその身を晒しながら。
そして俺は人ではなくなる。
弟妹には便りをよこすとは伝えたが、もう会うことはない。計画に失敗すれば俺は死ぬ。計画が最上に進めば俺は後宮に入る。後宮に入れば二度と城外には出られない。帝の寝所とはそういう場所だ。現実とは切り離された場所だから。
けれどもそれで弟妹が幸福というものを手に入れられるのであれば、それでいい。
集まる視線は目に入らなかった。いつものように空を見上げると、薄い雲がたなびき晴れ渡る青い空の下、高台の上に長安城の威容が見え、そしてその少し上に白く丸い月が昇っていた。桃源郷はあそこにある。俺はそこに奴婢としてでも家具としてでも食い込んで、最も尊き夢の中で俺を一番高く売る。そこで得た幸福を弟妹に届けるんだ。
最初の賭けに勝った。
体の重だるさと高熱に浮かされながら、尿の漏れる音を聞く。
俺の刑の執行は腕の立つ医師が行った。あの高級官吏が手配した貴人の腐刑を執行する医師だ。
初老で小柄な医師だが腕は一流だった。手技は通常の罪人が収められる劣悪な環境下ではなく、貴人が処されるときに用いられる綺麗な室で行われた。とはいえ、複数人の男に押さえつけられ、根本を紐で縛られて消毒し、専用の鋭い鎌で一息に切除する。その行為は鮮やかで、その衝撃で俺は意識を失ったが、傷口を縫い合わせて消毒し、無理やり起こされ体内から血が出きるまで強引に歩かされてから尿道に栓をされた。三日三晩飲まず食わずで時折同じように歩かされ、体はがくがくとおこりのようにふるえているのに頭は熱に浮かされ、彼岸と此岸の境もわからず高熱に苛まれる。唇は乾き、ひび割れた。全身がバラバラになったかのように熱を持つ。俺が俺ではないようなフラフラとした心持ちだ。
これがおそらく人から人ならざるものへの変化に伴う苦痛と言えるものなのだろう。人としての俺はここで一度死に、宦官という生き物に生まれ変わる。
四日目にきちんと尿が出た。これで尿が出なければ、体内に毒が溜まり死ぬのだそうだ。俺は最初の賭けに勝った。けれども人ではなくなった。
何が違うのかはよくわからなかった。ひたすらに体が重い。朦朧とした頭で見下ろすとその下腹には何もない。なんだかよくわからない妙な気分が心に溢れた。
「うむ。体はまだ碌に動かぬだろうが、安静にしていれば大丈夫だろう。粥から始めて少しずつ固形のものを食べるが良い」
「先生、ありがとうございます」
医師は柔らかく頷く。
「見かけによらずお前さんは強いね。目が死んでない。大抵は死んだ魚のような目をしていて、手技は成功したのに死んでしまう者も多いのだよ。今はまだわからないだろうが、傷もうまく塞がりそうだ。注意点がいくつかある」
それは官吏から事前に聞いていたことと同じだった。
これまでと違って思う位置に排尿ができない。だから女と同じように座って行うこと。慣れるまでは排泄の調節ができないから蝋で尿道に栓をすること。そうしなければ垂れ流しになってしまうこと。
なんだか惨めだ。本当に、獣になったのだなと感じる。けれどもこれまでの生活を顧みても、獣と何が違うのだろうとも思った。だからやっぱり、今更だ。
「それで配属の希望は本当に城外なのかい? 折角の美貌だ。後宮に入れば貴妃にチヤホヤされて楽な暮らしができるだろうよ」
「いえ。できれば後宮の外に。そして可能であれば極端な力仕事でない仕事がありがたいのです」
医師はふうむと述べて俺の肉付きを眺めた。歌舞のために鍛え、それなりに引き締まってはいるが、肉体労働に必要な肉というものがつかない。
配属されたのは犬舎だった。長安城では多くの目的で犬を飼っている。食用犬というのが一番多い。薬に使うのだ。あとは様々。狩猟用、愛玩用、番犬、儀式用。
そして俺が配属されたのは狩猟用の犬舎だった。ちょうど人が足りなかったらしい。城外とはいえ城に近く、市街からは少し遠い落ち着いた場所だ。帝の御料地である上林苑と長安城の間にある。
その犬舎では帝専用の十頭程の犬が飼育されていた。帝の犬だ。犬舎は絢爛で、弟妹たちが城下で暮らしていた納屋などとは比較するのもおこがましい。美しく彩られたその犬舎の広さは犬一頭当たりにつき人一人が住める程の広さだ。もちろん俺にあてがわれた納屋より格段に広く綺麗に掃除されている。つまり俺の新しい生活は俺よりよほど高級で尊き犬に仕えるところから始まった。
犬舎では初老に差し掛かる背の高い宦官がその監督をしていた。他に人はいないようだ。望みうるべき最良の配属かもしれない。俺は手を回してくれた官吏と医師に感謝した。
長年この職についていたのだろう。その監督の宦官の犬の扱いには熟練を感じた。普段は温厚そうなのに犬の訓練の際には人が変わったように厳しくなり、左に腕を振るえば犬は左に、右に振るえば犬は右に、見事な隊列を組んで鮮やかに走る。師の宦官は、犬舎程の大きさではないにしろ、犬舎の近くに小さな小屋が建てられ、そこに住んでいた。
俺の仕事自体は簡単だ。朝夕に犬に餌をやり、訓練の間に犬舎と監督、俺の新しい師となった宦官の室の掃除をする。要は雑務だ。流石に帝の犬だ。よく躾けられていたから何も難しいことはない。それに俺は旅の途中、犬使いの一座と合流したことがある。その際に多少の手解きを受けていた。その一座の犬に比べても帝の犬は格段に品も行儀も良い。
「お前さんは妙に慣れているね。犬を扱ったことがあるのかね?」
師は感心するように呟いた。
「以前、犬使いの一座で働いたことがあります」
「ほう、それはいい。犬を怖がらぬ者というのはなかなか少ないのだ。この犬らは猟犬ゆえな」
師は深く頷く。
「ここの犬はよく訓練されております。一座の犬よりよほど」
「ふむ。肝が据わっているね。いつだったかな。犬が食えると思った体ばかり大きい宦官が配属されたことがあったんだがなぁ。猟犬の訓練を見てすぐに怖気づき、反対に食われると思い込んで動けなくなったんだよ」
それでは確かに使いものにはならないだろう。犬というのは勇敢であるが、存外繊細なのだ。特に上下関係においては、常に上であることを示さなければならない。だから一旦犬に舐められると、使いものになりやしない。面白半分に追い回される羽目になるだろう。
「それにしてもお前さん、もう少しマシな格好というものをしてはどうなのかね?」
師は眉を顰めて苦言を呈する。俺は腐刑によってやつれ、髪は乱れるままにしていた。服は支給の粗末な垢じみた襤褸だ。おまけに体に黒く炭を塗って浅黒く見えるようにしている。つまり、俺を美しいと思う者はいないだろう。
結局のところ、最終的には高く売るための美しさが必要であったとしても、美しさだけにしか価値がなければいずれ飽きられて捨てられる。だから俺がこの城内で生き残るには、美しさ以外の価値を武帝に示さねばならない。そしてそのためには、美貌を安易に晒すわけにはいかなかった。
宦官など最底辺の共有財産だ。拒否などできるはずがない。美しいと噂になり、妃にでも囲われればそこですべてが終わってしまう。価値を示す以前の問題だ。なにせ後宮に男は帝お一人、女は数千人も侍っていて、召し上げられたあとに一度も帝に見えることなく下げ渡される者も多い。つまり男という存在に飢えている。見目の良い宦官の中には宮女に飼われて楽しく暮らす者もいることは、あの官吏からも聞いていた。そんな生活など、宮女に飽きられ或いは容色が衰えた時点で終わりだ。旅芸人と何も変わらぬし、その宮女の立場にすべてが左右される。
そんな不確かなものに寄って立つことはできない。
俺にできることといえば結局、歌舞。つまり舞と歌だ。
そして俺は少しずつ種を蒔いた。
「またあったわ」
『この城に在られる尊き方』
「これは何かしら」
「恋文なのかしら?」
そんな呟きが聞こえる。
『私は存じております』
「けれども、どうしてこんなに切れ切れなの?」
『この肥沃な大地が広がり』
『人々は皆低く頭を垂れて』
「頭を垂れ、ってことはこの歌は高貴な方に捧げる歌ではないのかしら」
その内、犬舎の周りで流麗な字で詩の断片が書かれた木の皮が見つかるとささやかれるようになった。それらは噂好きの下働きたちの恰好の暇つぶしになる。物好きがその正体を探し始め、犬舎に新しくやってきた背の高い細身の宦官がやっているのではないかとの噂が立つ。
そこに至り、師は心配そうに俺に尋ねた。
「なぁ延年、最近噂になっている詩はお前さんの仕業なのかい」
「はい、お師様。わたくしにとって偉大な武帝様は物語の登場人物にも等しいのです。帝の使われる犬の世話をしておりますと自然と言葉が湧き出てくるのです」
「ふむ。そういうものかねぇ。最近この犬舎周りに人が増えてきて犬が落ち着かなくてね」
「申し訳ありません。やめたほうが良いでしょうか」
師は悩むように首をかしげた。
「お前は酒も飲まないし品行も随分方正だしなぁ。まあそのくらいなら良かろうが、その辺の木の皮に書いて放置するから人が見つけるのだと思うよ」
「そうはおっしゃられましても、わたくしは紙や筆など持っておりません。犬の餌の肉を刻む小刀しかありませんから、その辺の木の皮に刻むしかありません」
師は得心するように首を縦に振る。
「それもそうか。まあお前は真面目だからもう少しましな暮らしになるよう申し出ようかね」
「ありがとうございます」
俺はそのころには師に代わって犬の訓練の一部を行うようになっていた。師はもう初老と言って良い年齢で、遠方への行軍指揮の練習などは少し億劫になっていたからだ。帝が狩りに犬を用いるとなれば、師は犬を追って走らねばならない。それは既に困難だった。だから俺が遠くに出る犬を扱い、師と連携して獲物を狩る。この他にも俺が師の代わりに遠方の用に出向くこともしていた。そのために、多少は小綺麗にする必要もあったのだ。
師は廷吏と相談の上、これまでの犬舎の一角の小屋の代わりに、少し離れたところに打ち捨てられていた小さな小屋を俺に与え、襤褸の代わりに簡素な衣服もくれた。
「お前……それ程に美しかったのかい」
師と廷吏はただの生成りとはいえ汚れのない服を纏い簡単に髪を結った俺を見て、目を見張った。
「なるほどねぇ。なんとなく、お前が後宮に近づきたくない理由がわかったよ。お前は美しすぎるんだ。これじゃぁ宮女のやっかみもひどそうだねぇ」
「お師様から見てもそのようでしょうか。わたくしはこれまで女性との間で碌な目にあったことがありません。ですから女性ばかりという後宮というものがおそろしいのです」
「ああ、そうだろうなぁ。あそこはわしにはちっともわからん。わしが帝について狩りに向かうとき、一緒に貴妃様方がお越しになることもあるが、これまで見たどなたよりもお前は美しい。だから後宮で生きていくにはよほどの才覚が必要だろうね」
そう呟いて、師は何度も頷く。
俺は誰よりも美しい。だから俺は最も尊き方、武帝に自身を売る。そのためには貴妃のいないところで売り込まなければならない。貴妃たちが自ら囲うのであればともかく並び立ち寵を争うつもりなら、その前に立つのは敵対行為でしかないのだ。その目に止まることは下策だ。敵に回すことは愚策だ。後ろ盾がない以上、俺はすぐに潰されてしまう。
だから千載一遇の機会を待つ。
俺は美しく着飾りたいわけではない。犬の糞に塗れようとなんら厭うことはない。何よりこれまでの人生こそが糞なのだ。毎日体を売り、それで得た僅かな金で糊口をしのぐ。そんな生活よりこの人ならざる生活は既によほど上等だった。弟妹のことがなければ、この規則正しく職を得た生活で満足すらしていたかもしれない。
けれども俺は弟妹のためにここにいる。このままでは弟妹もかつての俺と同様の暮らしが待っている。その温もりが失われることは、闇に呑まれたこの身にもひどく耐え難い。
見上げると高い城壁が聳え立つ。長安城の南西にある犬舎は武帝の住まう未央宮のすぐ裏だ。この見上げた先に俺の目的がある。夢の主がそこにいる。なんとしても俺はここで、のし上がる。
この林に繋がる僻地は通常、人が来る場所ではない。けれども時折、噂を聞いた宮女が覗きに来た。だから俺は顔の前に布を垂らすことにする。これで俺の顔の美醜などわからないはずだ。
こんな犬臭いところに来る宮女も珍しい。だが、今も着飾った子どもが覗きに来ている。どこかの貴妃の侍女だろう。
『山野におわせば野獣も鎮まり』
『世を照らす太陽であられる』
「お兄さん、なんで変な布を被っているの? お化けみたい」
「お兄さん?」
その聞きなれない声に顔を上げると、十四歳程の異国の少年が俺の手元を覗いていた。艶やかな黒髪を短く後ろに結び、彫りが深く大きな瞳は僅かに藍色を帯びている。城外でもたまにいた外国の者だろう。ここまで近くに寄ってきた者は初めてだが、その興味を隠そうともしない煌めく瞳に軽くに見惚れた。
「このほうが落ち着くんだよ」
「変なの。それで詩を書いてその辺にばらまいてるって聞いたんだけど、なんで?」
「なんで……趣味だよ。それよりお前は誰だ」
「僕? 僕は埃斯菲亞。平陽公主様の奴隷だよ。もともと波斯から来て、公主様に買い取っていただいたんだ」
平陽公主。その言葉に思わず筆を止めた。それはあの高級官吏が言っていた武帝の姉。
「えすふぃあ? 何故公主様の奴隷がこんなところに?」
「城の外れで詩を書いてる奴がいるらしいから見てこいってさ」
見てこい。どなたか貴人の興味でも引いて帝に関心を持たれぬかと思ってやっていたことだったけれど、望外のところに話が繋がった。僥倖だ。思わず握る筆に力がこもる。それならば利用しない手はない。急いで新しい紙に詩を書き付けた。
よい風は吹くべきときを知り
この世界をめぐっています
公主様の歌舞も新しく寵を受けられ
風に乗って世界に伝わっています
「公主様は歌舞音曲に詳しい方だと伺った」
「そうだよ。たくさんの踊り子がいて、みんな練習してるんだ。僕も習ってる」
「踊りを? どんな?」
「やってみるよ」
エスフィアは一礼し、美しい姿勢ですくりと立った。それは初めて見る踊り。ゆったりした動きながらもところどころ大きく切り返し、時にはクルクルと不規則に舞う。その体躯の動きはさながらハチドリのようで、思わず俺は目を見張る。新鮮な驚きが訪れた。思えば他人の踊りというものをまじまじと見たのは初めてだ。
「凄いな」
「でしょ?」
「じゃぁ俺もお返しに踊るよ」
踊りの稽古は欠かしていない。夜に一人になると、毎日練習して鍛えている。宦官になってから体が少し変化した。体がほんの少しだけ重い。骨盤の周りに肉が付きやすくなり、筋肉の付き方が少し変わった。だから鍛えてはいるけれど、ひょっとしたら少し踊りの質が変わったかもしれない。
その違和感は俺に奇妙な不安を与えていた。誰かに見せようにもここには犬しかいない。けれども踊りを習うというエスフィアならば、見る目があるかもしれない。
呼吸を整える。誰かの前で踊るのは久しぶりだ。この犬舎に来てから、人でなくなってから三箇月ぶりだ。
宦官になっても俺の精神は何も変わらなかった。俺の中には変わらず弟妹のことだけだ。精神まで人でなくなってしまったら、という不安は現実にはならなかった。
だが体は人であったときと何かが異なったのだろうか。
わからない。以前と同じように腕を伸ばす。みしみしと軋む筋肉の動きが以前と少し異なる気がする。けれどもその軋みには最近、馴染んできた。だから同じように動いているのだろうとは思う。
ふわりと地から浮かび上がり、いつも通り天を求めて届かず再び地に落ち、水を掻くように宙を泳いで同じ床に着地する。
「……凄い。音がしなかった」
「音?」
音がするかどうかなんて、考えたことがなかった。それはいいことなのかな。そう考えて体に目を落とす。今身に纏っている直裾袍は裾の長い一枚布の衣服で、腹の部分で体に巻き付けるようにし帯で止めるものだ。だから体の動きがよくわからないのかもしれない。つまり、踊りの良し悪しまではわからないのかも。
「うん。お兄さんも踊り子なの?」
「そうだな。そういえば公主様と宮城にいるということは、君も宦官なのかい?」
「そうだよ」
「宦官になってからどうにも体の動きがおかしくてさ。踊るのに何かコツはないかな」
「ああ、お兄さんは大人になってから宦官になったのか。僕はもっと子どものころに宦官になったから、違いはよくわかんないんだ」
「そうか」
子どものころからそういうものとして育てば違和感はないのかもしれない。けれどもエスフィアは十四歳程にしか見えない。その子どものころと言うと七、八歳程度だろうか。俺と異なる理由で宦官になったに違いない。エスフィアにはおそらく他に選択肢などなかったのだろう。そう思うと、少し不憫だ。
「お兄さん、そんな目で見ないでよ。僕はそれなりに贅沢に暮らしてるんだぜ? お兄さんよりよっぽど。公主様のところに来る商人にも羨ましいって言われるもの」
エスフィアはにこりと微笑みながら、俺を上から下まで眺め下ろす。贅沢と言われてみれば、エスフィアの服は絹程ではないものの上等で、首飾りまでしていた。俺の生成りの服とは随分違う。
なるほど、公主といえば皇帝の姉だ。奴隷であってもこの城内で相応の居場所を確保できた者は、それなりの生活が送れるのだ。希望が見えた。宦官というものは国の奴隷だ。そうすると、やはり俺はここから帝の専属の奴隷にならねばならないのだな。
以降、エスフィアは時折俺の小屋を訪れるようになった。小屋の前の空き地の草を刈り取り、互いの踊りを披露しては色々と感想を述べ、俺は公主に敬愛と感謝を示す詩を贈った。踊るのは大体仕事の終わった夜だ。月明かりと未央宮から降り溢れる僅かな光を光源とし、サラサラと流れる葉擦れの音と虫や梟の声を音源とする。
その密やかな夜会は初めて俺に踊りというものの楽しみをもたらした。金を得、男を誘うため以外に踊るというのは初めてだ。
ただ、単純に踊りのために踊る。
これは踊りの稽古だ。武帝の前で踊る練習だ。夢物語のために踊るのであれば、やはり夢物語の踊りを踊らねばならない。この行為は小さいときに見た懐かしい夢に繋がっている。
「お兄さん、凄い。ペリみたいだ」
「ペリ? なんだいそれは」
「僕の生まれたところにいる火から生まれた妖精なんだ。背中に翼があって魔法を使える。妖精が空を舞っているみたい」
「火か。漢は火徳の国だ。縁起がいいな。お前も哪吒のようだよ」
「哪吒? それは誰?」
エスフィアは好奇心もあらわに目を輝かせる。
「ああ。托塔天王という神様の三男で、たいへんな冒険をする。蓮の花や葉の服を着て、たくさんの武器を持ち、風火二輪という火を噴く乗り物に乗って戦うんだ」
「凄い! かっこいい」
「じゃぁその踊りを踊るよ」
このエスフィアとの関係は奇妙だった。旅から旅でひとところに落ち着かない俺の人生には、親しい人間は家族しかいなかった。エスフィアと似たような存在と思えば、似ても似つかないのに広利が思い浮かぶ。二人とも元気にしているだろうか。エスフィアは別れたときの妹より少し上くらいだろう。それにしてはしっかりしている。教育というものが行き届いているのかもしれない。
「公主様が詩のお礼に何かくださるって。素晴らしいとおっしゃっていた。僕にはよくわからないけれど」
「それは光栄なことだ。よろしければ化粧の道具をお譲りいただけないだろうか。少しでいい」
「化粧? お兄さんいつも布を被っているじゃないか」
「誰にも秘密だぞ」
戸惑いながら布をめくった俺を見て、エスフィアは目を丸くした。
「本物のペリだ……」
程なく上等な化粧の道具が僅かな量届く。携帯できる量だ。
それからエスフィアが初めて見る男を連れてきた。愛想が良く、ガハハと笑う気さくな男だ。商人らしく、俺の体の採寸を始めた。服を一着仕立てていただけるという。
「素晴らしい体つきですな」
「そうでしょうか」
「ええ。色々な方の服を仕立てましたが、不思議なお体をされている」
「不思議……?」
「ふむ、宦官の方は気にされる方が多いのですがね、やはり体つきが丸くなるものなのです。けれどもあなたの体はとても引き締まっておられる。なのにその筋肉は薄い脂肪で滑らかに繋がっている。実に不思議で美しい」
「おじさん、お兄さんはペリなんだよ。妖精なんだ」
「ははは、確かにそんなふうだね」
滑らか。しなやかとはよく言われたが、これまでそのように評されたことはなかった。やはり他人から見ても俺の体は変化しているのだろうか。なんともいえない気持ち悪さが広がる。俺は変わってしまったのだろうか。
けれども男はかえって意欲を掻き立てられたようだ。
「仕立てがいがありますな。刺繍はいかがいたしますか」
「刺繍……刺繍は不要です。なるべく華美でないものでお願いします。犬番が着ていてもおかしくないものを」
商人の男は僅かに困惑したように言葉を漏らす。
「犬番、ですか? 公主様からは素材は問わないと伺っておりますが」
「構いません」
「お兄さん、化粧するってことは踊るんじゃないの?」
「踊る? それであれば一度見せてはいただけませんか? 袖の詰め方などによっては動きにくさが出るかもしれません」
なるほど。確かにこの犬番の服は簡単な衣装だが、体に合わせて仕立てるとなれば少し動きにくいかもしれない。夜に稽古していても肩が詰まることはある。
ただ、エスフィアは公主の奴隷だから口外するあてもないだろうが、商人というのは人の間を渡る。俺の踊りが市街で踊っていたころを知る者に繋がれば、今も練習をしているはずの弟妹にも行きついてしまうかもしれない。あまり話を広めたくはなかった。
「エスフィア、代わりに踊ってくれないか」
「僕が? まあいいけど」
エスフィアは仕方ないと呟いて背筋を伸ばす。
長安は朝夕の寒暖差が大きい。その夏が終わるまで、日が暮れて涼しくなった夜に俺とエスフィアは互いに踊りを見せて練習をしていた。だから俺の大凡の動きはエスフィアにもわかるはずだ。
エスフィアはゆっくりと動き始める。その踊りはそれなりに俺の踊りに似ていた。やはり平陽公主の芸妓奴隷だ。呑み込みが早い。ひょっとしたら妹より覚えがいいかもしれない。体格的には俺と大分異なるものの、これで可動部分はよくわかるはず。
客観的に自分の踊りを見るというのは得難い経験だった。改善点なども見えてくる。そしてエスフィア自身の踊りを俺の踊りに取り入れることを考えた。俺はこれまで一座の踊りというものを守ってきたが、もうそれに固執する必要はないのだろう。俺は既に人ではなくなったのだ。俺は俺の踊りを踊れば良い。そう思うと、体が軽くなる。
その後も時折エスフィアと踊りの練習をし、その内、衣装が届いた。不思議な衣装だ。基本は犬番の着る直裾袍だが裾がふわりと広がるため足元に不自由はなく、そこ以外は体の線に沿って張り付くよう仕立てられている。動きづらいのではないかと思ったが、肩周りや肘などの可動部分は生地が二重になり、大きく動いてもその重ねが広がって肌が見えないようになっていた。その下に褲を穿くようで、これも体にピタリと合わせて仕立てられている。
「お兄さん、不思議な衣装だね。そうだ、今度上林苑で帝が狩りをするんだって。そのときには、遠くまで行くそうだよ。公主様もお越しになるから力を見せなさいって」
「平陽公主様が。エスフィア、延年が感謝を申し上げていたとくれぐれもお伝えしてほしい」
エスフィアは明るく頷いた。
上林苑は長安の南西に広がる御料地だ。狩りを好む帝が拡大させた三百里にも及ぶ巨大な庭園だった。七十箇所もの離宮が設えられ、多種多様な動物が飼育されて、異国の珍しい果樹が植えられている。遠くまで行くのであれば、師では犬の制御が厳しいだろう。けれども帝のご命令は絶対だ。だから俺が呼ばれる。そのときが最後の賭けだ。
その狩りの日。
秦嶺の山から少し肌寒い秋の風が吹き下ろしていた。けれども陽は未だ夏の名残を残してじわじわと肌を温める。狩りには丁度良い日和だ。犬の動きも良い。俺は師の許しを受け、十頭の犬の内六頭を預かった。武帝の指示によって獲物を師の指揮する犬のもとに追い込む。そこで獲物を挟み撃ちし、師の犬が獲物を仕留めるという算段だ。俺は犬を自由に動かせるようにはなっていたが、狩りの機微という点については未だ経験不足だった。
獲物を追って広い上宛林を駆け回るのに、思った程汗をかかないことに気がつく。体が変わったことによって、体温が下がったためかもしれない。動きは思ったよりは、悪くなかった。
狩りの結果、武帝に五頭の鹿を献上できた。上々の成果だ。師もこれまでの最高記録は四頭であったと言い、喜ばしげに俺の肩を叩いた。
けれどもここからが本番だ。片付けを急いで終わらせ、顔の布を取り、木陰で化粧を施す。武帝から声が掛かるとしたら、今しかない。
武帝から声が掛かる。その想像に俺は思わず紅を塗る手を止めた。
俺は今まで武帝に買われることを目指していた。そのために詩をばらまき、踊りの稽古を欠かさなかった。
けれども本当に武帝が? 未だに心の底では半信半疑だ。
遥か昔、俺の隣に立っていた武帝はただひたすら輝かしく、真っ直ぐに匈奴に目を向けていた。そんな武帝が俺を、買う? そんなことはあるはずがない。心はそう反発する。なのに、会って俺を売る? 一体それはなんなんだ?
考えを中断する。かぶりを振った。
俺はそのためにここにいるんだ。俺はこの桃源郷で生きるために人をやめて宦官となった。ここは長安城で、武帝がいらっしゃる。手練手管で武帝に取り入り、弟妹のためにその財をかすめ取る。
チリチリとした奇妙な違和感に目眩がする。それは一体、誰の話だ。
いや、そろそろ時間だ。狩り用の分厚い手袋を脱ぎ、傷つかぬよう巻いた布を取り払う。爪に描いた文様は些かも崩れてはいなかった。髪に油を塗る。桃源郷に住まう平陽公主の香油は俺がこれまで嗅いだことのない甘く清涼な香りがした。これが桃源郷の匂い。俺は必ずここに住むのだ。
「延年、ここにいたか。何をしておるのだ。今、帝からお呼びがかかって……」
師は振り向いた俺を見てぽかんと口を開けた。
「お師様。わたくしは美しいでしょうか」
「……延年、お前は本当に延年なのかい。なんということだ。蓮の花が人になったかのようだ」
「蓮の花。お師様、ありがとうございます」
注
※6:ペルシャ
死んでしまえば男は一年で去るが、兵役につくと言って出るように頼んである。二人は武官の子として過ごし、半年に一度、二人の様子を見に戻った武官が手数料を得る代わりに二人の石を売って生活の費用とすることを約束した。そのように説明したが、弟妹の目から不安は消えなかった。
「必ず五年以内には便りを送る。けれどもこの武官への給金が途絶えれば、俺は死んだということだ。お前たちは二人で助け合って生きてゆけ」
「兄ちゃんが死ぬなんて嫌だ!」
「広利、俺たちの暮らしはいつも野垂れ死にと隣り合わせだ。いつ死んでもおかしくない。俺たちが幸せを掴むには、これしか方法がない」
弟妹を再び強く抱きしめる。もう会うことは叶わないだろう。俺にとっての唯一の人間と呼べる家族の温かさ。それを魂に刻み込む。
俺の家族で、俺の幸せ。大切な二人。
筋書きはこうだ。俺が妹を強姦し、広利が助けを求めたところ、武官の男が急行して俺を殴り倒して縛り上げ、警吏に通報する。だから齟齬がないよう、弟妹を納屋の外に出してから武官は俺を殴り、捕縛した。
荷物をまとめた弟妹と武官の男が去ったあと、納屋でぼんやりと転がりつつ、痛む腹が熱を持っているのを感じた。固く締め付けられた縄が擦れて痛い。殴られたことなど星の数程ある。骨が折れたこともある。
武官の男は暴力の専門だ。だから最も派手に見えるよう、俺が武官と僅かでも争ったように見えるように何箇所かに跡に残らぬ打撲痕を作ってもらった。
実際に目を閉じると、さほど痛くはない。けれどもこれで弟妹とは今生の別れだと思えば、やけにその傷が傷み熱を持つのだ。
やがてばたばたと慌ただしい足音が納屋に踏み込んでくる。転がっていた俺は乱暴に引き立てられた。目の前に仁王立ちになったのが懇意の警吏であることに、心の内だけで胸をなで下ろす。
警吏は厳しい顔で俺に告げる。酒を奢ったときとは全く異なる硬い声だ。
「貴様は李延年で間違いないか」
「ありません」
「貴様の妹から、貴様に強姦されたとの陳情が上がっている。相違ないか」
「ありません。暮らしに先が見えず、いっそのこと死のうと思い、その前に……」
「どのような理由があろうと妹を襲うなど言語道断。畜生にも劣る行いだ。引っ立てよ」
警吏に引き立てられ、市を歩く。ヒソヒソと後ろ指をさされた。先祖に辱めを与え、自身を辱め、道理を外して引き立てられる。縄をかけられ首枷をはめられ、痛んだその身を晒しながら。
そして俺は人ではなくなる。
弟妹には便りをよこすとは伝えたが、もう会うことはない。計画に失敗すれば俺は死ぬ。計画が最上に進めば俺は後宮に入る。後宮に入れば二度と城外には出られない。帝の寝所とはそういう場所だ。現実とは切り離された場所だから。
けれどもそれで弟妹が幸福というものを手に入れられるのであれば、それでいい。
集まる視線は目に入らなかった。いつものように空を見上げると、薄い雲がたなびき晴れ渡る青い空の下、高台の上に長安城の威容が見え、そしてその少し上に白く丸い月が昇っていた。桃源郷はあそこにある。俺はそこに奴婢としてでも家具としてでも食い込んで、最も尊き夢の中で俺を一番高く売る。そこで得た幸福を弟妹に届けるんだ。
最初の賭けに勝った。
体の重だるさと高熱に浮かされながら、尿の漏れる音を聞く。
俺の刑の執行は腕の立つ医師が行った。あの高級官吏が手配した貴人の腐刑を執行する医師だ。
初老で小柄な医師だが腕は一流だった。手技は通常の罪人が収められる劣悪な環境下ではなく、貴人が処されるときに用いられる綺麗な室で行われた。とはいえ、複数人の男に押さえつけられ、根本を紐で縛られて消毒し、専用の鋭い鎌で一息に切除する。その行為は鮮やかで、その衝撃で俺は意識を失ったが、傷口を縫い合わせて消毒し、無理やり起こされ体内から血が出きるまで強引に歩かされてから尿道に栓をされた。三日三晩飲まず食わずで時折同じように歩かされ、体はがくがくとおこりのようにふるえているのに頭は熱に浮かされ、彼岸と此岸の境もわからず高熱に苛まれる。唇は乾き、ひび割れた。全身がバラバラになったかのように熱を持つ。俺が俺ではないようなフラフラとした心持ちだ。
これがおそらく人から人ならざるものへの変化に伴う苦痛と言えるものなのだろう。人としての俺はここで一度死に、宦官という生き物に生まれ変わる。
四日目にきちんと尿が出た。これで尿が出なければ、体内に毒が溜まり死ぬのだそうだ。俺は最初の賭けに勝った。けれども人ではなくなった。
何が違うのかはよくわからなかった。ひたすらに体が重い。朦朧とした頭で見下ろすとその下腹には何もない。なんだかよくわからない妙な気分が心に溢れた。
「うむ。体はまだ碌に動かぬだろうが、安静にしていれば大丈夫だろう。粥から始めて少しずつ固形のものを食べるが良い」
「先生、ありがとうございます」
医師は柔らかく頷く。
「見かけによらずお前さんは強いね。目が死んでない。大抵は死んだ魚のような目をしていて、手技は成功したのに死んでしまう者も多いのだよ。今はまだわからないだろうが、傷もうまく塞がりそうだ。注意点がいくつかある」
それは官吏から事前に聞いていたことと同じだった。
これまでと違って思う位置に排尿ができない。だから女と同じように座って行うこと。慣れるまでは排泄の調節ができないから蝋で尿道に栓をすること。そうしなければ垂れ流しになってしまうこと。
なんだか惨めだ。本当に、獣になったのだなと感じる。けれどもこれまでの生活を顧みても、獣と何が違うのだろうとも思った。だからやっぱり、今更だ。
「それで配属の希望は本当に城外なのかい? 折角の美貌だ。後宮に入れば貴妃にチヤホヤされて楽な暮らしができるだろうよ」
「いえ。できれば後宮の外に。そして可能であれば極端な力仕事でない仕事がありがたいのです」
医師はふうむと述べて俺の肉付きを眺めた。歌舞のために鍛え、それなりに引き締まってはいるが、肉体労働に必要な肉というものがつかない。
配属されたのは犬舎だった。長安城では多くの目的で犬を飼っている。食用犬というのが一番多い。薬に使うのだ。あとは様々。狩猟用、愛玩用、番犬、儀式用。
そして俺が配属されたのは狩猟用の犬舎だった。ちょうど人が足りなかったらしい。城外とはいえ城に近く、市街からは少し遠い落ち着いた場所だ。帝の御料地である上林苑と長安城の間にある。
その犬舎では帝専用の十頭程の犬が飼育されていた。帝の犬だ。犬舎は絢爛で、弟妹たちが城下で暮らしていた納屋などとは比較するのもおこがましい。美しく彩られたその犬舎の広さは犬一頭当たりにつき人一人が住める程の広さだ。もちろん俺にあてがわれた納屋より格段に広く綺麗に掃除されている。つまり俺の新しい生活は俺よりよほど高級で尊き犬に仕えるところから始まった。
犬舎では初老に差し掛かる背の高い宦官がその監督をしていた。他に人はいないようだ。望みうるべき最良の配属かもしれない。俺は手を回してくれた官吏と医師に感謝した。
長年この職についていたのだろう。その監督の宦官の犬の扱いには熟練を感じた。普段は温厚そうなのに犬の訓練の際には人が変わったように厳しくなり、左に腕を振るえば犬は左に、右に振るえば犬は右に、見事な隊列を組んで鮮やかに走る。師の宦官は、犬舎程の大きさではないにしろ、犬舎の近くに小さな小屋が建てられ、そこに住んでいた。
俺の仕事自体は簡単だ。朝夕に犬に餌をやり、訓練の間に犬舎と監督、俺の新しい師となった宦官の室の掃除をする。要は雑務だ。流石に帝の犬だ。よく躾けられていたから何も難しいことはない。それに俺は旅の途中、犬使いの一座と合流したことがある。その際に多少の手解きを受けていた。その一座の犬に比べても帝の犬は格段に品も行儀も良い。
「お前さんは妙に慣れているね。犬を扱ったことがあるのかね?」
師は感心するように呟いた。
「以前、犬使いの一座で働いたことがあります」
「ほう、それはいい。犬を怖がらぬ者というのはなかなか少ないのだ。この犬らは猟犬ゆえな」
師は深く頷く。
「ここの犬はよく訓練されております。一座の犬よりよほど」
「ふむ。肝が据わっているね。いつだったかな。犬が食えると思った体ばかり大きい宦官が配属されたことがあったんだがなぁ。猟犬の訓練を見てすぐに怖気づき、反対に食われると思い込んで動けなくなったんだよ」
それでは確かに使いものにはならないだろう。犬というのは勇敢であるが、存外繊細なのだ。特に上下関係においては、常に上であることを示さなければならない。だから一旦犬に舐められると、使いものになりやしない。面白半分に追い回される羽目になるだろう。
「それにしてもお前さん、もう少しマシな格好というものをしてはどうなのかね?」
師は眉を顰めて苦言を呈する。俺は腐刑によってやつれ、髪は乱れるままにしていた。服は支給の粗末な垢じみた襤褸だ。おまけに体に黒く炭を塗って浅黒く見えるようにしている。つまり、俺を美しいと思う者はいないだろう。
結局のところ、最終的には高く売るための美しさが必要であったとしても、美しさだけにしか価値がなければいずれ飽きられて捨てられる。だから俺がこの城内で生き残るには、美しさ以外の価値を武帝に示さねばならない。そしてそのためには、美貌を安易に晒すわけにはいかなかった。
宦官など最底辺の共有財産だ。拒否などできるはずがない。美しいと噂になり、妃にでも囲われればそこですべてが終わってしまう。価値を示す以前の問題だ。なにせ後宮に男は帝お一人、女は数千人も侍っていて、召し上げられたあとに一度も帝に見えることなく下げ渡される者も多い。つまり男という存在に飢えている。見目の良い宦官の中には宮女に飼われて楽しく暮らす者もいることは、あの官吏からも聞いていた。そんな生活など、宮女に飽きられ或いは容色が衰えた時点で終わりだ。旅芸人と何も変わらぬし、その宮女の立場にすべてが左右される。
そんな不確かなものに寄って立つことはできない。
俺にできることといえば結局、歌舞。つまり舞と歌だ。
そして俺は少しずつ種を蒔いた。
「またあったわ」
『この城に在られる尊き方』
「これは何かしら」
「恋文なのかしら?」
そんな呟きが聞こえる。
『私は存じております』
「けれども、どうしてこんなに切れ切れなの?」
『この肥沃な大地が広がり』
『人々は皆低く頭を垂れて』
「頭を垂れ、ってことはこの歌は高貴な方に捧げる歌ではないのかしら」
その内、犬舎の周りで流麗な字で詩の断片が書かれた木の皮が見つかるとささやかれるようになった。それらは噂好きの下働きたちの恰好の暇つぶしになる。物好きがその正体を探し始め、犬舎に新しくやってきた背の高い細身の宦官がやっているのではないかとの噂が立つ。
そこに至り、師は心配そうに俺に尋ねた。
「なぁ延年、最近噂になっている詩はお前さんの仕業なのかい」
「はい、お師様。わたくしにとって偉大な武帝様は物語の登場人物にも等しいのです。帝の使われる犬の世話をしておりますと自然と言葉が湧き出てくるのです」
「ふむ。そういうものかねぇ。最近この犬舎周りに人が増えてきて犬が落ち着かなくてね」
「申し訳ありません。やめたほうが良いでしょうか」
師は悩むように首をかしげた。
「お前は酒も飲まないし品行も随分方正だしなぁ。まあそのくらいなら良かろうが、その辺の木の皮に書いて放置するから人が見つけるのだと思うよ」
「そうはおっしゃられましても、わたくしは紙や筆など持っておりません。犬の餌の肉を刻む小刀しかありませんから、その辺の木の皮に刻むしかありません」
師は得心するように首を縦に振る。
「それもそうか。まあお前は真面目だからもう少しましな暮らしになるよう申し出ようかね」
「ありがとうございます」
俺はそのころには師に代わって犬の訓練の一部を行うようになっていた。師はもう初老と言って良い年齢で、遠方への行軍指揮の練習などは少し億劫になっていたからだ。帝が狩りに犬を用いるとなれば、師は犬を追って走らねばならない。それは既に困難だった。だから俺が遠くに出る犬を扱い、師と連携して獲物を狩る。この他にも俺が師の代わりに遠方の用に出向くこともしていた。そのために、多少は小綺麗にする必要もあったのだ。
師は廷吏と相談の上、これまでの犬舎の一角の小屋の代わりに、少し離れたところに打ち捨てられていた小さな小屋を俺に与え、襤褸の代わりに簡素な衣服もくれた。
「お前……それ程に美しかったのかい」
師と廷吏はただの生成りとはいえ汚れのない服を纏い簡単に髪を結った俺を見て、目を見張った。
「なるほどねぇ。なんとなく、お前が後宮に近づきたくない理由がわかったよ。お前は美しすぎるんだ。これじゃぁ宮女のやっかみもひどそうだねぇ」
「お師様から見てもそのようでしょうか。わたくしはこれまで女性との間で碌な目にあったことがありません。ですから女性ばかりという後宮というものがおそろしいのです」
「ああ、そうだろうなぁ。あそこはわしにはちっともわからん。わしが帝について狩りに向かうとき、一緒に貴妃様方がお越しになることもあるが、これまで見たどなたよりもお前は美しい。だから後宮で生きていくにはよほどの才覚が必要だろうね」
そう呟いて、師は何度も頷く。
俺は誰よりも美しい。だから俺は最も尊き方、武帝に自身を売る。そのためには貴妃のいないところで売り込まなければならない。貴妃たちが自ら囲うのであればともかく並び立ち寵を争うつもりなら、その前に立つのは敵対行為でしかないのだ。その目に止まることは下策だ。敵に回すことは愚策だ。後ろ盾がない以上、俺はすぐに潰されてしまう。
だから千載一遇の機会を待つ。
俺は美しく着飾りたいわけではない。犬の糞に塗れようとなんら厭うことはない。何よりこれまでの人生こそが糞なのだ。毎日体を売り、それで得た僅かな金で糊口をしのぐ。そんな生活よりこの人ならざる生活は既によほど上等だった。弟妹のことがなければ、この規則正しく職を得た生活で満足すらしていたかもしれない。
けれども俺は弟妹のためにここにいる。このままでは弟妹もかつての俺と同様の暮らしが待っている。その温もりが失われることは、闇に呑まれたこの身にもひどく耐え難い。
見上げると高い城壁が聳え立つ。長安城の南西にある犬舎は武帝の住まう未央宮のすぐ裏だ。この見上げた先に俺の目的がある。夢の主がそこにいる。なんとしても俺はここで、のし上がる。
この林に繋がる僻地は通常、人が来る場所ではない。けれども時折、噂を聞いた宮女が覗きに来た。だから俺は顔の前に布を垂らすことにする。これで俺の顔の美醜などわからないはずだ。
こんな犬臭いところに来る宮女も珍しい。だが、今も着飾った子どもが覗きに来ている。どこかの貴妃の侍女だろう。
『山野におわせば野獣も鎮まり』
『世を照らす太陽であられる』
「お兄さん、なんで変な布を被っているの? お化けみたい」
「お兄さん?」
その聞きなれない声に顔を上げると、十四歳程の異国の少年が俺の手元を覗いていた。艶やかな黒髪を短く後ろに結び、彫りが深く大きな瞳は僅かに藍色を帯びている。城外でもたまにいた外国の者だろう。ここまで近くに寄ってきた者は初めてだが、その興味を隠そうともしない煌めく瞳に軽くに見惚れた。
「このほうが落ち着くんだよ」
「変なの。それで詩を書いてその辺にばらまいてるって聞いたんだけど、なんで?」
「なんで……趣味だよ。それよりお前は誰だ」
「僕? 僕は埃斯菲亞。平陽公主様の奴隷だよ。もともと波斯から来て、公主様に買い取っていただいたんだ」
平陽公主。その言葉に思わず筆を止めた。それはあの高級官吏が言っていた武帝の姉。
「えすふぃあ? 何故公主様の奴隷がこんなところに?」
「城の外れで詩を書いてる奴がいるらしいから見てこいってさ」
見てこい。どなたか貴人の興味でも引いて帝に関心を持たれぬかと思ってやっていたことだったけれど、望外のところに話が繋がった。僥倖だ。思わず握る筆に力がこもる。それならば利用しない手はない。急いで新しい紙に詩を書き付けた。
よい風は吹くべきときを知り
この世界をめぐっています
公主様の歌舞も新しく寵を受けられ
風に乗って世界に伝わっています
「公主様は歌舞音曲に詳しい方だと伺った」
「そうだよ。たくさんの踊り子がいて、みんな練習してるんだ。僕も習ってる」
「踊りを? どんな?」
「やってみるよ」
エスフィアは一礼し、美しい姿勢ですくりと立った。それは初めて見る踊り。ゆったりした動きながらもところどころ大きく切り返し、時にはクルクルと不規則に舞う。その体躯の動きはさながらハチドリのようで、思わず俺は目を見張る。新鮮な驚きが訪れた。思えば他人の踊りというものをまじまじと見たのは初めてだ。
「凄いな」
「でしょ?」
「じゃぁ俺もお返しに踊るよ」
踊りの稽古は欠かしていない。夜に一人になると、毎日練習して鍛えている。宦官になってから体が少し変化した。体がほんの少しだけ重い。骨盤の周りに肉が付きやすくなり、筋肉の付き方が少し変わった。だから鍛えてはいるけれど、ひょっとしたら少し踊りの質が変わったかもしれない。
その違和感は俺に奇妙な不安を与えていた。誰かに見せようにもここには犬しかいない。けれども踊りを習うというエスフィアならば、見る目があるかもしれない。
呼吸を整える。誰かの前で踊るのは久しぶりだ。この犬舎に来てから、人でなくなってから三箇月ぶりだ。
宦官になっても俺の精神は何も変わらなかった。俺の中には変わらず弟妹のことだけだ。精神まで人でなくなってしまったら、という不安は現実にはならなかった。
だが体は人であったときと何かが異なったのだろうか。
わからない。以前と同じように腕を伸ばす。みしみしと軋む筋肉の動きが以前と少し異なる気がする。けれどもその軋みには最近、馴染んできた。だから同じように動いているのだろうとは思う。
ふわりと地から浮かび上がり、いつも通り天を求めて届かず再び地に落ち、水を掻くように宙を泳いで同じ床に着地する。
「……凄い。音がしなかった」
「音?」
音がするかどうかなんて、考えたことがなかった。それはいいことなのかな。そう考えて体に目を落とす。今身に纏っている直裾袍は裾の長い一枚布の衣服で、腹の部分で体に巻き付けるようにし帯で止めるものだ。だから体の動きがよくわからないのかもしれない。つまり、踊りの良し悪しまではわからないのかも。
「うん。お兄さんも踊り子なの?」
「そうだな。そういえば公主様と宮城にいるということは、君も宦官なのかい?」
「そうだよ」
「宦官になってからどうにも体の動きがおかしくてさ。踊るのに何かコツはないかな」
「ああ、お兄さんは大人になってから宦官になったのか。僕はもっと子どものころに宦官になったから、違いはよくわかんないんだ」
「そうか」
子どものころからそういうものとして育てば違和感はないのかもしれない。けれどもエスフィアは十四歳程にしか見えない。その子どものころと言うと七、八歳程度だろうか。俺と異なる理由で宦官になったに違いない。エスフィアにはおそらく他に選択肢などなかったのだろう。そう思うと、少し不憫だ。
「お兄さん、そんな目で見ないでよ。僕はそれなりに贅沢に暮らしてるんだぜ? お兄さんよりよっぽど。公主様のところに来る商人にも羨ましいって言われるもの」
エスフィアはにこりと微笑みながら、俺を上から下まで眺め下ろす。贅沢と言われてみれば、エスフィアの服は絹程ではないものの上等で、首飾りまでしていた。俺の生成りの服とは随分違う。
なるほど、公主といえば皇帝の姉だ。奴隷であってもこの城内で相応の居場所を確保できた者は、それなりの生活が送れるのだ。希望が見えた。宦官というものは国の奴隷だ。そうすると、やはり俺はここから帝の専属の奴隷にならねばならないのだな。
以降、エスフィアは時折俺の小屋を訪れるようになった。小屋の前の空き地の草を刈り取り、互いの踊りを披露しては色々と感想を述べ、俺は公主に敬愛と感謝を示す詩を贈った。踊るのは大体仕事の終わった夜だ。月明かりと未央宮から降り溢れる僅かな光を光源とし、サラサラと流れる葉擦れの音と虫や梟の声を音源とする。
その密やかな夜会は初めて俺に踊りというものの楽しみをもたらした。金を得、男を誘うため以外に踊るというのは初めてだ。
ただ、単純に踊りのために踊る。
これは踊りの稽古だ。武帝の前で踊る練習だ。夢物語のために踊るのであれば、やはり夢物語の踊りを踊らねばならない。この行為は小さいときに見た懐かしい夢に繋がっている。
「お兄さん、凄い。ペリみたいだ」
「ペリ? なんだいそれは」
「僕の生まれたところにいる火から生まれた妖精なんだ。背中に翼があって魔法を使える。妖精が空を舞っているみたい」
「火か。漢は火徳の国だ。縁起がいいな。お前も哪吒のようだよ」
「哪吒? それは誰?」
エスフィアは好奇心もあらわに目を輝かせる。
「ああ。托塔天王という神様の三男で、たいへんな冒険をする。蓮の花や葉の服を着て、たくさんの武器を持ち、風火二輪という火を噴く乗り物に乗って戦うんだ」
「凄い! かっこいい」
「じゃぁその踊りを踊るよ」
このエスフィアとの関係は奇妙だった。旅から旅でひとところに落ち着かない俺の人生には、親しい人間は家族しかいなかった。エスフィアと似たような存在と思えば、似ても似つかないのに広利が思い浮かぶ。二人とも元気にしているだろうか。エスフィアは別れたときの妹より少し上くらいだろう。それにしてはしっかりしている。教育というものが行き届いているのかもしれない。
「公主様が詩のお礼に何かくださるって。素晴らしいとおっしゃっていた。僕にはよくわからないけれど」
「それは光栄なことだ。よろしければ化粧の道具をお譲りいただけないだろうか。少しでいい」
「化粧? お兄さんいつも布を被っているじゃないか」
「誰にも秘密だぞ」
戸惑いながら布をめくった俺を見て、エスフィアは目を丸くした。
「本物のペリだ……」
程なく上等な化粧の道具が僅かな量届く。携帯できる量だ。
それからエスフィアが初めて見る男を連れてきた。愛想が良く、ガハハと笑う気さくな男だ。商人らしく、俺の体の採寸を始めた。服を一着仕立てていただけるという。
「素晴らしい体つきですな」
「そうでしょうか」
「ええ。色々な方の服を仕立てましたが、不思議なお体をされている」
「不思議……?」
「ふむ、宦官の方は気にされる方が多いのですがね、やはり体つきが丸くなるものなのです。けれどもあなたの体はとても引き締まっておられる。なのにその筋肉は薄い脂肪で滑らかに繋がっている。実に不思議で美しい」
「おじさん、お兄さんはペリなんだよ。妖精なんだ」
「ははは、確かにそんなふうだね」
滑らか。しなやかとはよく言われたが、これまでそのように評されたことはなかった。やはり他人から見ても俺の体は変化しているのだろうか。なんともいえない気持ち悪さが広がる。俺は変わってしまったのだろうか。
けれども男はかえって意欲を掻き立てられたようだ。
「仕立てがいがありますな。刺繍はいかがいたしますか」
「刺繍……刺繍は不要です。なるべく華美でないものでお願いします。犬番が着ていてもおかしくないものを」
商人の男は僅かに困惑したように言葉を漏らす。
「犬番、ですか? 公主様からは素材は問わないと伺っておりますが」
「構いません」
「お兄さん、化粧するってことは踊るんじゃないの?」
「踊る? それであれば一度見せてはいただけませんか? 袖の詰め方などによっては動きにくさが出るかもしれません」
なるほど。確かにこの犬番の服は簡単な衣装だが、体に合わせて仕立てるとなれば少し動きにくいかもしれない。夜に稽古していても肩が詰まることはある。
ただ、エスフィアは公主の奴隷だから口外するあてもないだろうが、商人というのは人の間を渡る。俺の踊りが市街で踊っていたころを知る者に繋がれば、今も練習をしているはずの弟妹にも行きついてしまうかもしれない。あまり話を広めたくはなかった。
「エスフィア、代わりに踊ってくれないか」
「僕が? まあいいけど」
エスフィアは仕方ないと呟いて背筋を伸ばす。
長安は朝夕の寒暖差が大きい。その夏が終わるまで、日が暮れて涼しくなった夜に俺とエスフィアは互いに踊りを見せて練習をしていた。だから俺の大凡の動きはエスフィアにもわかるはずだ。
エスフィアはゆっくりと動き始める。その踊りはそれなりに俺の踊りに似ていた。やはり平陽公主の芸妓奴隷だ。呑み込みが早い。ひょっとしたら妹より覚えがいいかもしれない。体格的には俺と大分異なるものの、これで可動部分はよくわかるはず。
客観的に自分の踊りを見るというのは得難い経験だった。改善点なども見えてくる。そしてエスフィア自身の踊りを俺の踊りに取り入れることを考えた。俺はこれまで一座の踊りというものを守ってきたが、もうそれに固執する必要はないのだろう。俺は既に人ではなくなったのだ。俺は俺の踊りを踊れば良い。そう思うと、体が軽くなる。
その後も時折エスフィアと踊りの練習をし、その内、衣装が届いた。不思議な衣装だ。基本は犬番の着る直裾袍だが裾がふわりと広がるため足元に不自由はなく、そこ以外は体の線に沿って張り付くよう仕立てられている。動きづらいのではないかと思ったが、肩周りや肘などの可動部分は生地が二重になり、大きく動いてもその重ねが広がって肌が見えないようになっていた。その下に褲を穿くようで、これも体にピタリと合わせて仕立てられている。
「お兄さん、不思議な衣装だね。そうだ、今度上林苑で帝が狩りをするんだって。そのときには、遠くまで行くそうだよ。公主様もお越しになるから力を見せなさいって」
「平陽公主様が。エスフィア、延年が感謝を申し上げていたとくれぐれもお伝えしてほしい」
エスフィアは明るく頷いた。
上林苑は長安の南西に広がる御料地だ。狩りを好む帝が拡大させた三百里にも及ぶ巨大な庭園だった。七十箇所もの離宮が設えられ、多種多様な動物が飼育されて、異国の珍しい果樹が植えられている。遠くまで行くのであれば、師では犬の制御が厳しいだろう。けれども帝のご命令は絶対だ。だから俺が呼ばれる。そのときが最後の賭けだ。
その狩りの日。
秦嶺の山から少し肌寒い秋の風が吹き下ろしていた。けれども陽は未だ夏の名残を残してじわじわと肌を温める。狩りには丁度良い日和だ。犬の動きも良い。俺は師の許しを受け、十頭の犬の内六頭を預かった。武帝の指示によって獲物を師の指揮する犬のもとに追い込む。そこで獲物を挟み撃ちし、師の犬が獲物を仕留めるという算段だ。俺は犬を自由に動かせるようにはなっていたが、狩りの機微という点については未だ経験不足だった。
獲物を追って広い上宛林を駆け回るのに、思った程汗をかかないことに気がつく。体が変わったことによって、体温が下がったためかもしれない。動きは思ったよりは、悪くなかった。
狩りの結果、武帝に五頭の鹿を献上できた。上々の成果だ。師もこれまでの最高記録は四頭であったと言い、喜ばしげに俺の肩を叩いた。
けれどもここからが本番だ。片付けを急いで終わらせ、顔の布を取り、木陰で化粧を施す。武帝から声が掛かるとしたら、今しかない。
武帝から声が掛かる。その想像に俺は思わず紅を塗る手を止めた。
俺は今まで武帝に買われることを目指していた。そのために詩をばらまき、踊りの稽古を欠かさなかった。
けれども本当に武帝が? 未だに心の底では半信半疑だ。
遥か昔、俺の隣に立っていた武帝はただひたすら輝かしく、真っ直ぐに匈奴に目を向けていた。そんな武帝が俺を、買う? そんなことはあるはずがない。心はそう反発する。なのに、会って俺を売る? 一体それはなんなんだ?
考えを中断する。かぶりを振った。
俺はそのためにここにいるんだ。俺はこの桃源郷で生きるために人をやめて宦官となった。ここは長安城で、武帝がいらっしゃる。手練手管で武帝に取り入り、弟妹のためにその財をかすめ取る。
チリチリとした奇妙な違和感に目眩がする。それは一体、誰の話だ。
いや、そろそろ時間だ。狩り用の分厚い手袋を脱ぎ、傷つかぬよう巻いた布を取り払う。爪に描いた文様は些かも崩れてはいなかった。髪に油を塗る。桃源郷に住まう平陽公主の香油は俺がこれまで嗅いだことのない甘く清涼な香りがした。これが桃源郷の匂い。俺は必ずここに住むのだ。
「延年、ここにいたか。何をしておるのだ。今、帝からお呼びがかかって……」
師は振り向いた俺を見てぽかんと口を開けた。
「お師様。わたくしは美しいでしょうか」
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「蓮の花。お師様、ありがとうございます」
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※6:ペルシャ
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「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
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