恒久の月

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1巻

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 そうする内に、次第に俺を買う者の身分が上がっていく。それにつれて下げ渡される金子は増えた。俺一人の一夜の稼ぎで家族を何日分か養える程の金子が手の上に載る。長安、大都市というのはやはり金払いがいい。来て良かった。まだ子どもといえる弟妹をこれまでのように働かせる必要すらないことに安堵あんどする。
 その日。俺はとうとう長安城に上ることになった。その巨大な城の城壁は高さ三十五尺もあり、その上を歩けるようになっているそうだ。市街と区切られた城塞の内には帝と一部の特別な官吏のみが住む。今まで眺めあげるばかりだったそこに上る段になり、俺はその荘厳さにわずかに足がすくんでいた。長安には見たこともないものがあふれてはいたが、俺が知らない世界ではなかった。だがここは。この城壁の内側に区切られた区画は、その巨大さからもこの世とは隔絶された世界のように思われた。
 ここは本来、下賤の身である俺が上がれるはずがない尊きところだ。数日前から俺を召している官吏の伝手つてがあって初めて入れる場所。
 その官吏は俺のために美しい衣を用意した。これまで見たことのない透けるような光沢つややかな布に細かな刺繍で飾りたてられた衣服。これ一枚だけでどれ程の金子が動くのだろう。おそらく俺が荒野で一生舞い続けても爪の先程も届かない額だろう。ここはこのような布がまとえる者しか本来立ち入りが許されない場所なのだ。
 この布が何枚かあれば、俺の弟妹は身を売らずに生きていかれるだろうか。けれども金にすると奪われるかもしれない。すべて売ってなくなれば終わりだ。その後は、その子や孫はまた体を売るしかなくなる。呪いは続く。
 ふいに両親の言葉を思い出す。あれはたまたま訪れた村で罵声を浴びせかけられたときのことだ。

「延年、俺たちの祖先は巫女なのだ。神の言葉を身におろして舞う誇らしい仕事だ」
「神を?」
「そうだ。この村にいるような土地に縛られた者とは違う高貴な仕事なのだ」

 馬鹿馬鹿しい。
 俺がまだ身を売っていなかったころのことだ。両親は地に定着する民を馬鹿にしていた節がある。そのときどう思ったかは既に覚えてはいないけれど、その日暮らしに身を売る仕事よりも、どこかに定着し地道に働いて毎日を過ごす生活のほうがよほど素晴らしい、そう思う。心の底から。旅芸人という仕事自体がどん詰まりで、旅芸人をしていたというだけで信用などないに等しい。他の仕事は得られない。商売をする伝手もない。大都市であればと弟妹を奉公に入れようと試みたが、すべて断られた。
 長安城の待機室で、俺に美しい衣装を与えた官吏に尋ねた。

「旅芸人の子が市井しせいの徒弟に入ることは無理なのでしょうか」
「無理だよ。旅芸人なら旅芸人らしく技を鍛えるが良い」
「どうしても無理なのでございましょうか」
「おや、珍しく食い下がるね。だが無理だ。信用ができん。君は賢く分をわきまえ、そして芸という技能を持つからこそ私が保証人となり、城に入ることができるのだ。けれども旅芸人の子など誰が保証する。財を奪ってぱっといなくなってしまえば終いなのだよ。そんな者を雇うことなどできまい。例えばそこにある備品一つすら、君たちの価値を大幅に超える」

 官吏はそう述べ、仙花と呼べる程美しい花の飾られた銅の壺を指す。

「もし君がこの花一輪でも奪って逃げれば莫大な損害になる。そもそも私の面目がたたない。私も城に上がれなくなる」
「そのようなことはいたしません」

 そう言ってみても、意味がないことはわかっている。旅芸人など野盗や野人と同じだ。町という制度に属さないからこそ安易に場所を移動できる。移動できてしまうから財産を奪い逃げることができてしまう。一旦姿をくらませば、他の町に移ってしまえば、どうにもならない。そういう印象がつきまとう。旅芸人というだけで働き口などないに等しい。結局、俺たちは生まれたときから一座の呪いにむしばまれている。
 それでも力仕事ができれば別だ。身分を問わない日雇い仕事というものがある。己のこの細い腕が恨めしい。こんな体では農作業や力仕事はできない。だから鑑賞品として綺麗に飾られ、使われるしかない。古くなって打ち捨てられるまで。

「君は美しい。けれども美しい人間ではない。美しい道具だ」
「心得ております」
「ならばそのように振る舞い、財を得るが良い」

 おとなしく平伏すると、官吏は満足そうに頷いた。
 髪に香油が塗られ爪がいろどられる。女官はその道具を手入れする者たちだ。その技術を食い入るように見つめる。俺の商品価値を高める方法を。つまるところ俺は、その官吏の手土産として誰かに献上されるのだ。それでも一向に構わない。もとより俺はそのようなものだったから。
 この見事な衣も言うなれば包装だ。俺を飾り立てるものだ。それならば中身の俺自身もおそらくそれと同等程度には売り物としての価値があるのだろう。ならばきっちり売りつけよう。俺はそのためにここにいるのだから。
 その内に宴席の用意が整ったと、召使いが呼びに来た。城門の内側は漢の貴色の黒と漢の五徳、五行思想の火を表す赤の二色の敷石が整然と並び、幾何学的な模様が道を彩っていた。その少し先の朱塗りの建物が目的地だと告げられる。
 欄干らんかんを進む官吏のあとをついて歩く。欄干の手すり一つとっても精緻な装飾が施され、屋根瓦も豪奢な模様が彫り上げられている。
 夜なのに、次第にがやがやと騒がしい宴の声が聞こえてきた。長安であっても市下では夜のおおよそは寝静まっている。室の白い明かりから良い香りが漂うことに驚く。富豪や飯処などであれば明かりが灯っていることはあるが、魚油や獣油で臭く黒い。白いということは植物から作られた貴重な油を使っているのだろう。その白く美しい光は同じように天上に輝く月を思わせた。
 官吏が歌舞の献上の口上を述べ、俺は長い袖で眼前を覆ってするすると白い明かりの中に進み、平伏する。

「ほう、なかなかの美しさだな。顔を上げよ」

 その言葉はおそらく、俺の衣と所作に対してのものだったのだろう。そして声に従い伏していた顔を上げてにこりと微笑むと、場にいた誰もが息を呑むのがわかった。俺は美しい。だからその反応は、それ程特殊なものではなかった。
 けれども俺も小さく息を呑んだ。
 俺の視界に広がるものは絢爛けんらん。その一言に尽きた。ここは天上だ。まさに、住む世界が違う。その小さな感動は、さざなみのように俺の心に押し寄せた。
 そこは未だ長安城の外れであったにもかかわらず、俺がいつも伏せる世界とは全く異なっていた。見たこともない白く光を放つ石で作られた彫刻に、見たこともないゆうこんな画法で描かれた絵画、千々ちぢの綾糸で編み込まれた文様が浮かび上がる敷物、仙界の風物が描かれた白磁。そのような宝が部屋全体に飾られている。そして部屋の中心にしつらえられた卓には見たこともない食物が得も言われぬ香りを放ちながら、美しい金器銀器にこれでもかという程盛り付けられ、皓々こうこうと焚かれた明かりにきらめいている。量も尋常ではなく、食べ切れるとは思えない。

「このようなものは見たこともないかね」

 思わず呆けていたことに投げかけられた声で気づき、再び平伏した。

「誠に失礼いたしました」
「構わん。一つ食べてみるがよい」

 愉快そうな声に従い、下げ渡された初めて見る白い玉のような果実の一欠片を口に含むと、爽やかな風が鼻腔を駆け抜け、瑞々みずみずしさと妙味が口中に広がり、夢を見るような心地になった。ここが桃源郷なのではないかと信じられる程に。そして実際、その白い玉のような果物は閩越から急ぎ運ばれた茘枝れいしという仙果なのだそうだ。
 ここはうつとは異なる。桃源郷にも等しい。ここに留まれるのならば、弟妹を呪縛から解き放てるのではないか。それ程、この場所と俺の暮らすけがれた現実とのへだたりを感じた。
 一瞬目を閉じ、決意を込める。ここが正念場だ。俺を売るべき者がいるかもしれない。
 いつしか透き通るように上等な音色がゆるやかに流れ始めた。
 いつもと異なる美しい薄絹をまとって舞う。体を伸ばして少しでもより優雅に美しく見えるように、そして吐息の一つにも注意を払う。微笑みを絶やさず、一人ずつの目をきちんと見て誘う。
 俺を買え。金を払え。
 床を蹴り宙に飛ぶ度に、どこからかほうとため息が漏れた。いつしか夜のとばりが下りて、衣擦れの音が耳をくすぐった。長いときのあと、俺はその夜、俺を占有した上級官吏に尋ねた。

「あなた様はこちらの長安城にお住まいなのですか?」
「ああ。そうだよ。城の中に部屋をいただき住んでいる」
「このように高貴な場所にわたくしが上がれるなどと、考えてもおりませんでした」

 官吏は不思議そうに俺を見た。よく考えると、場所を褒める者などあまりいないのかもしれない。

「装飾も食べ物もすべて初めて見るものばかり。まるで桃源郷のようです」
「はは、なるほど言い得て妙だな。すべての文物はこの長安こそに集まる。はるか遠くの世界からもな。そしてこの長安城にはその中でよりまさったもののみが上るのだ。なにせここは帝がおわす城だ」
「帝が……?」

 官吏がさも当然そうに述べるその言葉は、まるで雷のように俺に落ちてきた。慌てて問う。

「こちらに武帝様がいらっしゃるのでしょうか」
「何を言っておるのだ? そのための宮城だろう。帝はこの奥の未央宮で八千もの美姫とともに暮らしておられるよ」

 官吏はますます不思議そうな顔をした。よく考えれば当然すぎる程当然のことだ。長安城は帝の居城。ここにいなくてどこにいる。そもそも俺は武帝の近くにと思ってこの長安を訪れたのだ。
 急に心の臓が揺れた。血の巡りが速くなる。ここに、武帝が……? 夢の中で走り去ってしまった武帝が、ここにいる、のだろうか。それは既に、ひどく現実感の乏しい話だ。
 武帝は実在する。それは知っている。
 けれども俺の中で武帝は伝説で、夢だった。夢は夢、現実は現実。そのように現実を見るしかなかった俺に、突然その武帝がいると言う。
 まさか。思わず息を呑んだ。こここそまさに俺の思い描いていた夢?
 頭の中もぐらぐらと揺れる。

「武帝様の後宮はこの近くにあるのですか?」
「この城の最も奥の南西側、未央宮が帝のおわすところだ」

 ここに武帝がいる。心臓がどくりと大きな音を立てた。
 俺がかつて抱いた幸せ。世界をべる夢物語。今も時折舞って、遠い思い出に浸る。
 それが、走り駆け抜ければ、ひょっとしたら会えるくらい近くに存在する? そんなことは思ってもみなかった。武帝は俺と異なる世界にいるのでは?
 けれども神仙の活躍する物語がこの中華を舞台としているように、武帝の物語はこの中華を舞台としている。それは同じ場所であっても夢と現実という形でへだたり、桃源郷のように遠いところにおわすのではないだろうか。
 いや、そうじゃない。ここには武帝がいらっしゃる。それであればここはまさに桃源郷なのだ。ここは、夢の中? 思わずあたりを見渡した。

「ここが、桃源郷?」
「急にどうしたというのだ?」
「……わたくしの中で武帝様は雲の上のお方で、いつも市井しせいで噂を聞き尊崇しておりました」
「ふん。面白い。そして何よりしゃくな」
「粗相がございましたでしょうか」
「それよ」

 官吏は俺の口中に冷えた茘枝れいしの実を押し付けた。寝所の脇に控えた頭に花を飾られた奴隷が、美しいギヤマンの器にいれて捧げ持っていたものだ。

「お前がそのように人のような顔をしたのは最初に宴に入ったときと、今帝の話をしたときのみだ」
「人のような」
「お前は作り物だ。宝玉で作られ、お前の手によって極限まで高められた美しく精巧な人形だ。だからこそ高価で特別なのだ。けれどもそのように人の顔をされてしまえば、ただの人間を抱いているのと変わりがない。つまらぬが、それもまた面白みがあるな」

 俺の、顔?
 俺はどんな顔をしているというのだろう。思い出していつもの微笑みを浮かべる。最も評判の良いものを。

「ふむ。そのように人形のような顔をしていれば、帝の後宮の八千のどの美姫よりも美しかろうな。であるから帝の室の付属品にはなれるかもしれぬ。その壁に立っている奴隷のように」
「武帝様、の」
「けれどもそのように子どものような顔をするのであれば、帝の室にはべれるのかもしれぬな」
「武帝様、の」
「けれどもどのみち、それは不可能というものだ。お前が帝に侍ることはできぬよ。なにせ奥に入ることのできる男は帝を除けばすべて宦官ばかりだからな」

 宦官。
 官吏からはあざけるような声がした。
 けれども天啓のように降ってきたその言葉は、俺に混乱をもたらした。武帝は太公望たいこうぼう西王母せいおうぼにも等しい伝説だ。人間ではない存在だ。それがこの長安城に存在し、宦官になればそのそばに侍れるというのか? 夢と現実が混じり合ったこの長安城で、夢に繋がるその言葉。
 急に、世界に光がさした気がした。あの夢の中のように。思わず涙がこぼれる。武帝とともにあったときに感じた光。

「一体どうしたというのだ」
「いえ、なんでもございません」

 宦官になれば、この夢の中にいることが、できる? かつてすっかり諦めてしまった光。
 俺の現実。旅芸人はこの巨大な帝都長安ですら、まっとうな仕事につけなかった。俺の細腕では素性を問わぬ日雇い人足にんそくの仕事につくこともできやしないのだ。さりとて学がない俺には官吏など望むことすらおこがましい。だから世界をあてなく彷徨さまよい歩くしかない。けれども宦官となれば。ここ、長安に留まることができるのだろうか。
 横たわる寝具に手を添わせる。柔らかくなめらかな絹。天上を思わせる柔らかな羽毛。このような高級な寝具になど、これまで触れたこともない。ここは、こここそが夢とうつつの境目だ。俺が夢見た武帝の居城。ここに住むのは食べ物や金に困ったことのない人々ばかりだろう。まさに桃源郷の入り口に思えた。
 今も弟妹が寝ているだろう馬餌のための藁布団わらぶとんとは全く異なる得も言われぬその触り心地。それから今も寝台の脇に備えつけられた奴隷を眺めると、官吏に近づき新しい茘枝れいしを捧げる。口に運ばれる妙なる甘露。仙果。
 脳裏に刻みつけられた薄い粥をすするしかなかった日々。両親が死んだ直後は草の根を齧り、飛虫をむこともざらだった。
 何故なぜこれ程までに異なるのか。人の形は同じであるのに。同じだ。目の前の上等な着物をまとう官吏も、俺たちを襲い父を殺した夜盗も、そこに立っている奴隷も。衣を脱げばすべて同じだ。俺と。
 そう思いながら官吏に再び口付ける。けれども決定的に異なるのだ。
 交わるつややかな唇の奥、はらわたの奥深くが沸々と煮えたぎる。何故違うのだ。違うのは住む場所だけなのか? 野の中にいるか、この桃源郷たる長安城の中にいるのか。
 違う。呪われているか、そうでないかだ。ここには呪いが届かない光がさしている。
 そうして夜が明け、戻るのはやはり弟妹のために間借りした納屋だった。馬小屋の脇に備え付けられた、馬具や積み藁の詰まった納屋。昨夜の夢が明瞭である分、この現実はひどく埃っぽくささくれていた。馬糞ばふんの匂いが漂い、小屋中にこびりついている。弟妹は夜、この納屋に鍵をかけて閉じ込められる。馬を盗まないように、だ。この落差は一体どこから来る。

「帰ったよ、二人とも。何事もなかったかい?」
「大丈夫だ、兄ちゃん」
「兄さん、おかえりなさい。無理はしていない?」
「ああ。大丈夫だ。今日もたくさん褒美をもらった。たまには飯でも食いに行こうか」

 二人の顔に喜びがさす。いつもは共同のかまどを借りて薄い粥を煮炊きするだけだ。

「マジか。やったぜ。俺は粥じゃなくて麺を食いたい。……大丈夫かな」
「ああ。大丈夫だ。肉入りの麺でもなんでも食うがいいぞ」

 広利は歓声を上げた。一体何が違うというのだ。
 長安は稼ぎがいい。だから今は弟妹も働かなくていい。
 だがこれは、一座がまだ目新しく珍しいからだ。いずれ飽きられる。飽きられると見向きもされなくなる。いつもそうだ。そうするとまた、他の地へ渡らなければならない。この長安にもずっとは留まれない。だから金を極力貯めていた。だから外食など滅多にしなかった。次の飢えに備えて。
 飯処に入る。なんでも好きなものを頼めと言うと、広利は再び歓声を上げた。妹は少し不安そうに俺を見る。頷くと喜んで饅頭まんじゅうを頼んだ。久しぶりに腹いっぱい美味いものを食べる。弟妹がこれ程幸せそうに笑うのはいつぶりだろうか。
 ただ飯を食う。それすらもままならない。
 幸せというものは果てしのない遠くにあるのだ。俺たちにとっては。
 今多くを稼いだとしても、俺たちを取り巻く現実が変わらない限り、金が尽きればいずれ妹や弟、その子らも、俺と同じことをするようになる。俺が無垢むくな弟妹にその手解てほどきをすることになる。そしていつか、野垂のたぬ。病を得ても薬なんか買えない。俺の父も母もそうだったように、それは確定した未来。無意識に噛みしめた奥歯がギリと鳴る。
 俺は違いを悟った。俺が暮らすのはあいも変わらず薄汚れた現実だ。そしてそれはどこに行っても変わらないと思っていた。桃源郷なんてない、心の底ではそう諦めていた。けれどもそうではなかった。
 違いは現実に暮らすか、夢の中で暮らすかだ。あの長安城こそは現実ではなく、夢の中にある。何故なぜなら夢物語におられるはずの武帝がそこにあられるからだ。くそのような現実の中で壊れた夢を見ることもできないのなら、俺はむしろ夢の中で生きよう。あの長安城で。それなら、それであれば。たとえどのような方法であっても俺は夢にたどり着く。
 その可能性がわずかでもあるのであれば、俺は失った夢を掴み、この愛する弟妹に幸せを引き渡す。

「二人とも、好きなものが食べられる生活がしたいよな。布団で眠れる生活がしたいよな」
「兄さん?」
「当たり前じゃん」

 二人を抱きしめた。この二人は俺だ。俺より少しあとに生まれただけの、俺なのだ。まだほんの少し幸せな俺だ。いや、未だ幸せとはいえない。幸せを夢見られる俺だ。
 だからこの二人を幸せにしよう。二人が幸せになれば、俺も幸せになれるはずだ。それが何かは、俺はとうの昔にわからなくなってしまったけれど。
 俺はそのとき、飯処から見える高くそびえる長安城の城壁を眺めて心を決めた。
 俺はこの城の一角に食い込むくさびとなる。一座を縛り付ける呪いを解き、必ず弟妹を幸せにしよう。
 機会は今しかない。俺が未だ高く売れる今しか。だから俺は何をしてでもこの機会を掴み取る。
 もともとそう考えていたじゃないか。俺は後宮の貴妃の誰よりも美しい。最も高く買う者に俺を売りつける。つまり、夢物語で見た武帝に。それが大それた夢だとしても、俺は夢の中で生きるんだ。


 そこから、俺たちは生活を少しずつ変化させた。
 歌舞のために借りていた市場の一角は返却した。そもそも俺たちが旅芸人であると思われているから駄目なんだ。俺は十分に顔を繋ぎ、夜の仕事は確保できていた。それであれば市中で踊って小銭を稼ぐことは、俺の価値に値崩れをもたらすだけだ。客は折角高額を払って俺を呼び寄せても、それが市中で無料で見られるのであれば興ざめだ。金をかけて呼ぶ必要もない。
 そして日中空いた時間、妹の歌舞の稽古に専念した。俺が失敗したとき、妹は自ら芸を売らなければならない。広利には笛や太鼓の稽古をつけるとともに、別の仕事もさせることにした。

「けど兄ちゃん。俺が働こうとしても断られるんだぜ」
「それは俺たちがこの都市の人間だと思われていないからだ。そして信用がないからだ」
「そんなことを言ってもさ」

 広利は唇をとがらせる。それが今、広利に見える現実なのだろう。

「この納屋を貸してくれたうまや人足にんそくとして使ってもらえないか頼み込もう。お前たちはきちんと真面目に仕事をしていただろう? だから簡単な仕事なら任せてもらえるかもしれない」
「本当に?」
「ああ。そうやって信用を作っていこう」

 広利は不安そうに、けれども頷いた。
 俺は失敗するかもしれない。だから俺が失敗したとしても、二人が俺なしで生きていける方策を真面目に考えなければならない。
 広利は俺や妹と違って、育つにつれて自然と肉がついていった。ドサ回りの旅というのは荷物を運ぶ必要があり、それなりに力仕事だ。最近、力仕事はもっぱら広利の仕事となっていた。俺には欠片もつこうとしなかった肉が、広利の肩や足、背にみっしりとついている。そしてこう言ってはなんだが、広利の体は俺や妹程しなやかではないし、ゴツゴツしていて美しくはない。楽器はともかく歌舞の才能はさほどない。だから芸事で生きていくことは難しい。一方で、信用を得て人足にんそくの仕事ができるようになれば、一人分の扶持ぶちくらいはなんとか稼げるようになるかもしれない。俺と同じくらいの年に育てば日雇いとしても食っていけるだろう。
 問題は妹だ。妹は俺と同じで肉がつかなかった。だからといって召使いなどは難しい。不似合いに美貌の召使いなど、揉め事のもととなるだけでろくな目にあわないものだ。だから、妹には厳しく歌舞を教えた。俺としては身をひさがなくとも歌舞だけで生きていける芸を身につけさせたかった。自らの食い扶持分さえ稼げれば、広利と助け合って身を売らなくても生きていけるかもしれない。そう願って。
 けれどもこれでもどん詰まりだ。何も問題がない、つまり野盗や事故にあうという危険がなく、病を得ないという前提でようやく成り立つ最低限だ。怪我でもすればすぐに立ち行かなくなる。その先が何も見えないことには変わりない。二人が真っ当に稼げるまで、見守れる者が必要だ。
 だから俺は空いた時間で市井しせいを回った。そして信用が置けそうな武官と知り合う。信用が置けるというのは、金で買えるという意味だ。金の価値を知り、金が払われる限り、裏切りはしない。俺と似たような目をした男だ。そのようなものは、俺自身でも見分けがつく。この男は俺の代わりになる。俺がいなくても、二人が一人前に育つまでは生計が立つようにできるだろう。
 それから俺は長安城に入り込むにはどうしたらいいか考えた。広場ではよく罪人の処刑をやっていたことを思い出す。警吏と知り合いになり、長安における刑罰というものについて小耳に挟む。
 腐刑ふけい。それは考えるだにおそろしいものだ。陽根と陰嚢いんのうを切除するということ自体のおそろしさもあるが、それによって人ではなくなることがおそろしい。
 宦官は子が成せない。そこで種が尽きてしまう。以降、自らを含めて祖先を祀る者を絶やすという意味だ。祭祀を行えないなど獣にも等しい。だから宦官は人ではない。
 結局のところ、人というものはいずれ死ぬ。そしてその死の軽重はどのように死ぬかにかかっている。最も大切なことは祖先の名をはずかしめないこと。その次は自らをはずかしめないこと。その次に道理を辱めず、人に辱められないこと。罪人の辱めを受けないこと。身に縄をかけられ鞭打たれること、首枷くびかせをはめられること、体を傷つけられること。そしてそれらを退けて最も忌避すべき恥辱が腐刑だ。
 つまるところ、宦官というのは人として最も辱められた姿である。これが常識だ。
 だから宦官というのは、人ではない忌むべき存在だ。適当に使い捨てられるもので、用をなさねば打ち捨てられる。ただ、宮の所有物というだけで、宮が所有の権利というものを放棄すれば興味本位に打ち殺されても誰も興味も関心も持たない。腐刑は死刑に次ぐ酷刑だ。
 当然、宦官になろうとする者などいない。普通はそのような発想を浮かべることも困難だろう。
 けれども俺にとっては弟妹を呪われた運命から解き放つことができるのであれば、何も躊躇ためらいはなかった。
 夢の中に住もうというのだから、俺自身も人と異なるものにならなければならない。そう自分を納得させる。
 問題は腐刑を受けたらどうなるのか、だ。

「お役人様、つかぬことをお伺いいたします。この広場では毎日様々な刑が執行されております。けれども腐刑というものは公開ではなさらないものなのでしょうか」
「うん? あんた、物好きなたちなのかい? あれは治療が必要だから専門のところでやるんだよ」

 言われてみれば当然だ。宦官は働かせるのだから、働けるよう治療しなければならない。それでも宦官となる内の五割程の人間が死亡するという。そんなにか。
 人ならざるものになるのだ。その過程で人として死ぬ。そして宦官という人ならざるものとして新たな生を得るのだろう。
 どのみち俺は年を取れば容色が衰え、体が動かなくなれば見向きもされない。このままでは野垂のたぬだけだ。もとより死んだも同じだ。何を恐れることがあるだろう。そう自分に言い聞かせる。
 俺は長安城に住む高級官吏に何度か買われ、その際に死なずに済む方法はないかと相談した。

「お前は人形をやめるつもりなのか?」
「いえ」
「妙な奴だな。わざわざ宦官になどならなくても、なんなら俺が高く買ってやるぞ」
「ありがとうございます。けれどもわたくしはどうせ売るのであれば、最も高く買っていただける方にお願いしたいのです」

 官吏はしばらく俺の目を見つめ、ふんと鼻で笑った。

「面白いが、これで最後か。もし宮中で伝手つてが作れそうなら、へいよう公主であればお前の後ろ盾になれるだろう」
「平陽公主様、でしょうか」
「ああ。あの方は帝の姉にあたる方で、帝との関係も良好だ。歌舞音曲に強い興味を持たれている。えい皇后はもともと平陽公主のところの奴隷の娘だ。芸妓げいこに仕立て上げたところを公主が帝に推挙したのだ」
「あの衛皇后の」

 衛皇后は皇子の母で、帝の寵愛ちょうあいが最も深いと言われている。

「そうだ。長安城は伏魔殿だ。後ろ盾がなければ、仮に帝の寵愛を得ても生きてはいけぬよ。殺されるからな。平陽公主は帝の姉君ゆえ、寵愛を争う貴妃たちと異なり対立関係には立たぬ。ゆめ、他の貴妃に安易に近づくのではないぞ。公主とうまく巡り会えたなら、取り入り後ろ盾とするが良い」
「あなた様はどうしてわたくしに良くしてくださるのでしょうか」
「ふむ。お前が気に入ったのと、まれに見る馬鹿だからだな。これ程美しいのにすべてを捨てて分をわきまえず、嵐の夜に月を眺めようとしておる」

 官吏は勿体もったいなさそうに俺の髪をかき上げた。

「そのような馬鹿には多少目をかけても誰も何も言うまいよ。俺が直接何かをするわけでもないからな。これも何かの縁だ。最低限は調えてやろう」

 官吏の手配で字や礼儀を習うことになった。学がなければ何も始まらないという。それも化粧と同様に俺の価値を高めるもの。
 最後の問題はどうやって宦官になるかだ。もっと言えば、どうやって城に潜り込むか、だ。
 漢の法律では腐刑ふけいとなるのは強姦の罪を犯したときと、複数回の肉刑※5にくけいを受けた者が罪を犯したときだけであり、宮廷で働く宮刑となるには前者である必要がある。つまり、後宮で労役につくには誰かを強姦したことにしなければならない。
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 妹に教えられるすべてを教え、すべてのできうる根回しを行った。

「二人とも聞いてくれ。俺はしばらくお前たちに会えない」
「兄さん!?」
「俺はこの長安で仕事をすることにした」
「その、危険なお仕事なのでしょうか」

 妹は聡いところがある。その不安そうな瞳をなだめるように頭を優しくなでる。

「大丈夫だ。これまでの仕事と似たようなものだし、うまくいけばよほど安定する仕事になる見込みだ」
「本当……なのですか?」
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「いつも兄さんばかり」

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「いいんだ。俺は兄で家長だ。お前たちを養う責任がある」
「兄ちゃん。俺は兄ちゃんに何かあるなんて嫌だよ? 絶対に。最近は少しだけれど給金をもらえるようになったんだ」
「うん。知っている。偉いな」

 けれどもそれは旅芸人という足元を見た給金だ。まだ子どもというのもあるが、一日働いて、一人前の一食分になるかならないか。

「二人とも、一つお願いがある。これから警吏に行け。そして俺に強姦されたと言え」
「兄さん、何を言うんです?」
「それが俺に必要なことなんだ。必ず俺が妹を強姦したと言うんだぞ」
「ちょっと待てよ、強姦? それじゃ兄ちゃんが捕まっちまうだろ」

 突然の俺の言に、広利は不安そうに俺の袖を引いた。だから二人を合わせて抱きしめた。温かい。二人は未だ、俺の腕の内に入る。子どもだ。だから俺が守らねばならない。大切な家族。

「大丈夫だ。警吏とは知り合いだ。それから届け出たらすぐにそのまま長安を出ろ。わかったな」
「兄ちゃん、無理だよ。兄ちゃんなしでどうやって暮らしていくんだよ」

 妹はごくりと唾を飲み、不安げな眼差しで俺を見上げる。首を振って妹の目を見て微笑む。お前をそんな目にはあわせはしない。

「大丈夫だ。節約すれば五年は暮らせる金がある。金子は小さな石に変えておいた。服の裏に縫い付けたから、困ったら一つずつほどいて売るんだ。俺はお前たちが暮らせるよう金を稼いでくる。だが万一、万一俺からの連絡が途絶えたら広利、お前が家長だ。お前は五年経てば俺みたいな中途半端じゃなく、立派な男になる。今働いているように信用を得て、力仕事をするんだ。妹よ。お前は歌舞に才能がある。だから稽古はおこたるな」
「俺たち二人でどうしろっていうんだよ、兄ちゃん」
「大丈夫だ。人を雇った」

 四十がらみの武官を弟妹に紹介した。一年分の給金は前払いしてある。以降は月々の給金を送る約束となっていた。武官といっても軍に所属したのち負傷して退役し、以降は警備などの仕事についている男だ。金でなんでもやるが、自暴自棄なところはない。金を払う限りには信頼がおける。



   注


      ※5:切断刑

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