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完璧帰趙【藺相如・昭襄王】1
しおりを挟むここは趙の後宮奥深く。
ようやくほっと一息つけるプライベートなスペース。
そこでも恵文王は困り果て、側に控える宦官の繆賢に尋ねた。
「どうしよう……秦の昭襄王に返事をしないといけないんだけど」
「さようですな。結局議事ではどうなりましたか」
「それが決まらないんだよね。みんなが言ってることはわかるんだけどさ。でもそろそろ決めないと本気で攻めてくると思って」
その頃、趙では1つの問題が生じていた。趙王の下に大国秦の王から1通の手紙が舞い込んだのだ。
『和氏の璧をよこせ。15の城塞都市と交換してやるから』
有体にいうとそんな内容。壁とは薄いドーナツ型の宝玉である。何故バレたのかわからないが、王が最近手に入れた和氏の璧は中華の至高だ。何ものにも代えがたい。
趙と比べて秦は強大だ。断ったら無礼だと言って攻め滅ぼされてしまいそうだ。けれども渡しても約束を反故にされそうだ。
秦は虎狼の国と呼ばれていて、信義は通じず嘘をつくと有名だった。約束を反故にされれば周囲の国に趙は鴨だと思われる。そして集られ続ける未来が見える。
渡すべきか、渡さぬべきか。議事は紛糾すれども進まない。
「そうですなぁ。私の客に胆もあって頭が切れる者が居りますが、呼んでみましょうか」
「うん、じゃあお願い」
王の眼下に拝した藺相如は妙に愛嬌のこぼれる美丈夫だった。その細く伸びた眉の下の透き通った両眼で王を見つめ、その物腰は柔らかかった。
けれども王は直感した。こいつはヤベー奴だ。何がというわけではないが、なんか怒らせたら怖い気がする。無意識に少し居を正す。
「お初お目にかかります。藺相如と申します。よろしゅうに」
「ああ、今秦から璧を寄越せと言われていてな」
「仔細は聞いとります。国力がちゃうさかいに渡さんわけにはいかんでしょうなぁ。せやかてただ取られるだけやと周りに侮られてしまうやろし」
「どうしたらいいだろう」
その男は妙に細長い指をその目元にあて、少し目を眇めて何かを考える素振りをした後、面を上げて述べた。
「他に誰もおらんのでしたら、私が行って参りましょか。15城市と引き換えやなかったら、必ず璧を趙に戻しますよって」
その三日月型に曲げられた唇からうっすら漏れる呼気は、穏やかな口調であるのにもかかわらず有無を言わせぬ迫力があった。
◇◇◇
秦の王都咸陽の、ここはさらにその中心に位置する絢爛豪華な宮廷、咸陽宮、ではなくその離れ。
謁見の場で捧げられた璧に秦王はいたく満足していた。それほどに素晴らしい璧だった。まるで神気がにじみ出たような輝きとしっとりとした触り心地。王は思わず左右の寵臣や貴妃に回して自慢した。
それは目の前の趙の使者などいないかのような振る舞いで、約束の15城市の話などその口から溢れなどしなかった。
王はやはり城市を譲るつもりはなかったのだろう。そもそも目の前の男を正式な使者として遇していない。宮ではなく離れで、しかも貴妃とともに会うなどと。
居並ぶ臣にもそれは伝わり、いつしか使者には気の毒そうな視線が集まっていた。使者はいかにも柔和そうな優男である。武威のかけらもない。強国の王に意見を述べることなどできやしないだろう。
この話は秦が璧を所望し趙より使者を呼び寄せたのだ。
ここで約束を反故にすれば強盗のようなものである。けれども戦国の世、口約束が破られることはよくあることだ。それにここは敵地も敵地の敵国の国都。王の機嫌を損ねれば、この使者はあっという間に首を刎ねられる。
その程度をねじ伏せられるほどの国力差であり、そもそも文句を言うことも難しい。むしろ無礼打ちのほうが、秦が璧を入手するのにいい言い訳になる。
皆がそう思って見ていると、いつのまにかその使者はにこにこと微笑みながら王の足下に寄り声をかけた。走る小さな緊張。使者はどう出るのか。
「実はその璧には傷がありますよって、お見せ致しますわ」
多くの臣はなんだ、へつらっているだけか、と思って息をついた。やはり趙は小国だ。そんな侮りが見え隠れした。
使者はその細長い指をふわりと広げ、恭しく手のひらを王に差し出す。王はそうかと言って気軽に璧を使者の手に乗せると、使者は見る間に壁際までするすると後ずさった。
予想外のことに誰も反応できない。
すると使者はふうん、と言って柱に背をもたれて顔を上げ、その眼前に優雅に璧を掲げてうっとりと見つめた。
「ほんまに上等な璧やわぁ」
「何をしておる?」
王は怪訝に問いかけた。誰も何が起こっているのか理解出来なかった。
「上等な璧やのに秦は下等な振る舞いをされるんやねぇ」
そこまで言われても、何を言われているのかよくわからなかった。下等。強大な秦に対してそのようなことを言う者がいるとは誰も思ってもいなかったのだ。
最初に意味に気づいた文官が声を上げ、次々とざわめきが起こる。
「ぶ、無礼な! 早くその璧を」
「じゃかぁしいわ」
美丈夫から発せられた音声に場が再び静まる。そして何人かが気づく。使者の様子がおかしいことに。普通、王に対して『うるさい』などとは言わない。
「この璧はなぁ、至宝なんよ。趙はようけ協議したんやけど秦に差し上げても城市はもらえへんいうお人ばっかりやったわぁ。せやけど国と国やん。そんなんあかんやろ?」
そこで使者は言葉を切り、璧に空いた穴にその長い指を入れてくるくると回し始めた。まるでそこらの石に過ぎないとでもいうかのようにぞんざいに。今にも勢いでどこかに飛んでいってしまいそうな。
先ほどとは違う緊張が走る。それは至宝である。
「平民でも騙しあったりせんよ。まして大国の話、なおさらそんなことはないでしょうよ、と私は申し上げたんよ。ああでもやっぱり見込み違いやったんやねぇ。やっぱ秦は犬畜生にも劣るんかな?」
その言葉とともに使者はその目線を眺めていた璧から議場全体に移し、見渡した。
その言葉に流石に臣下はいきり立ち、使者に迫ろうとする。
「動くな、璧を割る」
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