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胡乱な人
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「坊っちゃん、この箱を見て頂けませんか?」
「お前、誘拐魔だろ」
夕闇の中、突然かけられた声に思わずそう返した。
私が通う尋常中学校では、最近ある噂でもちきりだった。箱を見せて人を攫う誘拐魔の噂だ。だから、その噂の真偽はともかくとして、知らない人に話しかけても応じてはならないと大人は口うるさく子どもに指示した。
眉唾もののその噂を私は信じていた。何故なら私の友人の又吉も攫われ、未だ帰ってきていない。そろそろ1ヶ月になる。周囲の大人は直接話しはしないけれど、絶望的だと感じている。それがありありと見て取れた。
又吉には露国に出征して戦死した兄がいた。又吉には身内が兄しかいなかった。又吉は兄の死をきっかけに親戚に預けられたが、その家はあまり宜しくはなかったらしい。身を立てねばとますます勉学に励んでいた。だから逃げ出したのではないかと口さがない者たちは噂する。
けれども私は、だからこそ又吉が自分から行方不明になることはないと思っていた。私は隣で、その頑張りをみていたのだから。つまるところ俺は、その噂の誘拐魔が攫ったのではないかと疑っていた。
そのような経緯で私はその誘拐魔のことは気にかけていたものの、自分が遭遇するとは思ってはおらず、何の備えもしていなかったことを後悔した。
備えのない理由は簡単だ。私の外出が突発的なものだったからだ。
10分ほど前、縁側で本を読んでいると、塀の向こうから豆腐売りのパァプゥと鳴らすラッパの音が聞こえ、直後にパタパタとする足音をうんざりした気分で聞いた。案の定、襷掛けの女中が駆け込んできた。
「坊っちゃん、お願いです。お豆腐を2丁、買うてきて頂けませんか」
「断る」
「せやかて、坊っちゃんは今お手漉きでしょう」
「久子。お前にはわからないかもしれないが、お前が夕飯を作るのと同じように、私には勉学が仕事なのだ。従軍された兄上がおらぬ間、しっかりと勉学を」
兄の言葉が思い浮かぶ。
『私がいない間は、お前が家族を守るのだ』
「坊っちゃんのお気持ちはわかりますが、もう日も落ちよりますよって。本もお読みになれんでしょう?」
久子にとっては私と兄との会話もその込められた意味も、全く考えが及ばぬらしい。そのことに苛立ちを覚えた。
けれどもふと見あげれば、確かに空はわずかに茜を帯びていた。
そうして言い合いをする間にも、庭先の土塀の上の空は次第に藍味を増していく。秋の日は釣瓶落としというが、誠に其のとおりだ。まもなく本は読めなくなるだろう。ランプをつければ本は読めるが、暗くて目を悪くする。
結局のところ私はそれ以上、久子に言い返しはしなかった。意味がないからだ。たとえ豆腐の不足が久子の過失のためであったとしても、豆腐が空中から湧き出でもしない以上、言い返しても仕方がない。おかずが一品減るだけだ。
仕方がなく本を仕舞って銭を受け取り門扉を抜ければ、そこは見慣れた2メートルほどの細い路地が伸びている。未だ鮮烈な空の色に紛れて左右の土塀からこぼれ落ちたような深い影が路地を埋め尽くし、足元は覚束ないほど黒く染っていた。
その中をかすかに聞こえるラッパの音を頼りに角を曲がったところに、その男は闇から生えるように立っていた。そして私の行く先をその妙に細長い腕を伸ばして遮ったのだ。男は灰色の上下を纏い黒い中折れ帽をかぶり、しゃくれたその口角は妙に卑屈に揺れていた。
「誘拐魔、でしょうか?」
「ああ。お前の噂は聞いているぞ。箱に何が入っているかと問いかけ、間違っていれば攫っていくのだろう?」
そこまで言って、思い返した噂が何か妙だなと感じた。攫うなら箱など見せずに攫えばいいだけなのだ。そうするとこれは何なのだ。妖の類か。
そのような発想から僅かに怯むと、男は細長い腕でさらにズズイと箱を押し出した。およそ15センチ四方の木の箱だが、その手元はすっかり闇に落ちていて、なにかの加減か、男の怪しげな左目だけが夕陽を受けて赤く輝いていた。
「坊ちゃん、私は何も致しません。ただ、この箱の中身をお見せするだけなのです。何が見えたか教えて頂けませんか?」
「知るわけがない」
その男が何者かはわからないが、その全体をまとう不吉から、見てはならない、と感じた。
「ここには坊ちゃんが気になるものものが入っております。それを差し上げましょう」
「私の……気になるもの?」
箱の大きさから見ればせいぜいお菓子や小さなおもちゃ程度だろう。馬鹿馬鹿しい。
「いらぬ」
「おや。妙ですね」
「妙とはなんだ」
「又吉さんは坊ちゃんのお友達でしょう? 坊ちゃんの兄上様も従軍されていると伺いましたので」
その言葉で警戒心がむくりと湧き上がる。やはり又吉は誘拐魔、つまりこいつに拐かされたのか。
「又吉はどこにいる! お前が攫ったのか!」
「とんでもない! 又吉さんはただ、この箱の中身を見ただけです」
「箱の中身を? 見て、どうなる」
「箱を見て、お兄様を探しに行かれました」
兄を探しに行った? しかし又吉は。
「馬鹿な! 又吉の兄は戦死したんだ!」
「ええ、だからこそ、会いにいかれたのです」
男はまったく動揺せず、あたかも当然なことを言うような大仰な様子に困惑した。
又吉の兄を? 言っていることも滅茶苦茶だ。
「仕方が無いですね。坊ちゃんは疑り深くいらっしゃる」
「お前、誘拐魔だろ」
夕闇の中、突然かけられた声に思わずそう返した。
私が通う尋常中学校では、最近ある噂でもちきりだった。箱を見せて人を攫う誘拐魔の噂だ。だから、その噂の真偽はともかくとして、知らない人に話しかけても応じてはならないと大人は口うるさく子どもに指示した。
眉唾もののその噂を私は信じていた。何故なら私の友人の又吉も攫われ、未だ帰ってきていない。そろそろ1ヶ月になる。周囲の大人は直接話しはしないけれど、絶望的だと感じている。それがありありと見て取れた。
又吉には露国に出征して戦死した兄がいた。又吉には身内が兄しかいなかった。又吉は兄の死をきっかけに親戚に預けられたが、その家はあまり宜しくはなかったらしい。身を立てねばとますます勉学に励んでいた。だから逃げ出したのではないかと口さがない者たちは噂する。
けれども私は、だからこそ又吉が自分から行方不明になることはないと思っていた。私は隣で、その頑張りをみていたのだから。つまるところ俺は、その噂の誘拐魔が攫ったのではないかと疑っていた。
そのような経緯で私はその誘拐魔のことは気にかけていたものの、自分が遭遇するとは思ってはおらず、何の備えもしていなかったことを後悔した。
備えのない理由は簡単だ。私の外出が突発的なものだったからだ。
10分ほど前、縁側で本を読んでいると、塀の向こうから豆腐売りのパァプゥと鳴らすラッパの音が聞こえ、直後にパタパタとする足音をうんざりした気分で聞いた。案の定、襷掛けの女中が駆け込んできた。
「坊っちゃん、お願いです。お豆腐を2丁、買うてきて頂けませんか」
「断る」
「せやかて、坊っちゃんは今お手漉きでしょう」
「久子。お前にはわからないかもしれないが、お前が夕飯を作るのと同じように、私には勉学が仕事なのだ。従軍された兄上がおらぬ間、しっかりと勉学を」
兄の言葉が思い浮かぶ。
『私がいない間は、お前が家族を守るのだ』
「坊っちゃんのお気持ちはわかりますが、もう日も落ちよりますよって。本もお読みになれんでしょう?」
久子にとっては私と兄との会話もその込められた意味も、全く考えが及ばぬらしい。そのことに苛立ちを覚えた。
けれどもふと見あげれば、確かに空はわずかに茜を帯びていた。
そうして言い合いをする間にも、庭先の土塀の上の空は次第に藍味を増していく。秋の日は釣瓶落としというが、誠に其のとおりだ。まもなく本は読めなくなるだろう。ランプをつければ本は読めるが、暗くて目を悪くする。
結局のところ私はそれ以上、久子に言い返しはしなかった。意味がないからだ。たとえ豆腐の不足が久子の過失のためであったとしても、豆腐が空中から湧き出でもしない以上、言い返しても仕方がない。おかずが一品減るだけだ。
仕方がなく本を仕舞って銭を受け取り門扉を抜ければ、そこは見慣れた2メートルほどの細い路地が伸びている。未だ鮮烈な空の色に紛れて左右の土塀からこぼれ落ちたような深い影が路地を埋め尽くし、足元は覚束ないほど黒く染っていた。
その中をかすかに聞こえるラッパの音を頼りに角を曲がったところに、その男は闇から生えるように立っていた。そして私の行く先をその妙に細長い腕を伸ばして遮ったのだ。男は灰色の上下を纏い黒い中折れ帽をかぶり、しゃくれたその口角は妙に卑屈に揺れていた。
「誘拐魔、でしょうか?」
「ああ。お前の噂は聞いているぞ。箱に何が入っているかと問いかけ、間違っていれば攫っていくのだろう?」
そこまで言って、思い返した噂が何か妙だなと感じた。攫うなら箱など見せずに攫えばいいだけなのだ。そうするとこれは何なのだ。妖の類か。
そのような発想から僅かに怯むと、男は細長い腕でさらにズズイと箱を押し出した。およそ15センチ四方の木の箱だが、その手元はすっかり闇に落ちていて、なにかの加減か、男の怪しげな左目だけが夕陽を受けて赤く輝いていた。
「坊ちゃん、私は何も致しません。ただ、この箱の中身をお見せするだけなのです。何が見えたか教えて頂けませんか?」
「知るわけがない」
その男が何者かはわからないが、その全体をまとう不吉から、見てはならない、と感じた。
「ここには坊ちゃんが気になるものものが入っております。それを差し上げましょう」
「私の……気になるもの?」
箱の大きさから見ればせいぜいお菓子や小さなおもちゃ程度だろう。馬鹿馬鹿しい。
「いらぬ」
「おや。妙ですね」
「妙とはなんだ」
「又吉さんは坊ちゃんのお友達でしょう? 坊ちゃんの兄上様も従軍されていると伺いましたので」
その言葉で警戒心がむくりと湧き上がる。やはり又吉は誘拐魔、つまりこいつに拐かされたのか。
「又吉はどこにいる! お前が攫ったのか!」
「とんでもない! 又吉さんはただ、この箱の中身を見ただけです」
「箱の中身を? 見て、どうなる」
「箱を見て、お兄様を探しに行かれました」
兄を探しに行った? しかし又吉は。
「馬鹿な! 又吉の兄は戦死したんだ!」
「ええ、だからこそ、会いにいかれたのです」
男はまったく動揺せず、あたかも当然なことを言うような大仰な様子に困惑した。
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