夕方の怪人とガラス玉の向こうの世界(大戦中のローファンタジー)

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縁遠い世界

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 それでも私は逡巡した。他の世界。そんなことが信じられないという気持ちと、兄のことをを思う気持ちだ。兄の訃報は届いていない。けれども戦時だ。未だ訃報が届いていないだけかもしれない。その不安はずっと私の心の奥底に重く降り積もっていた。万一兄がいなくなった時、私が家長となり働いて家族を守らねばならない。又吉の兄の死は嫌でもその未来を想起させた。だからその万一に備え、残された家族を守るために勉学に励んでいたのだ。
「おい、お前は他の世界が見れると言ったが、この世界自体は見れるのか」
「ええ。ええ。勿論です。ここはあなたの現在の運命の星々通りの世界ですから、その遍くを見ることはできますとも」
 男は鷹揚に頷く。兄は今、どのようなところにいるのか。それを喉から手が出るほど、知りたかった。
 私はその蓋をそっと開けば、丸いガラス玉のようなものが煌めいた。見上げれば月がのぼり始めている。先程見た光は、星の反射光かもしれない。自然とそう思われた。
「どうすればいいんだ?」
「坊ちゃん! ありがとうございます! 現在の世界をご覧になりたいのでしたら、この天球儀に手を当てて、ご覧になりたいものを思い浮かべれば良いのです」
 意を決してその表面に手を触れるとひやりと冷たく、静電気が走るようなぴりりと妙な感触がした。
 兄上。
 そう思えば、画面の端がほのかにだけ明るくなった。
「何も見えん。どういうことだ?」
「お兄様は出征なされたとお伺いしております。そうすれば、時間帯はこの地と同じでございましょう。それでも灯りがあるといえば、野営地ではないでしょうか」
 そう思って目を凝らせば、確かにその闇がわずかにうごめいていた。
「近くをと思えば近くを見ることができます」
 兄をより思い浮かべれば、光源から遠ざかったのか水晶はより暗くはなったが、その印影から誰かが地面に横たわっているのが見えた。
「兄上⁉」
「落ち着かれてください。見えるということは、ご存命でいらっしゃいます」
「しかし!」
「星々の光を」
 男がそのように告げてそっと私の手に自身の手を重ねた。すると光景がわずかに明るくなり、揺れた。眼前にどこか苦しげな兄の顔が浮かぶ。そして目を移す。胸、手、足。左足の膝から下が、ない。
 思わず上げた声がひょっとしたら届いたのか、その体がわずかに身じろぐ。
「そんな!」
「左足を失われたのですね」
 目の前から痛ましげな声がした。
「兄上!」
 バクバクと心臓が鳴る。兄上は傷病兵となった、のだろうか。光景が更に動き、平原が見えた。兄の収まった小さなテントはどんどんと小さくなり、近くに敵軍と思われる中隊が駐屯しているのが見えた。
「……遼東のようでございますね」
「これは……この後どうなるのだ!」
「申し訳ございませんが、この天球儀で見ることができるのは現在の世界の姿のみでございます。その、大変申し訳ございませんが、弟を探させて頂いてよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
 頭が朦朧とする。このまま攻撃されて兄上が死んでしまったら。いや、兄上が戻ってきたとしても、片足がなければまともに働けないだろう。私の家には母と、2人の妹がいる。私が中学校を辞めて働かざるをえないだろう。
 そんなことを考えるうち、ざりざりと目まぐるしく光景が移り変わり、目の前の男に似た男の顔と闇が交互に浮かび上がる。これがこの男の弟なのだろうか。ある一点で、重ねられた手が大きく震えた。
「坊ちゃん! 見つけました! 弟が病にもならず、戦争も起こっていない世界を!」
 その声に手元を見れば、今のこの男からは考えられないような朗らかな笑みを浮かべた男が、書斎のようなところで弟と一緒に書き物をしていた。その灯りはやけに明るく見えた。先程の兄上の野営地と雲泥の差だ。
 この世界には、戦争がないのだな。
 兄上を思い浮かべた。兄上。
 そうすると光景は再び移り変わり、自宅が浮かんだ。そこでは私と兄と母と2人の妹が、ちゃぶ台を囲んで夕食を取っていた。
「兄上……」
 嫌がおうにも、先程の苦しそうな顔が思い浮かぶ。やや頬の痩けた兄の姿と目下にある優しげな兄の様子の対比が浮かぶ。
「坊っちゃん。私はこの世界に渡ろうと思います。坊ちゃんはどうなされますか?」
「どう……?」
「ええ。一緒にこの世界を渡られますか?」
 この、世界に?
 私は再び、兄の顔を眺めた。オレンヂ色のライトに照らされた幸せそうな世界。幸せ。
 けれども。私の頭に先程のこの男の言葉が思い浮かんだ。世界を移したとしても、その幸せが必ずしも恒常的なものではないことを。この世界でもその安寧は一時的なものなのかもしれない。
 又吉のことが思い浮かんだ。又吉は、それでもきっと幸せなのだろう。もとより兄以外に身寄りはない。
 けれども私には母と妹がいる。又吉の例をみても、この世界から私は失われるのだろう。私がいなくなり、兄に万一があれば、私の家族はどうなる。
『私がいない間は、お前が家族を守るのだ』
 不意に、兄の言葉が頭に浮かんだ。
 そうだ、私は他の世界になどいけない。家族を守らねば。
「行けない」
 男は私の目をじっと見た。私が守るべき家族はここにある。
「わかりました。それではどうか、息災で」
 男は私の視線に何かを察したのだろう。何もいわなかった。
 そして天球儀と男の手の間に挟まった私の手を反対の手でそっと引き抜く。すると、天球儀はあわく輝き、気がつけば箱ごと男の姿は消えていた。もとより何もなかったかのように男の姿は闇にとけ、遠くの街灯の光と月明かりだけが残った。
 今のは夢だったのか。
 そう戸惑いながら左右を見れば、背後からパタパタとした草履の音と、それから遅れて声が聞こえた。
「坊っちゃん。随分遅いから、探しに来ましたよ。こんなところで何をされてるんですか?」
 振り向くと、私を背後から照らす街灯の灯りに照らされた久子はなにやら怒っているように見えた。
「何を……」
 そこで私は、豆腐を買いに出かけたのだと思い出した。
「あ、豆腐屋が見つからなかったのだ」
 久子は呆れたように口をへの字に曲げ、そして困ったように眉を下げた。
「ひょっとして、ずっと豆腐屋を探されてたんですか?」
「いや、そういうわけでは」
「さあさ、もう戻りましょう。お夕飯の用意はもうできてますよって、奥様もお嬢様も心配されておられますよ」
 私の手を取った久子の腕は、暖かかった。
 目を上げれば家家には灯りがともり、私の家からも柔らかな灯りが漏れていた。
 最後に誰もいない路地を振り向いて、再び家の方を振り返る。もはや迷いはなかった。
 私の世界はここなのだ。

Fin
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