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Scene 3
Angel Eyes 《前編》
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この夜の私は暇を持て余していた。
ゲストはカウンターに3組居るのだが、全て男女のカップル。
互いに愛の言葉を囁き、互いの愛の深さを確かめ合っていた。
こうなると、私が割って入る隙間などはどこにも無く、お酒を作っている時以外は手持ち無沙汰になっていた。
こういう状況に出くわした時に、いつも思うのが、洒落た手品のひとつでもさりげなく披露できれば、ゲストはもちろん、私も楽しめるかもしれない・・・と、いう事。
そもそも、バーテンダーという生き方を選ぶ人間の多くは自己顕示欲の塊なのである。
Barはゲストが傷つき疲れた心を癒し、憩いのひとときを過ごす場であると同時に、バーテンダーにとっての舞台でもあるのだ。
過去に手品の技術を習得しようとした事も無い訳ではなく、《誰にでもできるやさしい手品》というキットを購入して説明書通りに練習し励んでみたが・・・。
商品名は偽りである事を知らされるだけだった。
なぜなら・・・、
そう、私は不器用なのである。
《誰にでも・・・》という商品名の、〈誰〉に私は当てはまらないようだ。
手品キットから得た唯一の収穫といえば、その事実を改めて強く再認識できたという事だった。
普段、鮮やかな手つきでカクテルを作っていると、とても器用そうに見えるらしいが、私に限っては全くそうではない。
ただ、一切の無駄な動きを排除し、どこまでも丁寧に、そして動きにメリハリを着ける事で所作が美しく見える様にしているに過ぎない。
そういう意味では、バーテンダーの作業は『茶道』に通ずるものがある。
事実、有名なバーテンダー諸氏の多くが茶道を嗜んでいる。
話しが脇道に逸れたので本題に戻そう・・・。
そういう訳で、この夜の私は暇を持て余していた。
時折りくるオーダーに対応し、雰囲気に相応しいBGMを選び店内に流す。
今は『カーメン・マクレエ』の柔らかなハスキー・ヴォイスが、それぞれの世界に没入しているカップルを優しく包み込んでいる。
扉が開き、女性が入って来た。
カウンターを出て早足で彼女の元へ。
「いらっしゃいませ」
前を開いたアクアスキュータムのトレンチコート、上下黒のパンツスーツに淡いブルーのブラウス、左手にはCOACHのブリーフケースを下げている。
指でふたりでの来店である事を示しながら、首を伸ばして奥にテーブル席がある事を確認し、
「奥、いい?」
と、尋ねる。
「ええ、構いませんよ、どうぞ」
告げると、外で扉を開けたまま待っていた男性に向かって、
「入るよ」
と、ひと言。
その声に従い、男性も入って来る。
「いらっしゃいませ」
頭を下げ挨拶をする。
男性も黒のスーツに白のカッターシャツ、えんじ色に緑のピンドットのネクタイ、右手にはピーコートと黒の書類カバンを下げていた。
「どうも」
と、私の挨拶に会釈を返すと、スタスタと先に歩を進める女性の後を追う。
さしずめ、女性上司と、上司に付き合わされた男性部下といったところか・・・。
私はカウンター内にとって返し、小さなトレーにおしぼりを乗せ、トレーの下と手のひらの間にメニューを挟みテーブル席へ向かう。
女性がコートを脱ぎ終え、椅子の背に掛けるのを待って、
「いらっしゃいませ」
と、改めて挨拶し、屈んで女性から先におしぼりを差し出す。
男性にも手渡し、
「こちら、メニューでございます」
開いて、テーブルの中央に置いた。
すると、女性はメニューには目もくれず、
「コーヒーなんて無いですよね?」
と、私を見ながら尋ねる。
「いえ、ございますよ」
と、笑顔で告げる。
「あるんだ」
と、目を輝かせる。
その時、ふと女性のスーツの胸元、フラワーホール(襟穴)のバッジに気付いた。
秋霜烈日・・・、
なるほど~、といろんな事に合点がいき納得する。
「はい、コーヒーをお使いするカクテルもございますし、お酒をお召し上がりの後、コーヒーをご所望のお客さまもいらっしゃいますので用意しております」
「それって、インスタント?」
「いえ、NESPRESSOのマシンで抽出したものでございます」
「カプセルは選べたりします?」
「はい、現在ご提供できるのは深煎りでフルボディ・タイプとマイルドで滑らかなタイプ、そしてバニラフレーバーのタイプ、この3種類ならご用意できます」
「これから、ちょっと仕事の打ち合わせなんです。それが終わったらお酒を注文するから、先にコーヒーをいただいてもいい?」
「ええ、承知いたしました」
「ありがとう、じゃあ、フルボディのをふたつ」
「それでいいよね?」
と、対面に座っている連れの男性に確認。
「はい、お願いします」
と、即座に返答。
「砂糖とフレッシュやミルクはいかがなさいますか?」
「いえ、要りません。ふたつともブラックで」
「かしこまりました」
「では、ご用意して参ります」
一礼をして去ろうとすると、
「あっ、煙草ってここで吸えます?」
と、女性がテーブルを指差して尋ねる。
「はい、どうぞ、構いませんよ」
「すぐ、灰皿をお持ちしますね」
と、言ってカウンターへと戻る。
バックボードの引き出しから灰皿を取り出し振り向くと、お連れの男性が受け取りにこちらへ向かって歩いて来る。
恐らく女性から命じられたのだろう。
私も近づき、
「わざわざ、恐れ入ります」
と、言って灰皿を手渡す。
「いえ、いいんです」
と、言って男性は席に戻る。
マシンの電源を入れ、タンクにミネラルウォーターを入れてセット、戸棚からカップとソーサーを2脚取り出す。
それぞれのカップにまずはお湯だけをマシンから抽出し事前に湯煎。
カップが温まるまでの時間を利用して、グラスに入れた水もふたつ用意する。
カップが十分に温まったのを確認し、カプセルをセットし、コーヒーを抽出。
優雅な香りが立ち昇り鼻腔をくすぐる。
出来上がったコーヒーと水をトレーに乗せ、再びテーブル席へ向かうと、私に気付いた女性がテーブルに広げていた書類を手に取り、場所を空ける。
「お待たせいたしました」
と、言い、コーヒーと水をそれぞれの前に置く。
「ありがとう」
と、女性。
「ごゆっくりどうぞ」
一礼し、私はカウンターへ戻った。
時は再び静かに流れる。
スピーカーから流れる『チェット・ベイカー』の甘くひそやかな唄声がゆるやかに店内を漂い、時折りカップルの会話と笑い声が混じる。
私はカップル達の視界に入らぬよう、カウンターの端に立ち、ただ静かにゲスト達を見守っていた。
その後、ほろ酔い加減のサラリーマンらしきふたり連れが来店したが、場の雰囲気を察してか、静かなトーンで互いの学生時代の事を懐かしんでいた。
どうも、今夜の私はとんと用無しらしいが、こんな日もある・・・と、自身を慰める。
やがて、カップル客がひと組去り、ふた組目も去り、サラリーマンのふたり連れも去って行った。
カウンターで最後に残った男女も、いつの間にかカウンターには自分達だけになった事に気付くと、互いに顔を見合わせて去って行った。
テーブル席のふたりはといえば、女性がテーブル上の資料を見ながら話し、男性は時折り頷き手元の手帳になにやらせわしなく書き込んでいるようだった。
時計を見ると11時過ぎ、〈打ち合わせ〉はかれこれ1時間に及んでいる。
「平日のこの時間じゃ、この後は期待できないなぁ」
と、心の中で呟く。
スピーカーから流れる曲が終わりに近づく。
ステレオデッキ横に設えたCDラックを眺め、次に流す1枚を思案する。
『シャーデー』のアルバムを手に取る。
その時、背後から床のフローリングの軋む音が聞こえ振り返ると、テーブル席のふたりが席を立つところだった。
男性が両手でカップ&ソーサーを持ちカウンターの端に置く。
女性からの指示だろう。
「そのままで構いませんよ」
慌ててカウンター内から奥へ駆け寄り声を掛けるが、男性は意に介さず、水が残ったグラスも運んでくれる。
女性もブリーフケースを持ち、コートを肘のところに掛け、空いた手に灰皿を載せたメニューををカウンターへと運んだ。
「恐れ入ります」
恐縮しながら次々とカウンターに置かれるそれらを私もせっせとシンクへ運ぶ。
「カウンターに移ります」
私にそう告げながら、入り口の方へと歩を進める女性。
男性も後に続く。
入り口近くのスツールにブリーフケースを置き、コートを掛けると、男性の方へ向き直り、
「じゃ、そういう事でね」
と、女性。
「あっ、はい、お疲れさまです」
「また、明日ね」
私は扉を開け、去って行くお連れの男性を見送った。
店内に戻ると、女性は足を組んで腰掛け、煙草の紫煙をくゆらせていた。
引き出しから新しい灰皿を取り出し女性の前へ置く。
女性は手にした煙草を灰皿に預けると、宙に腕を上げ大きく伸びをする。
「さぁ、飲むぞー!」
と、言って満面の笑みを浮かべた。
「マスター?・・・ 、マスターで合ってる?」
「はい、そうでございます」
「マスターも一緒に、いいでしょ?」
「お望みなら、お付き合いさせていただきます」
と、言いながらBGMの消えた店内に音を取り戻すべく、『シャーデー』のアルバムをデッキに入れスタートする。
女性に向き直り、
「では、いかがなさいますか?」
「白州12年をダブルのハイボールで」
「オレンジをピールしてそのまま入れて」
「それを2杯」
指で数を示しながら言う。
「マスターもイケる口でしょ?」
「ええ、まぁ・・・」
同じもので付き合え・・・と、いう事か。
「良かった、じゃ、お願い」
「かしこまりました」
8オンスのグラスふたつに氷を入れて素早くステア。
氷が溶けて出た水を捨て、白州を計量しながら注ぎステア。
そこで、私は尋ねる。
「事務官の方は先にお帰りなんですね」
彼女は驚いてこちらを見る。
「なんで、彼が事務官って判ったの?」
「テーブルでオーダーをお伺いする際、胸元のバッジが目に入りましたので」
グラスをソーダで満たしながら言った。
そのバッジは既に胸元から外されていたが、女性はフラワーホールに触れ再確認する。
「目ざといわね」
納得がいったという口調。
出来上がったハイボールをコースターに乗せ彼女の前へ滑らせる。
「お待たせいたしました」
「〈秋霜烈日〉、お仕事は検察官でらっしゃいますね」
「ご名答」
と、彼女は上目遣いの笑みを浮かべる。
「さぁ、乾杯!」
と、言って、彼女は掴んだグラスを前に掲げる。
それに応え私もグラスを持ち上げ、
「いただきます」
の後、
「乾杯!」
ふたりの言葉とグラスが重なる。
「それで?」
足を組み替えて、僅かな間。
「他には何が判ったの?」
灰皿に煙草を押し付けながら尋ねてくる。
「早速、尋問ですか?」
「そうよ、さぁ答えて」
イタズラっぽい笑みを浮かべて言う。
私は苦笑して〈尋問〉に答える。
「現在は捜査、取り調べではなく、公判を担当する検事である事」
検察官の仕事は分担制で、捜査、取り調べをし、起訴するか否かを判断する者と、公判で裁判に立ち会い、被告人の有罪を主張、立証し、犯罪の証明を行う者とに大別される。
「ふ~ん、そう論ずる根拠は?」
「そのシックな装いとアクセサリー、控えめなメイク」
「恐らくきょうも法廷に立ち公判をこなしてこられたのでしょう」
「検事は派手な装いで法廷に臨んだりはしない」
「特に女性検事は」
「それに、事務官の装いもダークスーツでした」
「なるほどね、大した洞察力だわ」
そう言って、咥え煙草で間延びした拍手。
ちょっと小馬鹿にされた感じ。
グラスのハイボールをグイと飲み干すと、
「お代わり、同じものね」
・・・ピッチが早い。
「マスターもよ、私のペースに付いて来て」
言われて、私も飲み干す。
同じハイボールを作っていると、
「まぁ、事前に検事であると判れば、その推測に辿り着く事は案外たやすいわ」
彼女のハイボールをコースターに乗せる。
桜色のマニキュアをした指がすかさず掴み上げ一口。
「それで、私の個人的な事については?」
〈尋問〉はまだ続くらしい・・・。
「推察しなかったとは言わせないわよ」
・・・手厳しい。
「では、その前に、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「尋問してるのは私よ」
「でも、まぁいいわ。何?」
言って、カウンターに肩肘を突き顎を乗せ私を睨める。
本当に尋問されているかの様な錯覚に囚われる。
「現在は大阪にご任官ですか?」
「ははぁ~ん、そうくるか」
「更に、年齢も探るつもりね?」
さすがに頭がキレる。
こちらの考えはあっさりお見通しらしい。
検察官は新任で任官すると、まずは地方都市の検察庁に配属される。
そこで、検事としての基礎知識を学び、2年を経ると今度は主要都市の検察庁で、都会の様々な事件、捜査、公判を経験し、応用力を身に着けてゆく。
その後はまた2~3年の任期で地方都市に任官し、10年を過ぎ中堅検事になると、全国の検察本庁や支部が任地となる。
つまり、彼女が任官して既に10年以上を経た中堅検事であろうと踏み、それを私は確かめたかったのだ。
「ええ、大阪よ」
「さぁ、聞かせて」
容赦が無い・・・。
「言ってもよろしいので?」
「聞かせてもらうわ」
「なんか、楽しい」
「こんな楽しいお酒は久しぶり」
と、笑みを浮かべ私を見つめる。
こちらは自分の店でありながら、逆に酷く居心地が悪い。
彼女は間違いなく〈S〉だろう。
この窮地から私を救ってくれる新たなゲストでも来れば良いのだが、事はそう上手く運んでくれない。
「さぁ、どうぞ」
と、にこやかに微笑みながら、私からの答えを促す。
心の中のため息を押し殺しながら、私は答える。
「出身は関西、年齢は36、独身、婚姻歴無し」
一息間をおいて続ける。
「現在ステディな関係のパートナーも居ない」
「性的嗜好はストレート」
「趣味はビリヤード」
「そして、左利きである」
彼女が新しい煙草に火を点ける動作で間が空く。
「驚いたわ、98点」
「年齢以外は全て正解よ」
と、言いながら、今度は間延びの無いちゃんとした拍手。
「でも、なんで私の性的嗜好がストレートだと思った?」
「打ち合わせをなさってらっしゃる最中、幾度も私を見ていらしたので」
「気付いていたの?」
「仕事柄のせいでしょうか、他人からの視線には敏感なんです」
「じゃあ、なぜ現在フリーだと?」
「正直なところ、それについてはなんとなくなんです」
「失礼ながら、爪のお手入れがあまり行き届いてらっしゃらなかったので・・・」
「お仕事がハードな事を考慮しても、恋人がいらっしゃればありえないかと・・・」
彼女は自身の指先に目を向けて眉をひそめる。
「なるほどね~」
「利き腕と趣味は?」
「その事についてはずいぶんと考えさせられました」
「右手の親指と人差し指の間に見られるかすかな変色は、キューをブリッジする際に何度も擦れて生じたもの」
「よほど頻繁にプレイしないとその様にはなりません」
「そこへ思いが至るまでちょっと時間がかかりました」
「バーテンダーなんかにしておくには惜しい観察力ね~」
「恐れ入ります」
「しかし、バーテンダーをしているからこそ、身に着いた技術だと思っています」
言って、頭を下げる。
「バーテンダーとは人を見る仕事である・・・かぁ」
「はい、その通りでございます」
彼女はブリーフケースから名刺を取り出し、1枚抜き出し私の前へ滑らせ言った。
「『高梨 洋子』、歳は35よ」
「ありがとうございます」
と、言いながら手に取り『大阪地方検察庁』とあるのを確認する。
やはり・・・、本庁。
私も引き出しから自分の名刺を取り出し、両手で差し出す。
「『佐々倉 祐介』です」
「ふ~ん、佐々倉さんかぁ」
「なんか、いい名前ね」
どういいのだろうか・・・、
と、思ったが黙っていた。
「じゃ、お互い名乗り終えたところで、もう一度乾杯よ」
そう言ってまた、彼女はグラスの中身を一気に飲み干す。
「ほら、マスターもよ」
私のグラスにはまだ2/3以上残っているが、言われてグイと飲み干す。
「おぉー、さすがね」
「はい、作って作って」
事務官が先に帰った理由が判った。
かなり気を引き締めて対応しないと、この先こちらがヤバくなりそうだ。
3杯目を作り終え、再び乾杯。
すると、彼女は座り直し背すじを伸ばして真顔を作って言う。
「では、尋問を再開します」
「えっ!」
「えっ、じゃないわよ、今度はマスターの事を吐きなさい」
唖然とする、容赦が無いどころの話しではない。
テレビドラマで観た、検察官らしい毅然とした圧さえ感じる。
「まず、年齢は?」
「37です」
「結婚なさってますか?」
「いえ、独身です」
「子供は?」
「おりません」
「婚姻歴は無いという事?」
「その通りです」
「ホモセクシャル?」
「いえ、ストレートです」
「出身地は?」
「大阪です」
「恋人は?」
「おりません」
「家族構成は?」
「ひとり暮らしです」
これでは、ここはBarではなく、まるで取り調べ室である。
「好きな人は?」
「それは、恋愛対象で、という事でしょうか?」
「そうよ」
「おりません」
「判りました、尋問は以上です」
ホッとし、グラスに口をつける。
彼女もグイと一口。
ダブルで3杯目だというのに彼女のピッチは一向に衰えない。
「うん、気に入ったわ」
「これからはここへ通う」
「ねっ、いいでしょ」
笑顔に戻って尋ねてくる。
私に同意を求めての意味か、喜んで欲しいという意味か、ニュアンスでは計りかねたが、
「え、ええ、もちろんです」
と、うわずった引きつき笑いで私は応えた。
「この手の痕跡からビリヤード好きだと見抜いたという事は、マスターもビリヤードを?」
右手の甲を私に見せながら言った。
「ええ、好きでたまに突きます」
「腕前の方は?」
「どうでしょうか・・・、まぁ、そこそこには」
「おっ、言うわね~」
「よし、今度手合わせしましょ」
余程自身があるらしいが、私も自身が無い訳では無い。
「いいでしょう、受けて立ちます」
それからの会話は楽しく和やかに進んだ。
彼女は検察官の仕事について如何にハードでブラックかと語り、私の仕事についてもあれこれと思いつくままに尋ねてきた。
音楽について、互いの趣味を語らう頃になると、ハイボールは5杯目に突入していた。
彼女がトイレに立ったので、時刻を確認するともう2時を過ぎている。
表の〈BAR〉の照明を落とし、扉に〈CLOSED〉の札を掛ける。
さすがに酔いを感じる。
足元が僅かにおぼつかない。
トイレを出て戻る時、彼女の足取りも少しふらついていた。
冷たい水を用意し、彼女の前へ置く。
「どうぞ、冷たい水です」
「ありがとう」
と、言い一息で飲み干した。
「明日もお仕事じゃないんですか?」
と、尋ねる。
「うん、明日も法廷に立たなくちゃ」
「では、そろそろお帰りにならなくては」
「今、何時?」
「2時15分です」
「マスターの忠告に従って、帰る事にするわ」
目は若干虚ろになっているが、言葉のひとつひとつはしっかりしている。
「タクシーをお呼びしましょうか?」
「うん、お願い」
登録番号からタクシー会社を選び電話をかける。
平日なのですぐに繋がった。
「5分ほどでお迎えに来るそうです」
と、彼女に告げる。
「じゃ、5分で着替えて」
「えっ?」
言ってる事の意味がわからない。
「・・・今夜は私と寝て」
「えっ!」
言葉に詰まり、私の口は半開きのまま、目は彼女の顔に釘付けになる。
彼女の目は先ほどまでとは違い、しっかりと私の目を見つめている。
・・・沈黙が流れる。
耐え切れず、先に視線を外したのは私だった。
ハイボールを一口飲み、落ち着きを取り戻す。
「飲み過ぎですよ」
「本気にしちゃうところでした」
笑みを取り繕い、彼女を見る。
「本気だって言ったら?」
彼女の目は熱く、視線は私の顔から逸れない。
ふたりの間に流れる時がカウンターを挟んで凍る。
「私じゃ、駄目?」
言葉が出てこない・・・。
「お願い・・・」
「・・・」
私の頭の中はパニック状態・・・。
いや、彼女の視線に囚われ思考が停止していた。
「・・・駄目ですよ」
カウンターに視線を落とし、ようやくひと言・・・。
「あなたが、では無く、私なんかじゃ駄目です」
顔を上げ、再び視線を絡ませる。
「あなたの様な素敵な女性が、私なんかを相手にしては駄目です」
穏やかに諭すように言った。
静かに扉が開き
「○○タクシーです。お迎えに参りました」
帽子を取った運転手が告げる。
凍りついた時がゆっくり溶け出す。
「少しだけ待っていただけますか」
と、私。
彼女は真顔に戻り、無言で会計を済ませる。
席を立ちコートとバッグを手にするのを私は扉の前で見ていた。
彼女は視線を合わさない。
扉を開けタクシーまで並んで歩く。
「今夜はありがとうございました」
「・・・」
彼女は何も言わずにタクシーへ乗り込む。
私は開いたドアへ顔を突っ込み、運転手に向かって、
「名刺をいただけますか?」
運転手が男性だった場合、女性の酔客をタクシーでお見送りする時には、その後のあらゆる事態を想定して講じておく予防策である。
「必ず無事に送り届けてください」
と、運転手に告げ、体勢を戻そうした時、彼女に腕を掴まれた。
グイと引き寄せられ、頬にキス。
そのまま私の耳に口を寄せ、
「バカ! 」
「でも、また来るわ」
見ると、その顔には先ほどまでの笑顔が戻っていた。
それから3日が過ぎ、5日が過ぎ、1週間が過ぎたが、彼女は来なかった・・・。
私はあの夜以来、彼女の事がずっと頭から離れず、彼女と交わした言葉や表情、仕草を思い返している。
10日後、週末の夜。
店は賑わい、私は忙しく立ち働き、気付けばとうに日付けも変わり、閉店時刻が近づいていた。
この夜の最後のゲスト、アフター終わりで訪れた馴染み客のホステスを外でお見送りし、扉に〈CLOSED〉の札をかけていると、
「佐々倉さん」
と、不意に自分の名を呼ばれた。
声のした方を見るが、人影は無い。
道の中ほどまで出て確かめるが誰も居ない。
逆方向も振り返って確かめるがやはり居ない。
その時、突然後ろから抱きしめられる。
「・・・会いたかった」
「誰だか判る?」
「ええ、もちろん」
「高梨 洋子さん」
名前を答えると腕がほどけた。
振り返ると先日とはまるで別人の装いの彼女が居た。
オレンジ色のロングスカートにスカイブルーのニット、腰丈の暖かそうなファージャケットを身に付け立っていた。
「似合ってる?」
尋ねて、彼女はその場でくるりと回る。
「ええ、とっても」
「見違えました」
驚きを素直に口にする。
彼女は満面の笑みを浮かべる。
先日とは髪型も違う。
束ねていたストレートの髪は、下ろされて柔らかなウェーブがかかかっている。
「一度帰って、わざわざ着替えてきたのよ」
彼女の瞳は街灯の光を反射し煌めいていた。
・・・天使の瞳。
「とても素敵です」
言われて恥じらう顔はまるで少女の様だ。
「お客さん、まだ居るの?」
「いえ、先ほど最後のお客さまをお見送りしたところです」
「うん、あっちから見てた」
「最後のお客さんだったらいいなって思ってたの」
「さぁ、どうぞ」
「私もあなたをお待ちしていました」
扉を開け彼女を招き入れた。
彼女の後ろへ回り、ジャケットを脱ぐのを手伝い、ハンガーに通し、壁のフックに掛ける。
振り返ると、いきなり正面から彼女に抱きつかれた。
そして、伸びをすると唇を重ねてくる。
私は驚いて身動きができない。
カーメン・マクレエの唄う『Angel Eyes』が聴こえる。
あの日の夜と同じだ・・・。
一瞬とも、永遠とも思われた口づけが終わり、ふたつの唇が離れた。
彼女は私を見上げたまま、抱きしめ続け、見つめている。
その目には今にもこぼれんばかりに溢れる涙。
私も腕を回しそっと抱きしめ、彼女をやさしく見つめ返す。
互いに無言のまま時が過ぎる。
やがて、彼女は言った。
「結婚して・・・」
《後編》へ続く・・・
ゲストはカウンターに3組居るのだが、全て男女のカップル。
互いに愛の言葉を囁き、互いの愛の深さを確かめ合っていた。
こうなると、私が割って入る隙間などはどこにも無く、お酒を作っている時以外は手持ち無沙汰になっていた。
こういう状況に出くわした時に、いつも思うのが、洒落た手品のひとつでもさりげなく披露できれば、ゲストはもちろん、私も楽しめるかもしれない・・・と、いう事。
そもそも、バーテンダーという生き方を選ぶ人間の多くは自己顕示欲の塊なのである。
Barはゲストが傷つき疲れた心を癒し、憩いのひとときを過ごす場であると同時に、バーテンダーにとっての舞台でもあるのだ。
過去に手品の技術を習得しようとした事も無い訳ではなく、《誰にでもできるやさしい手品》というキットを購入して説明書通りに練習し励んでみたが・・・。
商品名は偽りである事を知らされるだけだった。
なぜなら・・・、
そう、私は不器用なのである。
《誰にでも・・・》という商品名の、〈誰〉に私は当てはまらないようだ。
手品キットから得た唯一の収穫といえば、その事実を改めて強く再認識できたという事だった。
普段、鮮やかな手つきでカクテルを作っていると、とても器用そうに見えるらしいが、私に限っては全くそうではない。
ただ、一切の無駄な動きを排除し、どこまでも丁寧に、そして動きにメリハリを着ける事で所作が美しく見える様にしているに過ぎない。
そういう意味では、バーテンダーの作業は『茶道』に通ずるものがある。
事実、有名なバーテンダー諸氏の多くが茶道を嗜んでいる。
話しが脇道に逸れたので本題に戻そう・・・。
そういう訳で、この夜の私は暇を持て余していた。
時折りくるオーダーに対応し、雰囲気に相応しいBGMを選び店内に流す。
今は『カーメン・マクレエ』の柔らかなハスキー・ヴォイスが、それぞれの世界に没入しているカップルを優しく包み込んでいる。
扉が開き、女性が入って来た。
カウンターを出て早足で彼女の元へ。
「いらっしゃいませ」
前を開いたアクアスキュータムのトレンチコート、上下黒のパンツスーツに淡いブルーのブラウス、左手にはCOACHのブリーフケースを下げている。
指でふたりでの来店である事を示しながら、首を伸ばして奥にテーブル席がある事を確認し、
「奥、いい?」
と、尋ねる。
「ええ、構いませんよ、どうぞ」
告げると、外で扉を開けたまま待っていた男性に向かって、
「入るよ」
と、ひと言。
その声に従い、男性も入って来る。
「いらっしゃいませ」
頭を下げ挨拶をする。
男性も黒のスーツに白のカッターシャツ、えんじ色に緑のピンドットのネクタイ、右手にはピーコートと黒の書類カバンを下げていた。
「どうも」
と、私の挨拶に会釈を返すと、スタスタと先に歩を進める女性の後を追う。
さしずめ、女性上司と、上司に付き合わされた男性部下といったところか・・・。
私はカウンター内にとって返し、小さなトレーにおしぼりを乗せ、トレーの下と手のひらの間にメニューを挟みテーブル席へ向かう。
女性がコートを脱ぎ終え、椅子の背に掛けるのを待って、
「いらっしゃいませ」
と、改めて挨拶し、屈んで女性から先におしぼりを差し出す。
男性にも手渡し、
「こちら、メニューでございます」
開いて、テーブルの中央に置いた。
すると、女性はメニューには目もくれず、
「コーヒーなんて無いですよね?」
と、私を見ながら尋ねる。
「いえ、ございますよ」
と、笑顔で告げる。
「あるんだ」
と、目を輝かせる。
その時、ふと女性のスーツの胸元、フラワーホール(襟穴)のバッジに気付いた。
秋霜烈日・・・、
なるほど~、といろんな事に合点がいき納得する。
「はい、コーヒーをお使いするカクテルもございますし、お酒をお召し上がりの後、コーヒーをご所望のお客さまもいらっしゃいますので用意しております」
「それって、インスタント?」
「いえ、NESPRESSOのマシンで抽出したものでございます」
「カプセルは選べたりします?」
「はい、現在ご提供できるのは深煎りでフルボディ・タイプとマイルドで滑らかなタイプ、そしてバニラフレーバーのタイプ、この3種類ならご用意できます」
「これから、ちょっと仕事の打ち合わせなんです。それが終わったらお酒を注文するから、先にコーヒーをいただいてもいい?」
「ええ、承知いたしました」
「ありがとう、じゃあ、フルボディのをふたつ」
「それでいいよね?」
と、対面に座っている連れの男性に確認。
「はい、お願いします」
と、即座に返答。
「砂糖とフレッシュやミルクはいかがなさいますか?」
「いえ、要りません。ふたつともブラックで」
「かしこまりました」
「では、ご用意して参ります」
一礼をして去ろうとすると、
「あっ、煙草ってここで吸えます?」
と、女性がテーブルを指差して尋ねる。
「はい、どうぞ、構いませんよ」
「すぐ、灰皿をお持ちしますね」
と、言ってカウンターへと戻る。
バックボードの引き出しから灰皿を取り出し振り向くと、お連れの男性が受け取りにこちらへ向かって歩いて来る。
恐らく女性から命じられたのだろう。
私も近づき、
「わざわざ、恐れ入ります」
と、言って灰皿を手渡す。
「いえ、いいんです」
と、言って男性は席に戻る。
マシンの電源を入れ、タンクにミネラルウォーターを入れてセット、戸棚からカップとソーサーを2脚取り出す。
それぞれのカップにまずはお湯だけをマシンから抽出し事前に湯煎。
カップが温まるまでの時間を利用して、グラスに入れた水もふたつ用意する。
カップが十分に温まったのを確認し、カプセルをセットし、コーヒーを抽出。
優雅な香りが立ち昇り鼻腔をくすぐる。
出来上がったコーヒーと水をトレーに乗せ、再びテーブル席へ向かうと、私に気付いた女性がテーブルに広げていた書類を手に取り、場所を空ける。
「お待たせいたしました」
と、言い、コーヒーと水をそれぞれの前に置く。
「ありがとう」
と、女性。
「ごゆっくりどうぞ」
一礼し、私はカウンターへ戻った。
時は再び静かに流れる。
スピーカーから流れる『チェット・ベイカー』の甘くひそやかな唄声がゆるやかに店内を漂い、時折りカップルの会話と笑い声が混じる。
私はカップル達の視界に入らぬよう、カウンターの端に立ち、ただ静かにゲスト達を見守っていた。
その後、ほろ酔い加減のサラリーマンらしきふたり連れが来店したが、場の雰囲気を察してか、静かなトーンで互いの学生時代の事を懐かしんでいた。
どうも、今夜の私はとんと用無しらしいが、こんな日もある・・・と、自身を慰める。
やがて、カップル客がひと組去り、ふた組目も去り、サラリーマンのふたり連れも去って行った。
カウンターで最後に残った男女も、いつの間にかカウンターには自分達だけになった事に気付くと、互いに顔を見合わせて去って行った。
テーブル席のふたりはといえば、女性がテーブル上の資料を見ながら話し、男性は時折り頷き手元の手帳になにやらせわしなく書き込んでいるようだった。
時計を見ると11時過ぎ、〈打ち合わせ〉はかれこれ1時間に及んでいる。
「平日のこの時間じゃ、この後は期待できないなぁ」
と、心の中で呟く。
スピーカーから流れる曲が終わりに近づく。
ステレオデッキ横に設えたCDラックを眺め、次に流す1枚を思案する。
『シャーデー』のアルバムを手に取る。
その時、背後から床のフローリングの軋む音が聞こえ振り返ると、テーブル席のふたりが席を立つところだった。
男性が両手でカップ&ソーサーを持ちカウンターの端に置く。
女性からの指示だろう。
「そのままで構いませんよ」
慌ててカウンター内から奥へ駆け寄り声を掛けるが、男性は意に介さず、水が残ったグラスも運んでくれる。
女性もブリーフケースを持ち、コートを肘のところに掛け、空いた手に灰皿を載せたメニューををカウンターへと運んだ。
「恐れ入ります」
恐縮しながら次々とカウンターに置かれるそれらを私もせっせとシンクへ運ぶ。
「カウンターに移ります」
私にそう告げながら、入り口の方へと歩を進める女性。
男性も後に続く。
入り口近くのスツールにブリーフケースを置き、コートを掛けると、男性の方へ向き直り、
「じゃ、そういう事でね」
と、女性。
「あっ、はい、お疲れさまです」
「また、明日ね」
私は扉を開け、去って行くお連れの男性を見送った。
店内に戻ると、女性は足を組んで腰掛け、煙草の紫煙をくゆらせていた。
引き出しから新しい灰皿を取り出し女性の前へ置く。
女性は手にした煙草を灰皿に預けると、宙に腕を上げ大きく伸びをする。
「さぁ、飲むぞー!」
と、言って満面の笑みを浮かべた。
「マスター?・・・ 、マスターで合ってる?」
「はい、そうでございます」
「マスターも一緒に、いいでしょ?」
「お望みなら、お付き合いさせていただきます」
と、言いながらBGMの消えた店内に音を取り戻すべく、『シャーデー』のアルバムをデッキに入れスタートする。
女性に向き直り、
「では、いかがなさいますか?」
「白州12年をダブルのハイボールで」
「オレンジをピールしてそのまま入れて」
「それを2杯」
指で数を示しながら言う。
「マスターもイケる口でしょ?」
「ええ、まぁ・・・」
同じもので付き合え・・・と、いう事か。
「良かった、じゃ、お願い」
「かしこまりました」
8オンスのグラスふたつに氷を入れて素早くステア。
氷が溶けて出た水を捨て、白州を計量しながら注ぎステア。
そこで、私は尋ねる。
「事務官の方は先にお帰りなんですね」
彼女は驚いてこちらを見る。
「なんで、彼が事務官って判ったの?」
「テーブルでオーダーをお伺いする際、胸元のバッジが目に入りましたので」
グラスをソーダで満たしながら言った。
そのバッジは既に胸元から外されていたが、女性はフラワーホールに触れ再確認する。
「目ざといわね」
納得がいったという口調。
出来上がったハイボールをコースターに乗せ彼女の前へ滑らせる。
「お待たせいたしました」
「〈秋霜烈日〉、お仕事は検察官でらっしゃいますね」
「ご名答」
と、彼女は上目遣いの笑みを浮かべる。
「さぁ、乾杯!」
と、言って、彼女は掴んだグラスを前に掲げる。
それに応え私もグラスを持ち上げ、
「いただきます」
の後、
「乾杯!」
ふたりの言葉とグラスが重なる。
「それで?」
足を組み替えて、僅かな間。
「他には何が判ったの?」
灰皿に煙草を押し付けながら尋ねてくる。
「早速、尋問ですか?」
「そうよ、さぁ答えて」
イタズラっぽい笑みを浮かべて言う。
私は苦笑して〈尋問〉に答える。
「現在は捜査、取り調べではなく、公判を担当する検事である事」
検察官の仕事は分担制で、捜査、取り調べをし、起訴するか否かを判断する者と、公判で裁判に立ち会い、被告人の有罪を主張、立証し、犯罪の証明を行う者とに大別される。
「ふ~ん、そう論ずる根拠は?」
「そのシックな装いとアクセサリー、控えめなメイク」
「恐らくきょうも法廷に立ち公判をこなしてこられたのでしょう」
「検事は派手な装いで法廷に臨んだりはしない」
「特に女性検事は」
「それに、事務官の装いもダークスーツでした」
「なるほどね、大した洞察力だわ」
そう言って、咥え煙草で間延びした拍手。
ちょっと小馬鹿にされた感じ。
グラスのハイボールをグイと飲み干すと、
「お代わり、同じものね」
・・・ピッチが早い。
「マスターもよ、私のペースに付いて来て」
言われて、私も飲み干す。
同じハイボールを作っていると、
「まぁ、事前に検事であると判れば、その推測に辿り着く事は案外たやすいわ」
彼女のハイボールをコースターに乗せる。
桜色のマニキュアをした指がすかさず掴み上げ一口。
「それで、私の個人的な事については?」
〈尋問〉はまだ続くらしい・・・。
「推察しなかったとは言わせないわよ」
・・・手厳しい。
「では、その前に、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「尋問してるのは私よ」
「でも、まぁいいわ。何?」
言って、カウンターに肩肘を突き顎を乗せ私を睨める。
本当に尋問されているかの様な錯覚に囚われる。
「現在は大阪にご任官ですか?」
「ははぁ~ん、そうくるか」
「更に、年齢も探るつもりね?」
さすがに頭がキレる。
こちらの考えはあっさりお見通しらしい。
検察官は新任で任官すると、まずは地方都市の検察庁に配属される。
そこで、検事としての基礎知識を学び、2年を経ると今度は主要都市の検察庁で、都会の様々な事件、捜査、公判を経験し、応用力を身に着けてゆく。
その後はまた2~3年の任期で地方都市に任官し、10年を過ぎ中堅検事になると、全国の検察本庁や支部が任地となる。
つまり、彼女が任官して既に10年以上を経た中堅検事であろうと踏み、それを私は確かめたかったのだ。
「ええ、大阪よ」
「さぁ、聞かせて」
容赦が無い・・・。
「言ってもよろしいので?」
「聞かせてもらうわ」
「なんか、楽しい」
「こんな楽しいお酒は久しぶり」
と、笑みを浮かべ私を見つめる。
こちらは自分の店でありながら、逆に酷く居心地が悪い。
彼女は間違いなく〈S〉だろう。
この窮地から私を救ってくれる新たなゲストでも来れば良いのだが、事はそう上手く運んでくれない。
「さぁ、どうぞ」
と、にこやかに微笑みながら、私からの答えを促す。
心の中のため息を押し殺しながら、私は答える。
「出身は関西、年齢は36、独身、婚姻歴無し」
一息間をおいて続ける。
「現在ステディな関係のパートナーも居ない」
「性的嗜好はストレート」
「趣味はビリヤード」
「そして、左利きである」
彼女が新しい煙草に火を点ける動作で間が空く。
「驚いたわ、98点」
「年齢以外は全て正解よ」
と、言いながら、今度は間延びの無いちゃんとした拍手。
「でも、なんで私の性的嗜好がストレートだと思った?」
「打ち合わせをなさってらっしゃる最中、幾度も私を見ていらしたので」
「気付いていたの?」
「仕事柄のせいでしょうか、他人からの視線には敏感なんです」
「じゃあ、なぜ現在フリーだと?」
「正直なところ、それについてはなんとなくなんです」
「失礼ながら、爪のお手入れがあまり行き届いてらっしゃらなかったので・・・」
「お仕事がハードな事を考慮しても、恋人がいらっしゃればありえないかと・・・」
彼女は自身の指先に目を向けて眉をひそめる。
「なるほどね~」
「利き腕と趣味は?」
「その事についてはずいぶんと考えさせられました」
「右手の親指と人差し指の間に見られるかすかな変色は、キューをブリッジする際に何度も擦れて生じたもの」
「よほど頻繁にプレイしないとその様にはなりません」
「そこへ思いが至るまでちょっと時間がかかりました」
「バーテンダーなんかにしておくには惜しい観察力ね~」
「恐れ入ります」
「しかし、バーテンダーをしているからこそ、身に着いた技術だと思っています」
言って、頭を下げる。
「バーテンダーとは人を見る仕事である・・・かぁ」
「はい、その通りでございます」
彼女はブリーフケースから名刺を取り出し、1枚抜き出し私の前へ滑らせ言った。
「『高梨 洋子』、歳は35よ」
「ありがとうございます」
と、言いながら手に取り『大阪地方検察庁』とあるのを確認する。
やはり・・・、本庁。
私も引き出しから自分の名刺を取り出し、両手で差し出す。
「『佐々倉 祐介』です」
「ふ~ん、佐々倉さんかぁ」
「なんか、いい名前ね」
どういいのだろうか・・・、
と、思ったが黙っていた。
「じゃ、お互い名乗り終えたところで、もう一度乾杯よ」
そう言ってまた、彼女はグラスの中身を一気に飲み干す。
「ほら、マスターもよ」
私のグラスにはまだ2/3以上残っているが、言われてグイと飲み干す。
「おぉー、さすがね」
「はい、作って作って」
事務官が先に帰った理由が判った。
かなり気を引き締めて対応しないと、この先こちらがヤバくなりそうだ。
3杯目を作り終え、再び乾杯。
すると、彼女は座り直し背すじを伸ばして真顔を作って言う。
「では、尋問を再開します」
「えっ!」
「えっ、じゃないわよ、今度はマスターの事を吐きなさい」
唖然とする、容赦が無いどころの話しではない。
テレビドラマで観た、検察官らしい毅然とした圧さえ感じる。
「まず、年齢は?」
「37です」
「結婚なさってますか?」
「いえ、独身です」
「子供は?」
「おりません」
「婚姻歴は無いという事?」
「その通りです」
「ホモセクシャル?」
「いえ、ストレートです」
「出身地は?」
「大阪です」
「恋人は?」
「おりません」
「家族構成は?」
「ひとり暮らしです」
これでは、ここはBarではなく、まるで取り調べ室である。
「好きな人は?」
「それは、恋愛対象で、という事でしょうか?」
「そうよ」
「おりません」
「判りました、尋問は以上です」
ホッとし、グラスに口をつける。
彼女もグイと一口。
ダブルで3杯目だというのに彼女のピッチは一向に衰えない。
「うん、気に入ったわ」
「これからはここへ通う」
「ねっ、いいでしょ」
笑顔に戻って尋ねてくる。
私に同意を求めての意味か、喜んで欲しいという意味か、ニュアンスでは計りかねたが、
「え、ええ、もちろんです」
と、うわずった引きつき笑いで私は応えた。
「この手の痕跡からビリヤード好きだと見抜いたという事は、マスターもビリヤードを?」
右手の甲を私に見せながら言った。
「ええ、好きでたまに突きます」
「腕前の方は?」
「どうでしょうか・・・、まぁ、そこそこには」
「おっ、言うわね~」
「よし、今度手合わせしましょ」
余程自身があるらしいが、私も自身が無い訳では無い。
「いいでしょう、受けて立ちます」
それからの会話は楽しく和やかに進んだ。
彼女は検察官の仕事について如何にハードでブラックかと語り、私の仕事についてもあれこれと思いつくままに尋ねてきた。
音楽について、互いの趣味を語らう頃になると、ハイボールは5杯目に突入していた。
彼女がトイレに立ったので、時刻を確認するともう2時を過ぎている。
表の〈BAR〉の照明を落とし、扉に〈CLOSED〉の札を掛ける。
さすがに酔いを感じる。
足元が僅かにおぼつかない。
トイレを出て戻る時、彼女の足取りも少しふらついていた。
冷たい水を用意し、彼女の前へ置く。
「どうぞ、冷たい水です」
「ありがとう」
と、言い一息で飲み干した。
「明日もお仕事じゃないんですか?」
と、尋ねる。
「うん、明日も法廷に立たなくちゃ」
「では、そろそろお帰りにならなくては」
「今、何時?」
「2時15分です」
「マスターの忠告に従って、帰る事にするわ」
目は若干虚ろになっているが、言葉のひとつひとつはしっかりしている。
「タクシーをお呼びしましょうか?」
「うん、お願い」
登録番号からタクシー会社を選び電話をかける。
平日なのですぐに繋がった。
「5分ほどでお迎えに来るそうです」
と、彼女に告げる。
「じゃ、5分で着替えて」
「えっ?」
言ってる事の意味がわからない。
「・・・今夜は私と寝て」
「えっ!」
言葉に詰まり、私の口は半開きのまま、目は彼女の顔に釘付けになる。
彼女の目は先ほどまでとは違い、しっかりと私の目を見つめている。
・・・沈黙が流れる。
耐え切れず、先に視線を外したのは私だった。
ハイボールを一口飲み、落ち着きを取り戻す。
「飲み過ぎですよ」
「本気にしちゃうところでした」
笑みを取り繕い、彼女を見る。
「本気だって言ったら?」
彼女の目は熱く、視線は私の顔から逸れない。
ふたりの間に流れる時がカウンターを挟んで凍る。
「私じゃ、駄目?」
言葉が出てこない・・・。
「お願い・・・」
「・・・」
私の頭の中はパニック状態・・・。
いや、彼女の視線に囚われ思考が停止していた。
「・・・駄目ですよ」
カウンターに視線を落とし、ようやくひと言・・・。
「あなたが、では無く、私なんかじゃ駄目です」
顔を上げ、再び視線を絡ませる。
「あなたの様な素敵な女性が、私なんかを相手にしては駄目です」
穏やかに諭すように言った。
静かに扉が開き
「○○タクシーです。お迎えに参りました」
帽子を取った運転手が告げる。
凍りついた時がゆっくり溶け出す。
「少しだけ待っていただけますか」
と、私。
彼女は真顔に戻り、無言で会計を済ませる。
席を立ちコートとバッグを手にするのを私は扉の前で見ていた。
彼女は視線を合わさない。
扉を開けタクシーまで並んで歩く。
「今夜はありがとうございました」
「・・・」
彼女は何も言わずにタクシーへ乗り込む。
私は開いたドアへ顔を突っ込み、運転手に向かって、
「名刺をいただけますか?」
運転手が男性だった場合、女性の酔客をタクシーでお見送りする時には、その後のあらゆる事態を想定して講じておく予防策である。
「必ず無事に送り届けてください」
と、運転手に告げ、体勢を戻そうした時、彼女に腕を掴まれた。
グイと引き寄せられ、頬にキス。
そのまま私の耳に口を寄せ、
「バカ! 」
「でも、また来るわ」
見ると、その顔には先ほどまでの笑顔が戻っていた。
それから3日が過ぎ、5日が過ぎ、1週間が過ぎたが、彼女は来なかった・・・。
私はあの夜以来、彼女の事がずっと頭から離れず、彼女と交わした言葉や表情、仕草を思い返している。
10日後、週末の夜。
店は賑わい、私は忙しく立ち働き、気付けばとうに日付けも変わり、閉店時刻が近づいていた。
この夜の最後のゲスト、アフター終わりで訪れた馴染み客のホステスを外でお見送りし、扉に〈CLOSED〉の札をかけていると、
「佐々倉さん」
と、不意に自分の名を呼ばれた。
声のした方を見るが、人影は無い。
道の中ほどまで出て確かめるが誰も居ない。
逆方向も振り返って確かめるがやはり居ない。
その時、突然後ろから抱きしめられる。
「・・・会いたかった」
「誰だか判る?」
「ええ、もちろん」
「高梨 洋子さん」
名前を答えると腕がほどけた。
振り返ると先日とはまるで別人の装いの彼女が居た。
オレンジ色のロングスカートにスカイブルーのニット、腰丈の暖かそうなファージャケットを身に付け立っていた。
「似合ってる?」
尋ねて、彼女はその場でくるりと回る。
「ええ、とっても」
「見違えました」
驚きを素直に口にする。
彼女は満面の笑みを浮かべる。
先日とは髪型も違う。
束ねていたストレートの髪は、下ろされて柔らかなウェーブがかかかっている。
「一度帰って、わざわざ着替えてきたのよ」
彼女の瞳は街灯の光を反射し煌めいていた。
・・・天使の瞳。
「とても素敵です」
言われて恥じらう顔はまるで少女の様だ。
「お客さん、まだ居るの?」
「いえ、先ほど最後のお客さまをお見送りしたところです」
「うん、あっちから見てた」
「最後のお客さんだったらいいなって思ってたの」
「さぁ、どうぞ」
「私もあなたをお待ちしていました」
扉を開け彼女を招き入れた。
彼女の後ろへ回り、ジャケットを脱ぐのを手伝い、ハンガーに通し、壁のフックに掛ける。
振り返ると、いきなり正面から彼女に抱きつかれた。
そして、伸びをすると唇を重ねてくる。
私は驚いて身動きができない。
カーメン・マクレエの唄う『Angel Eyes』が聴こえる。
あの日の夜と同じだ・・・。
一瞬とも、永遠とも思われた口づけが終わり、ふたつの唇が離れた。
彼女は私を見上げたまま、抱きしめ続け、見つめている。
その目には今にもこぼれんばかりに溢れる涙。
私も腕を回しそっと抱きしめ、彼女をやさしく見つめ返す。
互いに無言のまま時が過ぎる。
やがて、彼女は言った。
「結婚して・・・」
《後編》へ続く・・・
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vatoさん
こんにちは
コーヒー☕️とおせんべいを用意して
読み始めました
バーテンダーさんが自己顕示欲の塊だとか
手品キットで口に入ったおせんべいが笑って噛めなくなりました🤣🤣🤣
素敵な音楽がかかってるんだろうなぁと
カーメンマクレアとチェット・ベイカー後でチェックします✍️
かっこいい所作✨読んでるだけで気持ちいいですね💕︎
怖くてかっこいい女性の尋問楽しかった
二人の観察し合う時間🥃🥃
素敵✨️✨️
これからどんな展開になるか楽しみ😊
今回もお読みくださりありがとうございました😊
『佐々倉 祐介』はあくまでも架空の人物ですが、モデルとなる人物像は私です。
なので、不器用で自己顕示欲の塊である事も実際の私を色濃く反映しています。
手品キットのくだりは正に経験に基づくものでして、いくつかキットを購入し、チャレンジしてみましたが、ことごとく門前払い・・・😭
チェット・ベーカーは女性受けすること間違いなしなので、まめさんにもきっと気に入ってもらえると思います😊
後編の『佐々倉 祐介』と『高梨 洋子』との恋の行方にもどうぞご期待ください。
ふたりの感情の絡まりを解りやすく表現できればと思っています。
vato さん
今回も楽しいお話でした🥰
出される飲み物も
美味しそうでした🍸
背中をゾクゾクさせて笑わせた
しずかちゃん
またまたマスターの観察眼で
彼女の過去が💦
あの胃薬のお酒登場
✨✨✨
素敵なひとときをありがとございました💖
mameさん、こんばんは🤗
今回も最初の読者になってくださりありがとうございます。
楽しんでいただけたのなら、とっても嬉しいです。
ウンダーベルグのカクテル。
実際、"ずっかちゃんスペシャル"として、現在の私の店に存在しています。
ますます、飲んでみたくなったでしょ❓😅
みんなに愛されるオカマの『ずっかちゃん』は実在する人物です。
これからもよろしくお願いいたします😊
vatoさん
こんにちは
わたしもお店にお邪魔して
マスターのお酒をご馳走になった気分です
バーテンダーさんのグラスを磨く姿とか
来店されたお客様への気遣いなど
そこで見ているようでした
その女性の仕草をチラッと見るだけで
何かを感じ取るのは職業柄なのでしょうか?
只者ではない気持ちがしました
悪女かー男性からそんな理由で振られたのかしら
タイに主人と最後の赴任から帰るときに
言われたことがあります
わたしが悪女で良かったと🥰
悪いことはしてないんですけどね
まめさん、こんばんは🤗
読後感想文をお寄せくださりありがとうございます。
とっても嬉しいです😆
そうですね、確かにお客さまの一挙一動にはできるだけ目を配っています。
何かご要望がないか・・・
ご不満な点や至らない事はないか・・・
その他にも仕草や身に着けてらっしゃる物から会話のヒントを探ったりもします。
現在はsean2をアプリに落とし込んでいます。
sean1はちょっと静かな内容でしたが、2は賑やかといいますか、なかなかに動きのある内容になりそうな・・・
公開を楽しみになさってください😉