透ちゃんは愛されたい

皐月ハル

文字の大きさ
2 / 19
ねぇ、先生

二人のこと

しおりを挟む
 俺、伊藤一真は、この春から母校の男子高校で教職に就いた。
 大学を卒業してからの一年間は、公立高校で非常勤講師として働いていた。
 体育の先生だと思われがちだけど、実は英語を教えている。
 ……ジャージだからって? ちゃんとワイシャツにネクタイもしてるのに。

 私立の学校だから、そうそう欠員なんて出ない。
 でも、学生時代にお世話になったバスケ部の顧問の先生が、病気で退職されることになって、
 その代わりに――と、声をかけてもらった。

 ありがたい話だ。
 だから当然、バスケ部の顧問も引き継ぐことになった。

 さらに、副担任として二年生の文系クラスを受け持つことにもなった。
 自由な校風とはいえ、進学率も悪くない。
 英語は受験の要だ。俺も気を引き締めないとな。


 ところで、俺のクラスには転入生がいる。
 北原透。地方からの転入だ。

 保護者の欄には母親の名前、緊急連絡先は伯父。
 苗字が違うから、母方の身内なんだろう。

 前の学校は、医大進学を目指すような進学校だと聞いた。
 なのに、本人の希望は文系クラス。
 みんなが噂しているように、勉強についていけなかったのか――
 ……いや、あの転入試験の成績を見れば、それは違うってわかる。

 無理に詮索する気はないけど、どこか気になってしまう。

 彼を見ていると、クラスに馴染めていないというより、
 むしろ自分から距離を置いているように見えた。
 休み時間も、誰かと話す姿をほとんど見たことがない。
 かといって孤立しているわけでもなく、周囲もなんとなく、
 彼を“触れないほうがいい存在”として扱っているようだった。

 それにしても、あの無表情。
 喜怒哀楽が、ほとんど読み取れない。

 そして、いつも手にしているスマホ。
 授業中もずっと、親指で文字を打っている。
 ゲームでもSNSでもなさそうで――
 もしかして、何かを書いているのかもしれない。


 * * *


「北原、次、読んで」

 スマホに夢中で、授業なんて聞いちゃいない。さて、どう出るか。

「聞いてませんでした」

 顔色ひとつ変えずにそう言うと、閉じたままだった教科書を開いて、
「何ページ?」と隣の前田に小声で尋ねた。

 突然話しかけられた前田は、少し肩をすくめながら答えている。

 内気なタイプかと思っていたけど、どうやらそうでもない。
 声に妙な圧がある。

 ページをめくると、すぐに読み始めた。
 その発音は驚くほど流暢で、抑揚も自然だった。
 教室の空気がざわめき始める。
 それでも彼はページの最後まで、淡々と読み切った。

「まだ読みますか?」

「いや、いい。でもこれは没収な」

 そう言ってスマホを取り上げた。
 その瞬間、北原の瞳がかすかに揺れた。
 一瞬だけ感情が透けて見えた気がしたけれど、すぐに無表情に戻る。

「あとで職員室に来るように」

 彼は小さく頷いた。



 スマホを失った北原は、しばらく何もせずに頬杖をつき、窓の外を眺めていた。
 やがてノートを開き、ペンを走らせる。

 書いては少し考え、線を引いて消しては、また文字を足していく。
 その繰り返しは、確かに何かを形にしようとしていた。

 スマホがなくても、彼は――彼だけの世界を作っていた。


 * * *


「スマホ、返してください」

 職員室に入るなり、それか。

「違うよね?」

 わざと回りくどく言ってみた。
 賢い子なら、この程度の意図はすぐにわかるはずだ。

 北原は少しだけ眉をひそめて、めんどくさそうにため息をついた。

「すみませんでした。もう授業中にスマホは触りません。伊藤先生の授業を邪魔して申し訳ありません。これからは――」

 わざと声を張って言っている。
 職員室の空気がピリッとした。
 周りの先生たちが、何事かとこちらを見る。

「わかった、わかった。もういい」

 苦笑いでごまかして、スマホを手渡す。

「ありがとうございました」

 そう言って、北原は軽く頭を下げると、踵を返して出ていった。
 ドアが静かに閉まる。

 他の先生たちの視線も、それぞれの仕事に戻っていった。
 結局、あいつがスマホで何をしていたのかは、聞けなかった。

――わざとだな。
 ああやって、壁を作っている。

 思っていた以上に、難しいやつかもしれない。


 * * *


 それからしばらくして、俺たちは屋上で顔を合わせるようになった。
 昼休みの短い時間、ただそれぞれが黙って過ごす。
 それが、いつの間にか――共有の秘密になっていた。



「ねぇ、先生。ちょっと聞いていい?」

 いつもは互いに勝手に過ごしているから、こうして話しかけられるのは少し新鮮だった。

「なに?」

 彼はノートを開き、ページの端を指で押さえながら言った。
「この表現なんですけど――『Well, that’s about it.』。これだと少しフォーマルすぎますか? もっとカジュアルに言いたいんです」

「言いたいって?」

「あ、あー……その、SNSで外国人とやりとりしてて。それで」

 目を逸らしながら言う。
 逆光で表情は読み取れない。

「だったら、『close enough』でいいんじゃないかな」

「十分近い?」

「そう。『まぁ、そんなところ』って感じ」

「あー、うん、いいですね」

 北原は小さく頷いて、口元をゆるめた。
 珍しく、ほんの少し笑っていた。

 何のための英文かは、あえて聞かなかった。
 知ろうとすれば、彼はまた心を閉ざす気がしたから。

「秘密」を共有したのに、彼には――俺の知らない秘密がまだあるのだ。


 * * *


 ある日の放課後。
 期末試験前で部活も休み。職員室には、俺と数人の先生しか残っていなかった。
 やり残した仕事も、もう少しというところで――ドアが開く音がした。

 顔を上げると、北原が立っていた。

「……帰ってなかったのか?」

「えと、一度帰ったんですけど……誰かの助けが、必要で」

 いつもの落ち着いた態度は影もなく、何かに追われているような気配だった。

「どうした?」

「……家に、帰れなくて」

 一人暮らしのはずだ。
「鍵でもなくしたのか?」

「い、いや……そんなんじゃなくて」

 北原は言葉を濁し、俯いた。
 顔色が急に曇る。

「ヤツが……朝、ヤツがいて。俺、夢中で……」

 “ヤツ”?
 一瞬、意味が飲み込めなかった。
 けれど、その言葉の響きには、どこか生々しい恐怖が混じっていた。

「……わかった。とにかく家まで送ろう。話は車で聞く」

 俺は書類を机に置き、すぐに立ち上がった。
 教師としての判断というより、体が先に動いていた。


 * * *


 北原の部屋の前までやってきた。
 鍵を開ける前に、彼は言った。

「ヤツを片づけるまで、ドア開けないでね」

 そう言うなり、ドアを開けて俺を押し込み、サッと閉めた。

「先生、頑張って!」

 ……って、要するにだ。
 朝、出かけようとしたときに“ヤツ”、つまりGが現れて、夢中で噴霧型の殺虫剤をぶちまけたまま登校。
 で、帰宅してドアを開けようとしたものの、どう処理していいか分からず、結局俺が呼ばれた――そういうことらしい。

 ま、ヤバいストーカーじゃなくてよかったけどな。
 まさか、こんな案件とはね。



「はい、ちゃんと処分しましたよ」

 ドアを開けて、外で待っていた北原に告げると――

「ど、ど、どうやって?」

「ティッシュで摘んでゴミ箱に」

「だ、ダメー! そのゴミ袋捨ててきて! 下にゴミ置き場あるから!」

「はいはい」

 言われるまま、俺はエレベーターで下まで降りて、ゴミを捨てて戻ってきた。

 戻ると、北原はまだドアの前で立ち尽くしていた。

「どうした?」

「安全が確認できるまで、一緒に居てもらわないと」

 真顔で言う。

「……そこまで怯えるか?」

「先生、わかってない。ヤツらは、しぶといんです」

 目を真剣にして言い切るから、思わず吹き出してしまった。



 今度は二人で部屋に入った。
 北原は俺を前に立たせて、ベッドの下、クローゼットの中、流し台の下、バスルームの隅まで、くまなくチェックさせた。
 やっと安心したのか、ソファに荷物を下ろす。――そういえば、玄関に入ってからずっと肩にかけたままだった。

「ありがとう、先生。座って。なんか飲む?」

 ようやく緊張が解けたらしい。

「じゃあ、コーヒー。あるなら」

「うん、コーヒーね」

 そう言って、北原は奥のキッチンへと姿を消した。

 その間、俺は部屋の中を見回していた。
 今いるのは、広めのリビングダイニング。奥にキッチンが続き、横にはドアが二つ。
 一つは北原の部屋で、もう一つは使われていないようだった。

 リビングのテーブルにはノートパソコンが一台。
 高校生が使うには上等すぎる機種で、ゲーム用というより、何かを書くために置いてあるように見えた。

 カーテンも重厚な――なんという織り方だったか。
 前に家庭教師をしていたとき、お金持ちの家で見たのと同じタイプだ。

 壁のカップボードはアンティークで、中に並ぶカップ類もきっとヨーロッパのブランドものだろう。
 詳しくはないけれど、ひと目でわかる。
――ああ、裕福な家なんだな、と。

 ただ、ソファだけは少し雰囲気が違っていた。
 アンティークの家具たちとは対照的な、モダンで洗練された革張りのもの。
 けれど、それもまた上質で、座り心地は抜群だった。

 親族の持ち家に住んでいると聞いてはいたが、高校生の一人暮らしにしては、どこか整いすぎている気がした。
 彼のために何かを“用意した”形跡もなく、けれど“放っておかれた”ようにも見えない。
――どこか違和感がある。
 北原自身がこういう暮らしを望んだのかもしれないけれど。


 * * *


「先生、お待たせしました」

 きちんとトレイに載せて運ばれてきたコーヒーは、ソーサー付きのカップ。
 一方の北原は、シンプルなマグに牛乳を注いでいた。

 そのちぐはぐさが、高校生の一人暮らしを、妙にリアルにしていた。

「こんな広い家に、一人で住んでるんだな」

「ん? 使ってるのはここだけ。あとはベッドくらい」

「そうか」

 言葉を濁しながら、俺は考えていた。
 どうして彼は、転校までして、こんな暮らしをしているのか。

「ねぇ、先生」

「ん?」

「連絡先、教えてよ」

 ──そうだよ。
「おまえ、俺が職員室にいなかったらどうするつもりだった?
 まずは電話するとか……」

「さすがに学校に電話するのは恥ずいじゃん」

「そういうものかね」

「ま、いなかったらホテル泊まって、明日お願いしてたかな」

 こともなげに言う。

 ……ほんと、金持ちのボンボンめ。


 * * *


 北原は相変わらず、クラスの誰とも話さなかった。
 授業中はスマホをいじり、俺の授業のときだけ、ノートに何かを書いている。
 屋上でも、話しかけてこない限り、黙ってスマホを弄っていた。


 * * *


 夏休みに入り、俺は部活で忙しくしていた。
 補習にも来ていない北原と顔を合わせることは、しばらくなかった。

 そんなある日。
 連絡先を交換してから初めて、北原からメッセージが届いた。

 帰り道、車を運転していたせいで――気づくのが、少し遅れた。
 信号待ちのあいだ、何気なく画面を見た瞬間、心臓が跳ねた。

 短いメッセージが、立て続けに並んでいた。

『来てもらえませんか?』
『先生!』
『怖い!』

 一瞬、呼吸が止まった。
 ハンドルを握る手に、じわりと汗が滲む。

――なにがあった?

『またG?』

 冗談めかして返したが、
 すぐに、短い否定の文字が返ってくる。

『違う もっとヤバい』

 “もっとヤバい”。
 あのとき、怯えた顔で立ち尽くしていた北原を思い出す。

『すぐ行く』

 それだけ送って、ハンドルを切った。

 稲光が暗い雨雲の陰影をくっきりと浮かび上がらせる。
 間もなく、ポツリポツリと雨が落ちはじめた。
 突然の風に、街路樹が大きく揺れる。

――ただの生徒のことなのに。
 どうして、こんなにも落ち着かないんだろう。


 * * *


 マンションに着くと、指定された番号の駐車場に車を停め、急いで部屋へ向かった。
 チャイムを鳴らすより早く扉が開いて、北原が顔を出した。
 血の気が引いたような顔をしていた。

「ここなら、まだマシなんだけどさ」

 掠れるような声で言って、リビングへと促された。
 大きな窓の向こうで、稲光が夜の景色を白く塗りつぶす。
 一瞬の静寂。
 そして、腹の底に響くような雷鳴が轟いた。

 窓に背を向けて耳を塞いでいた北原の肩がびくりと震えた。
 ただの雷が怖い、という感じではなかった。
 何か別のものに怯えているように見えた。

「カーテン、閉めないのか?」

「……だって、閉めようとすると光るから」

 窓に近づけないのか。
 俺は重たいカーテンを隙間なく引いた。
 部屋がわずかに暗くなり、雷の光は和らいだ。

 それでも時折、風が窓を叩くたびに、北原は身を縮めて耳を塞ぐ。

「怖いのか」

「怖いっていうか……無理かも」

 ソファの上で小さくなっている北原を見て、
 気づいたら、俺は隣に座っていた。

 そっと、その背中に手を回す。
「大丈夫だから」

 言葉よりも、自分の手の温度のほうが確かに届く気がした。

 俺はスマホ用のイヤホンを北原の耳にそっと着けて、動画を再生した。
 これで、少しは音や光が気を紛らわせてくれるだろう。

 笑える動画や、癒される動物の映像をいくつか流していく。
 その間、スマホは北原に持たせたまま、俺は背中に手を回し、片手で画面を操作した。
 小さなひとつの画面を、二人で肩を寄せ合うようにして見つめていた。

 雷の音が、遠くなった気がした。



 外の気配が完全に静まったのは、もう零時を過ぎた頃だった。
 雷も雨もやみ、外はすっかり静けさを取り戻していた。

 もう大丈夫だな――そう思った瞬間、ふと気づいた。
 あまりにも近い距離に、北原の肩があって、慌てて身を引いた。
 よかった、気づかれてない。これで「セクハラ」とか言われたら目も当てられない。

「もう大丈夫だ」

 と声をかけると、北原は「はぁ」と深いため息をついた。

「トラウマで」

「トラウマ?」

「嫌な記憶と結びついてて、雷が苦手なんです。でも、もう大丈夫です」

 ああ、そういうことか。
 心のどこかで安堵する。理由がわかるだけで、少し救われる気がした。

「そっか。もう平気なら、俺は帰ろうかな」

 立ち上がろうとしたとき、北原がシャツの裾をそっと掴んだ。

「先生、晩ご飯は?」

「帰りにバスケ部の連中と食べたよ」

 あっ、という顔。
 ――こんな時間だし、当然だよな。
 そんなことを思っているのか、少し考えを巡らせているように見えた。

「……じゃあ、もう遅いですし。泊まっていきませんか?
 部屋もあるし、新しい着替えもありますから」

 え? なにその流れ。

「いや、着替えはいつも予備持ってるから」

 北原は無言で俺を見ている。
 ……え、まさか外泊する前提で準備してるとか思ってないよな。

「いやいや、誤解するなよ。部活のあと汗かいたりするだろ? そのためにだな」

「なにも言ってませんよ」

 やけに冷静だ。――考えすぎなのは、やっぱり俺のほうか。

「客室があるので、そっち使ってください」

「客室? ……おまえんち、ほんと金持ちだな」

「バスもトイレもキッチンも、自由に使っていいですから」

 時計を見ると、今帰っても風呂に入ったりで、寝られるのは二、三時間だろう。
 さすがにしんどい。
 少し迷ったあと、お言葉に甘えることにした。

「じゃあ、泊めてもらうよ」

「はい。じゃあ、おやすみなさい。客室はこの手前のドアです」

 そう言って、北原はあっさりと自分の部屋へ引っ込んだ。

 素っ気ない態度だけど、きっと一人になりたくなくて引き止めたのだろう。
 怖い記憶を思い出して、心細くなっていたに違いない。
 ……可愛いところもあるじゃないか。

 それにしても――トラウマ、か。


 * * *


 翌朝、目を覚ましてリビングを覗いてみたが、北原はまだ起きていなかった。
 カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。

 夏休みだし、無理に起こすこともないか。
 そう思いながら、部屋の前で声をかけた。

「おはよう。先生、起きたからもう学校行くね」

 返事はない。
 まだ眠っているんだろう。

 靴を履こうとして、ふと気づいた。
 ――鍵。
 このまま出たら、開けっぱなしになる。

 振り返ると、靴箱の上に鍵束が無造作に置いてあった。
 それを手に取り、外へ出てから静かに施錠する。
 そのあと、郵便受けから鍵を落とした。

 ガコン、と金属音が響く。
 思ったより大きな音で、起こしてはいないかと心配になった。

 スマホを取り出して、短くメッセージを送る。
『鍵、郵便受けに落としたから』

 送信マークの下に、「既読」がつく気配はなかった。


 * * *


 二学期になっても、北原は変わらず、いつもの調子だった。
 その変わらなさが、なんとなく嬉しかった。
 日常が続くことに、ほっとしていたのかもしれない。



 けれど、ある朝――
 北原は学校に来なかった。

 家には固定電話がない。
 携帯に電話をしても、アプリでメッセージを送っても、反応はなかった。
 ただの寝坊だと思いたいのに、胸の奥がざわつく。

 二時間目が空きだった俺は、気づけば車を出していた。
 北原のマンションへ向かう道すがら、頭の中でいくつもの可能性が巡る。
 何かあれば、あいつのほうから連絡をよこすはずだ。
 それができないということは――。


 * * *


 エントランスの呼び鈴を何度押しても、応答はない。
 偶然通りかかった宅配便のお兄さんに頼み込んで、一緒に中へ入れてもらった。
 部屋の前で、もう一度呼び鈴を押す。やはり無反応だった。

 焦りが喉を焼くようにせり上がり、思わずドアを叩いた。

 やがて、カチャリとロックが外れる音。
 重たげにドアが開いたかと思うと、北原がふらりとこちらへ倒れかかってきた。

「だ、大丈夫か!」

 咄嗟に抱きとめる。
 腕の中で、北原の身体が力なく沈む。

「おい、しっかりしろ!」

「……先生、うるさい」

 目を閉じたまま、迷惑そうな声。
 そして、ゆっくりとまぶたが上がった。

「先生がドア思いっきり開けるから、引っ張られて倒れたんだよ」

「いや、でも、目を閉じてたし」

「寝てたから」

「寝てた?」

「完徹した」

「カンテツ?」

「徹夜」

 肩の力が抜けた。
「なんだよ、それ……ゲームでもやってたのか」

「ここじゃなんだから、中入って」

 呆れたように言って、北原は小さくため息をついた。
 その顔を見て、ようやく少し安心する。
 確かに、玄関先で言い合うのは、近所迷惑だよな。


 * * *


 ソファに腰を下ろした北原は、また目を閉じていた。

「寝たのか?」

「起きてる」

 声だけが返ってくる。
 目は閉じたまま、どこか別世界を漂っているかのようだった。

「こんなになるまで完徹って、何やってたんだよ」

 北原は小さく唸った。
 その表情が、少し困ったようにも、迷っているようにも見える。

「わかりました。先生にだけ、お話しします」

 妙に改まった口調に、俺も思わず姿勢を正した。

「実は……小説を書いてまして」

「小説?」

 意外な答えだった。
 けれど、すぐにいくつかの場面が頭の中でつながった。
 授業の合間に、ノートを埋めていた姿。
 休み時間、窓際で黙々とスマホを打っていた指先。

「ああ、それでか」

「それで、とは?」

 北原が訝しげに目を細める。

「あ、いや。いつもなにか書いてるなと思ってたから」

 北原は小さく息を吐いて、肩を落とした。
「やっぱり気づかれてましたか」

 気づいていたというより、いま聞いてようやく腑に落ちた、という感じだった。

「まー……なんとなく、薄々?」

 少し曖昧に笑うと、北原は視線を落として言った。
「小説といっても、アプリで投稿してるだけなんです。でも……いろいろあって、新作を期待されてて」

「それで、徹夜したわけか」

「まあ、はい」

 そう言って、北原は照れくさそうに髪をかいた。
 その仕草が、なんだか子どもみたいで――
 思わず、笑みがこぼれた。

 なるほど。
 それは、しょうがないな。

 ……そう言いかけて、口を閉じた。
 教師と生徒のあいだにある一線を思い出す。

「それでも、だ」
 少し声を落として言う。
「学校があるんだから、起きられないほど徹夜するのはよくない。ましてや無断欠席だなんて……どれだけ心配かけたと思ってるんだ?」

 できるだけ教師らしく、諭すように言ったつもりだった。
 けれど北原は、驚いたように目を丸くして――
 それから、少しだけ笑った。

「先生、心配してくれたんだ」

「当たり前だろ。全然連絡つかないし。
 連絡先知ってるんだから、学校休むときくらい連絡しろよ」

「あー」

 北原は額に手を当てて、今さら思い出したように声を漏らした。

「朝になって、誰か出勤してから電話しなきゃって思って……」

「思って?」

「めんどくさいな、って」

 思わずため息がこぼれる。
 確かに、学校の欠席連絡は保護者のアカウントを通さなければならない。

 だが、それでも。

「だったら、俺に連絡よこせばいいだろ」

 そう言うと、北原は少し黙り込んだ。

「……なんか、そういうのに使っていいのかなって」

 その言い方が、やけに真面目だった。
 叱るつもりだったのに、思わず表情が和らいでしまう。

「これまでも連絡してきただろ。あれと同じだよ」

「あれは……学校とは関係ない、私用だったし」

 はぁ、と息を吐く。
 この子の線引きは、どうにも不思議だ。

「あのな、どっちかと言ったら、私用よりもこっちのほうが大事なんだぞ」

 北原は少し首を傾げて、何かを考えているようだった。
 そして、ゆっくりと小さくうなずく。

「……うん、わかった」

 本当にわかっているのかどうかは、正直怪しい。
 けれど、その素直な声を聞いてしまうと、それ以上は何も言えなかった。

「じゃあ、俺は学校に戻るから。
 熱が出て連絡できなかったってことにしておくよ」

 そう言って玄関へ向かおうとしたとき、北原が何かを差し出した。

「これ、合鍵」

「……合鍵?」

「今度、なんかあって先生が来たら渡そうと思ってて。
 こないだ鍵がなくて困ったみたいだったから」

 ――その“なんかあったら”が、まさに今日のことだろ。

「おまえなぁ……それなら学校で渡してくれればよかったんだよ。
 そしたら、こんなことにならなかったのに」

「あ、そうか……」

 うん? と首をひねった。
「でも、学校では先生は先生だから……」

 ああ。
 その一言で、少しだけ線引きの基準がわかった気がした。
 彼なりに、ちゃんと区別をつけようとしているのだ。

「とりあえず、なにかあればすぐに相談すること。
 私用でも、学校のことでも、どっちでもいい」

 そう言うと、北原は視線を落としたまま、何も言わなかった。
 納得しているのかどうかは分からない。
 ただ、ゆっくりと息を吸い込んで、こくりと小さくうなずいた。

「とりあえず、今日はゆっくり寝ろ。
 明日はちゃんと学校に来ること。いいな」

「……はい」

 その返事が、思いのほか素直で、少しだけ拍子抜けした。



 北原は、俺のことをどう思っているんだろう。

 ……いや、“思っている”というのは違う。
 どういう存在として見ているのか――その方が近い。

 一人で困っていることを解決してくれる大人が、たまたま俺しかいない。
 きっと、それだけのことだ。

 小説のこともそうだ。
 俺は北原のことを、何ひとつわかっていなかった。
 世話を焼いて、クラスに馴染ませようとしたけれど、
 それは俺の空回りだったのかもしれない。
 北原にとっては、必要のないことだったのだろう。

 ――俺は、対応を間違っていたのかもしれない。

 だけど。
 彼の生活にまで踏み込むのは、教師と生徒という関係を越えてしまう。
 他の生徒と平等に接しなければならない。

 そう思って、ふと気づいた。

 ああ。
 北原の「線引き」は、そういうことだったのか。

 ――「学校では先生は先生だから」

 あの言葉が、ようやく胸の奥で静かに落ち着く。

 でも、だからといって放っておけるわけでもないんだよな。
 困っているのを知っていて、見過ごすなんてできるはずがない。

 教師としてなのか。
 人としてなのか。

 自分でも、その境目がわからなくなっていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

寂しいを分け与えた

こじらせた処女
BL
 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。  昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

処理中です...