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第一章 鷺沼崇の場合
九 ◯鷺沼 崇【 1月10日 午後6時30分 】
しおりを挟む慌てて角に身を隠す。息も絶え絶え、どうやら見つからずに済んだようだ。
(何故檜山がここに…?)
まさか。俺が小林を殺したことを知って、追いかけてきたのか。…いや、そんな筈がない。それならこのホテルに追いかけてくるよりもまず、事実確認のために俺に連絡をするはずだ。
檜山は証拠もなく行動するような軽率な男ではない。加えて死体は山奥の土の中、俺が小林を殺した証拠はない。考えにくいことだが、奴は俺とは関係のない別の用件でここに来た。ただの偶然。そうだ、そうに違いない。
一人で納得していると、エレベーターホールの方から微かに話し声が聞こえてきた。
「…はそろそろのはずですがねえ」
「ええ、…ちろん!…と支払いますから」
片方は檜山の声だ。もう片方は…現在エレベーターホールにいるのは二人しかいないので、柳瀬川のものだろう。俺は、二人の会話に耳をそばだてた。
「あんた、先月のお支払い少し遅れたじゃないですか。今月はちゃんとしてくださいよ」
「わ、分かっております。今月は必ず…期限までに支払います」
「よろしくお願いしますよ。さもないと、また前みたいにこちらから催促させていただきますからねえ」
「は、ははあ。それだけはご勘弁を…見込はありますので」
会話から察するに、柳瀬川は俺と同様コモレビより金を借りている立場ということだ。そして、檜山が担当なのか。これもまた、俺と同じだ。
話は続く。
「へえ、そんじゃ期待していますよ。…それはそうと柳瀬川さん。瑞季とは会ってんですかい?」
「え!まあ…ぼちぼちですね」
「へへえ。全く、あんたも私に負けず劣らず悪いお人ですよ。とにかく、程々にしておくのが吉ですよ。あの手の連中は、はまり込むと抜け出せられない奴らばっかりなんですから」
瑞季。今、檜山はそう言ったのか。
瑞季とは、ちづると同じキャバクラで働いていた本多瑞季のことだったはずだ(人違いの可能性もあるが)。瞳はぱっちり二重、童顔で可愛らしくまた背も低いため、外見こそ幼く見られる女である。
しかし実際の年齢は三十二歳、経験豊かな女なのだ。その若作りはひとえに彼女自身の努力の賜物かとは思うが、年齢を省みることなく、そう周囲から見られることを商売道具として使っている分、強かな女だとは思う。
ちなみに瑞季の源氏名は「カオル」である。俺が彼女の本名や年齢を知っているのは、前にちづるから教えてもらったからだ。
そうか…柳瀬川は瑞季と何かしらの接点があるということか。コモレビで檜山から金を借りていることといい、キャバクラ嬢と関係があることといい、柳瀬川と俺はどこか似ているところがある。機会があれば本人と酒を飲みつつ、会話を交わしてみたい。
しかし残念だが、それは叶わない。俺は奴を殺さなくてはならないのだから。そうしなければ、俺の未来はないのだから。
角から顔を半分程だし、エレベーターホールの動向を伺った。分かっていますよ、と柳瀬川が頭を軽く下げている。その目の前に、スーツ姿のがっちりした体躯の男が腕を組んで立っていた。檜山だ。
とりあえず会話が終わって彼らが別れた後、俺は柳瀬川を尾行し、殺す。これが一番良いだろう。そう考えていた俺だったが、次の檜山の言葉で心臓がどくんと脈打つことになった。
「さて、柳瀬川さんにここで会ったついでに聞きたいことがあるんですがねえ。あんた、鷺沼って男を知っていますかい?」
俺は耳を疑った。鷺沼、俺の名前か。俺の名前だ。耳をこれまで以上にエレベーターホールの方向へそばだてる。
「え、うーん。鷺沼…ですか。いやあ、そんな男は知らないですが。その方がどうかされたんですか?」
「柳瀬川さんと同様に、うちの金をお貸ししている方なんですがね。実は今、少し探しておりまして」
「はあ…」
「写真を渡しておくんで、もし見つけた場合連絡ください」
「わ、わかりました」
再度角に顔を隠し、俺は眉間に皺を寄せる。確信した。檜山は、俺を探しにここにやって来たのだ。何故だ。何故なんだ。先月の振込は期限内にきちんと行なった。今月の振込期限はもう少し時間があるので、現状とやかく言われる筋合いはない。そうなると。
(本当に俺が小林を殺したことに気付き、追ってきたのか?)
そんな馬鹿な、バレるにしても早過ぎやしないだろうか。
その時、エレベーターのチャイム音と、微かに扉の開閉の音が聞こえた。見つからないように、もう一度ゆっくりとホールへ目を向ける。その場所には誰もいなくなっていた。檜山も、そして柳瀬川も。どうやら、二人共、別の階にエレベーターで向かったようだ。
目的の柳瀬川がまた離れてしまったのは残念だが、檜山も一緒にこの場から去ったことに安堵した。理由は分からないが、奴は俺に用がある。そのためにここにいる。悲しくも、少し前に考えた俺の推測は外れたことになる。
そうであっても、檜山の用に付き合う道理はない。俺には、奴に用事はない。
一度その場で深呼吸をする。それにしても困ったことになった。柳瀬川を殺そうにも、檜山が近くにいては殺すことができない。しかし俺は柳瀬川を殺さなければならない。
仕方がない。二人を見つけ次第また尾行し、実行する機会を伺っていくしかないだろう。また、檜山も柳瀬川と終始一緒にいるわけじゃないはず。柳瀬川は勤務中だし、檜山も柳瀬川に用はない。必ず途中で別れる時が来る。それまで少しの間の辛抱だ。とにかく、今は奴らを再度見つけることが先決である。俺は頷き、エレベーターホールへ足を進めた。…が、ホールの開けた空間に差し掛かった時。死角から出て来た何かにぶつかり、その場に派手に転倒した。
「おや、誰かと思えば」
上方から嗄れた、聞き慣れた声が聞こえた。次の瞬間俺は胸ぐらを掴まれ、強制的に立たせられる。
「うちのお得意様の鷺沼さんじゃないですかい。こんな所で会うなんて、奇遇ですねえ」
目の前には、柳瀬川と一緒に上の階に行ったと思っていた檜山が、下卑た笑みを浮かべていた。
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