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第六章 ————の場合
十三 ◯ ————【 1月10日 午後11時00分 】
しおりを挟む動きを止め、瑞季の後方…派出所の外に目を向ける。
「…根岸さんか」
そこには、俺の上司である根岸さんが立っていた。ふくよかな恰幅に背が小さいその姿は、警察官の格好をしていなければ、どこにもいる四十代半ばのサラリーマン、年相応の中年男性である。しかしその瞳はやはり、長年この仕事をしてきた者の、まるで獲物を見つけた肉食動物のような、鋭いものであった。
その眼光炯々な眼差し、そして彼の手に握られた拳銃の銃口は、現在両者共に俺に向けられている。
「金井、お前…何ということを」
瑞季と同様、信じられないといったような口ぶりだ。それもそのはず、彼にとって俺は、少し前まで一緒にこの西街の平和のために働く仲間だったのだ。そんな人間が、血塗れの包丁を持ち、目の前の女を刺そうとしている。混乱するのは当然だろう。
しかし、根岸さんが驚いているのはそれだけでは無かったようだ。
「お前、ここ数日何かおかしいとは思ったが。そんな、誰を殺す、殺させるなんて…そんな恐ろしい計画をしていたなんて」
視線を彼から瑞季に移した。彼女は涙を浮かべながら、両手で口を抑えている。
「私、私ね。ロッカーのパスワードから、達ちゃんが何か考えているんじゃないかって思って。昨夜、根岸さんに相談したの」
再び視線を根岸さんに移す。彼は深く頷く。
そうか。四年前、俺と根岸さんの二人で瑞季と高崎を逮捕したことから、瑞季は根岸さんとも顔見知りである。したがって、彼に相談したとしても不思議では無いだろう。
「最初は信じることができなかったけどな。ただ、瑞季ちゃんの表情が真剣でな。そんで、とりあえずそのロッカーに入っていたっていうペットボトルを受け取った。これだ」
根岸さんは大きく盛り上がったポケットに無理やり突っ込んでいた空のペットボトルを取り出し、その場で何度か振る。
「本庁の鑑識に知り合いがいるんだ。今日仕事の合間にこっそり調べてもらったんだよ、中身を。…するとどうだ。中から有毒アルカロイド系の、俗に言うトリカブトの毒物が検出されたじゃねえか。本当にびっくりしたよ。瑞季ちゃんの言うことが、あながち否定できないってことが分かった訳だ」
「…」
根岸さんの言うとおりであった。俺はあのペットボトルに、トリカブトの花をすり潰し、入れていたのである。
トリカブトについては、西街にある園芸店で購入した。根から葉、花の全てに猛毒を持つ植物であり、よく娯楽物の推理小説・漫画では凶器の一つとして使われるものである。
しかし、何もこれが人を殺すためだけにある植物という訳では無い。紫色の綺麗な花を咲かせるそれは、観賞用としては他の花と何も変わらないため、場所によっては園芸店で他の花と同様に売っている。西街の園芸店はそれを扱う店のうちの一つであった。物珍しい種の植物なども多種多様に扱っており、トリカブトもその中にあった。
俺の算段としては、そのトリカブト入りペットボトルを、瑞季を使ってアンナに渡し、彼女を殺すつもりだったのだ。アンナとは直接的な関わりは無かったにせよ、この計画に少しでも関わりのあった人間について、死んでもらった方が得策だったのである。
ちなみにミルクティーを選んだのは、柳瀬川より、彼女が好きな飲料と聞いていたからだ。
そうか…今、根岸さんがペットボトルを持っているということは、アンナを殺すことができなかったという訳だ。しかもそれが原因でこう、彼らに尻尾を掴まれたことを考えると、完全に蛇足であったことは否めない。
「でもな。そうはいっても金井、お前がこれを瑞季ちゃんに運ばせようとしたかどうか。その時はその子の証言しか、証拠は無かったんだ」
根岸さんは、俺の前方にいる瑞季を顎で指し示す。
「お前に尋ねても良かったんだが、本当のことだったとしても、それを『本当だ』と馬鹿正直に言うような奴じゃあ無いだろ、お前は。だから、論より証拠ってやつだ。お前がボロを出すよう、瑞季ちゃんに協力してもらったと言う訳だよ。少し、彼女には危ない真似をさせてしまったがな」
「…」
何も言えない。必死に否定したいところではあるが、既に瑞季を包丁で刺そうとした瞬間は見られているわけだ。今更、弁明しようにも意味は無い。
「金井」
根岸さんは溜息をつく。
「一緒に働き出して、もう四年以上になるよな」
「…ええ」
「俺な、お前のその誠実な態度、本当にかっていたんだよ」
「…」
「パトロール中の対応も懇切丁寧で適切、街の安全と平和を守るために、しっかりと職務に励んでいる。今じゃあ、西街を守るお巡りさんと言ったらお前だよ、金井。それだけに」そう言って、根岸さんは唸り、鼻水を啜った。「…本当に、本当に残念だ。お前にまさか、銃口を向けなければならない時が来るなんて。お前が!こんな犯罪をするなんて!」
「…」
「金井、俺たちはな。この街の…」
熱く語ろうとする彼の言葉を遮り、俺は足で、大きな音を立てるよう思い切り踏み込んだ。
「この街の正義の象徴として、どんなときにも、どんなことがあっても、職務に徹する。それが警察官という職に就く者の務めだ…ですか。根岸さん、何年か前に俺がこの派出所に配属された時から、言っていますよね」
「…ああ」
「でも、根岸さん。俺は…俺はどうしても、我慢ができなかったんです」
「なんだと…」
そこで俺は、目の前の瑞希を指さした。
「彼女が好きだった。ここまで、そう思える相手は、これまで出会ったことが無かった。交際のOKをもらった時は、まさに運命の出会いだったって。そう思ったくらいです」
「達ちゃん…」
そう、俺の渾名を呟いた彼女を睨みつけた。そしてすぐに、根岸さんへ視線を移す。
「でも、結局は裏切られた。柳瀬川から話を聞いた時の、俺の気持ちが分かりますか?…いや、分かるわけがない。あなたには分かるはずが無い。俺は、これまでずっと彼女のために尽くしてきました。それが、結局のところ何とも思われていなかったんです。こんな惨めな男の気持ちなど、あなたに分かるわけがない!」
目の前にいる二人は、どちらも無言のままである。かまうものか、俺は続ける。
「俺だって、本当はこんなことはしたくなかったんだ。こんなことをしてまで…」
「それなら!」
しかし突然、沈黙していた根岸さんが声を荒げた。
「どうして最初、彼女の話を聞かなかったんだ!」「え…」
「お前は彼女のせい、と思っているんだろうが。まずはその話が本当かどうか、彼女に聞くべきだったんじゃ無いのか。たとえそれが本当のことだったとしても、それをしただけの訳について、さらに深く聞くべきだったんだ。彼女のことを本当に好いているのであれば、真っ向から彼女のことを悪と判断することは、無かったはずだ!」
根岸さんの放ったその言葉は、俺の心にぐさりと突き刺さった。
「お、俺は…」
反論しようとしたその時。目の前の瑞季の顔を見て、俺は言葉を失った。
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