19 / 68
第三章 隠し部屋
六
しおりを挟む芳川貴明。芳川薬品代表取締役の名前。そんな相手宛の、藍田製薬の元代表取締役の妻の手紙。芳美は封筒に記された文字から、目が離せなかった。
消印は五年前。長方形の白封筒には、一辺に綺麗な切り口がある。中には、三枚折にされた一枚の紙が入っていた。取り出し、ゆっくりと紙を開いていく。
貴明 様
先月はありがとうございました。貴方様のおかげで、夫とは永らく味わえていない、最高の時間を過ごすことができました。数日しか経っていないというのに、また会いたい気持ちで胸が一杯です。
もしよろしければ、またお会いできますでしょうか。
ご連絡、心待ちにしています。 雛子
不倫。芳美の頭に、不埒な行為を示すその言葉が浮かんだ。
否定しようとも考えたが、数秒後には「あり得なくもない」。それが芳美の感想だった。
藍田雛子。勝治の妻のことだが、彼ら夫婦には年齢差があった。現在六十三と四十。もちろん、後者が雛子である。
雛子は、女としての魅力が存分にあった。
勝治と結婚したのは十年前。当時、雛子はグラビア系雑誌のモデルをしていた。二十代の時の売れっ子だったという彼女は、程よく女性らしい体つきと色気を兼ね揃えていた。今の中年連中は…特に男は、誰もが彼女のことを知っているに違いない。
そんな雛子は、二十九の時に所属事務所からある仕事を任された。それが、藍田製薬製の市販薬の宣伝であり、そこで彼女は勝治と会った。
——夫婦二人、力を合わせて仲良くやっていきたい。
その数ヶ月後。二人の婚約発表が、週刊誌の一面を飾った。週刊誌のタイトル横には、そういった好感の持てる文章が、でかでかと丸ゴシック体で飾られた。
二人とも、仲睦まじい笑顔。内容も、それらに合わせたもの。それだけ、いわば極端に公表されるには理由があった。
二十歳以上の歳の差婚、その上大企業の社長とモデルが結婚なんて、世の誰もが諸手を挙げて祝福する話では無かった。夫婦…特に妻の雛子は藍田製薬の財産目当て、と中傷された。インターネットで、テレビで、時には番組や雑誌の収録の場さえも。
結婚して三年経つ頃には、彼女は仕事を辞めていた。夫の勝治をサポートするため。名目上の理由はあったが、実際は風評に耐えきれなくなったのが本音だろう。
それから雛子はこの家で、暇を持て余すことになった。清河や芳美、当時は他にも数人の使用人がいる中で、彼女が家事労働をする必要は無い。勝治も当時は仕事で遅くなることが多かったし、真琴は二人の再婚当時、ここにはいなかった。
広い屋敷に、自分と立場が違う使用人達。外部との関係が切り離された孤独の空間にいることは、ひとえに彼女自身の選択によるものだ。同情することでも無かったが、一体彼女にとって何の意味があったのか。芳美はぼんやりと、思う時があった。
しかし…芳美は手に持つ手紙と封筒に改めて目を落とす。こんなものを見てしまうと、その結婚の意味というのも、色々と邪推してしまう。
雛子は五年程前から、ふらっと出かけるようになっているのだ。
「夫人会よ、フジンカイ。子会社の社長の奥さん方とね。定期的に関係は作っとかないといけないのよ」
彼女が清河に告げたという、外出の理由。その会合がどこで行われ、どの会社の社長の妻達なのか。細かいことは分からない。しかしあれは虚言で、貴明と夜な夜な会っていたのではないか。
貴明は先代から二十五の時に会社を継ぎ、今は五十一だったか。若い、経験が浅い等の意見が多くあった中、それらの意見を退け、会社を安定させ、藍田製薬と肩を並べる程度まで繁栄させた実績がある。おまけに五十路を超えたとは思えない精悍な顔つきに、無駄な肉の無い体型。対して勝治は、六十を過ぎた頃から、若年生のアルツハイマーなのか、おかしくなり始めており、体も痩せ細ってきていた。
また、貴明は男として魅力があった。故に雛子が彼と逢瀬を重ねていても、おかしくは無かった。おかしくは無かったのだが——。
芳美はさらに思慮を巡らす。雛子側の理由は分かったが、仮にそうであれば、貴明はなんの思惑があって、彼女と会うのだろうか。彼にとって雛子は、職場の同僚、上司と部下などといった単純な関係ではない。もしもこの事実が勝治に漏れようものなら、業務提携自体白紙に戻る…いや、使用人の芳美には分からない、それ以上のリスクがあるのかもしれない。それだけの危険を承知の上で、雛子と会う理由は。
——藍田製薬の弱体化。頭に、その言葉が浮かんだ。
三年前に真琴と志織が結婚した頃から、平日・休日問わず、藍田家以外の人間と、この家で顔を合わせる機会が増えた。その大半が、業務提携先の芳川薬品の重役、幹部候補。彼らは露骨に、横柄な態度で芳美達に接してくる。まるで、藍田家のものは芳川家のものでもあるかのように。
侵略者。芳美は彼らのことを、陰でそう呼んでいた。三年前の業務提携は、表向きには両社ともに友好的なものだった。しかしもともとは競い合う間柄である。本音では、藍田製薬を弱体化させ、最終的には買収なりで吸収。それが貴明の目的だったとしたら。その外堀を埋めるために、妻の雛子にとりいったのだとしたら。
「まさか、ね」
友人に言えば、馬鹿ねと一笑されそうな、陳腐な考えである。しかし、普段より妄想していただけあって、芳美は一人興奮していた。
故に、その雛子の手紙を、封筒ごとそのまま己のポケットに忍ばせてしまったことは、その時の彼女の思いからすれば至極当然の行為であった。
この行為は、この家の使用人として…人としても当然失格だった。しかし彼女の中ではこの時、仕事上での倫理観よりも、自らの好奇心が先立ってしまったのである。
そのように、うつつを抜かしていた芳美だったが、少し前より志織の部屋の扉の隙間から、彼女の様子を伺っている人影がいた。
人影は芳美に悟られぬよう、静かに志織の部屋を後にする。足音が鳴らぬように、それでいて機敏に、歩を進める。そうして目的の部屋に到着すると、ゆっくりと扉を開け、静かに中へと入っていった。
0
あなたにおすすめの小説
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
タダで済むと思うな
美凪ましろ
ライト文芸
フルタイムで働きながらワンオペで子育てをし、夫のケアもしていた井口虹子は、結婚十六年目のある夜、限界を迎える。
――よし、決めた。
我慢するのは止めだ止め。
家族のために粉骨砕身頑張っていた自分。これからは自分のために生きる!
そう決めた虹子が企てた夫への復讐とは。
■十八歳以下の男女の性行為があります。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる