25 / 68
第四章 書斎
四
しおりを挟む薬品の臭いで、私は目覚めた。
体が重たく、動くことができない。瞼を開けると視界一面が真っ赤で、瞬きしてもそれは変わらない。頭全体の感覚から、自分の顔全体に、何かが巻かれているようである。
これは包帯?怪我をしているのだろうか。もう一度、体を動かそうとも、固着されているかのよう。全身にずきりと、深い痛みも走る。
どうやら、私は身体を動かせない程の大怪我らしい。しかしそうなるまでの記憶が曖昧である。
——死ね。
突如聞こえた声。誰の声だっただろう。私に向けられた、怨みの感情がこもった言葉。今の言葉は、かつて、私に対して放たれたものだった。
突然身体が無重力空間にいるように、宙にふわりと浮いた。
いや、浮いたわけではない、落ちているのだ。
赤い世界の中を、そのまま落ちていく。
落ちていく、落ちていく。
次第に焦りが出てきた。いつまで、落ちていくのか。止まらない。速度はぐんぐん増すばかり。空気抵抗で、臓器、肉、皮膚、全てが剥がれていくような感覚にとらわれた。
これだけ勢いづいたら、落ちた時に助かるのだろうか。いや、助かるわけが無い。もうあと、一秒もしないうちに、コンクリートの地面で無様に潰れておしまい。…ん?向かう先にあるのは、土ではなくて、コンクリートだったのだろうか。うろ覚えだが、多分そうだった。はっきり分かることは、奇跡が起きない限り、私の人生はこれで終わりだった。
——大丈夫?
柔らかい声が、耳の奥で反響した。瞬間、赤い世界は霞と消え、視界には汚れひとつない天井が広がった。
顔を少しだけ横に傾けると、私を見下ろす彼がいた。心配そうに眉を寄せている。
「ん、大丈夫。ありがとう」
上半身だけ起き上がり、私は彼を見た。彼もまた、眉をハの字にして私を見る。
「また、いつもの夢?」
「うん」
「…そっか」
夢。そう、夢だ。今のは、夢の中のこと。現実の私はこうして生きている。体もこのとおり。手も回せるし、歩くこともできる程には元気である。
しかし今のは、悪夢そのものだった。全身から汗が滲んでいる。皮膚にしっとりと張り付く寝衣に、若干の気持ち悪さを感じた。
この悪夢を、私はこれまでに何度も見ていた。そのたびにこうして、うなされては目が覚める。勘弁してほしかった。頭の奥の、根付いた思い出したくない過去を、演奏みたくリフレインする必要が、どこにある。俗にトラウマと呼ばれる記憶。それに、私は日々犯されていた。
彼を見た。口を一文字に結び、視線は伏せている。彼にも…心配をかけてしまう。申し訳ない、不甲斐ないと思いつつ、彼らの優しさに甘える自分を腹立たしく思った。
「ごめんね」
「君のせいじゃない」
彼はかぶりを振る。私は唇を噛む。
「あれは夢、あれは夢って。起きている時にそう頭にたたき込んだつもりでも、寝た後は当然のように頭に浮かぶの。どうなってるんだろうね、私の頭の中は。何だか自分のものじゃないみたい」
溜息と共に弱音を漏らすと、彼は私の肩に手を置いた。
「君はそれだけの目に遭ったんだ、仕方ないさ」
励ましの言葉に続いて、彼は「でも」と私の目を見た。
「あと少しの辛抱。そうだろ」
私も彼を見返す。そうしてから、強く肯く。
あと少し。その「あと少し」で、自分はこの悪夢から解き放されるのだ。私は信じていた。私達は信じていた。信じるしかなかった。
そのために、私は私であることを捨てる。私という存在を、改めて勝ち取るためにも。
0
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】結婚式の隣の席
山田森湖
恋愛
親友の結婚式、隣の席に座ったのは——かつて同じ人を想っていた男性だった。
ふとした共感から始まった、ふたりの一夜とその先の関係。
「幸せになってやろう」
過去の想いを超えて、新たな恋に踏み出すラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる