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第五章 リビング
五
しおりを挟むガールズバー「sweet poison」。その店は、S区繁華街の一角にあり、尚哉の行きつけの店でもあった。
藍田家を訪問したその日、午後十時過ぎに署を出ることができた尚哉は、自然と店に足を運んでいた。今日は午前0時から、芳美の張り込みである。それまでの、ちょっとした息抜き。頭に残る陰鬱とした気分を落ち着かせようと、足を運んでいた。
今日はいわゆる「お気に」の子がいる日だった。ユサ。名前はもちろん源氏名だろう。見た目の年齢は若々しく美人だが、実年齢は三十前後というところか。ショートボブに揃えた、パーマのかかった茶の髪。すらりとした、触れたら壊れてしまいそうな程、色白で華奢な体。彼女は半年前に採用されたばかりの新顔である。以来、尚哉は彼女に会うために足繁く通っているものだった。
「今日も来てくれないのかと思っちゃった」
彼女はグロスで色っぽく照らついた唇を震わせ、小悪魔のような笑みを浮かべた。艶のある表情。甘ったるい雰囲気に、酔いそうになる。店名よろしく、尚哉は毒に犯されていた。しかし、悪い気はしない。
「俺も。来れるとは思ってなかった」
「今、忙しいんだね」
「ああ。事件事件で、てんてこまいさ。これから、朝方まで仕事だし」
「え、大丈夫?でも、刑事さんだもん。そうだよね」
「まあ、うん」
「大変なのに、ユサに会いに来てくれてありがと」
ちらりと周囲に視線を動かした。この時間には珍しく、今は誰もいなかった。いつもは数人の客の姿があるのだが。タイミングの良い時に来れたようだ。
薄暗く、ジャズが流れる洒落た空間に、自分と彼女の二人だけ。ロマンチックな恋人同士のデートのように思えて、尚哉は年甲斐もなく、ちょっぴり気恥ずかしくなった。
「でも事件って。何かあったの?」
「ん、ああ。この前ちょっと話したやつの続き」
守秘義務がある以上事細かにとまでとはいかないが、彼女に良い顔をしたくて、前に来店した際に、当たり障りの無い程度に話をしていた。
「殺人事件だっけ」
「そうそう。まだ捕まらないどころか、また被害者が出ちゃって」
尚哉が頷くと、「えー」と彼女は両掌を合わせて眉をハの字にして困り顔を作る。
「刑事さん達が目を光らせている中で、ってことよね。犯人、どんな神経しているのよ」
「普通、そう思うよなあ」
奴はその、普通の範疇を超えている。警察が見張っていても、やり遂げられるという自負があるのか。腹立たしくもあれば、それをそのまま行動に移す顔剥ぎに、寒気を覚えた。
尚哉は胸ポケットから煙草を取り出す。すかさずユサが、簡易ライターで火を貸した。煙草の先端に火が灯る。ゆらりと煙が宙を漂う。
「ユサちゃんも気を付けろよ。周りにどんな奴がいるか、分かったもんじゃない」
「ふふっ。現職の刑事さんがそんなふうに言うなんて、何だかリアルね。でも、大丈夫。こんなでも危機意識はしっかり持ってるんだから」
口の端に笑みを浮かべるユサ。気が緩んだ尚哉は、目の前に置かれた二つの細長いグラスに視線を移した。尚哉とユサの、二つ分。淡い照明で妖美な輝きを放つそれらの中には、青系の色味で上から下へとグラデーションができていた。ノンアルコールのカクテルだ。深夜時間帯の張り込みのことを考えると、アルコールの摂取は控えるべきだった。
乾杯、そして一口。ライムベースにブルーハワイシロップと炭酸を注いだものらしい。爽やかな甘味が故にさっぱりとした口当たりで、煙草とよく合う。
「今日は三セットなんだよね」
尚哉は肯き、腕時計を見た。この店は一セット三十分計算だ。橋本との交代は午前0時前後だから、遅くとも午後十一時半過ぎにまでに到着していれば良いと思っていた。
あーあ、とユサは明後日の方向に顔を向けた。
「もっと刑事さんと話していたいのになあ」
「許してくれ。仕事なんだよ」
「久しぶりだったのに」
「文句はどこぞの顔剥ぎ野郎に言ってくれ」
頬を膨らますユサのあどけない仕草に、思わず笑みがこぼれる。他愛もない会話。しかし尚哉にとっては、この何でもない瞬間が好きで、一番の息抜きだった。
そんな幸せな時間を邪魔するように、胸ポケットのスマートフォンが震え出した。
着信。こんな遅くに誰だ。尚哉はスマートフォンを取り出し、画面を見て驚いた。「塩原芳美」と表示されている。ここのところ毎日張り込みをしている、あの芳美からだった。
「誰?」
「すまん、ちょっと…」
仕事?と聞いてくるユサに謝りを入れ、トイレに向かう。その間もスマートフォンは震え続ける。個室に入るやいなや、通話ボタンをタッチした。
「もしもし?」
——け、刑事さんですか。
ぼそぼそとした小声。病室から電話をかけてきているのだろうか。
——あの、急にごめんなさい。電話しちゃって。
「それは良いんですが。どうされました、こんな夜中に」
——えっと。もしかすると、もう、知っているかもしれないですけど。お伝えしたいことがあって。刑事さん達が調べていた事件と関係するかどうか、分かんないんですけど。でも、刑事さんに話しておいた方が良いかと思って。
芳美は落ち着かない口調だった。近くにいたら、あたふたとした彼女の姿が思い浮かぶ。
「お伝えしたいこととは?」
——その前にその、刑事さんって芳川薬品に関係のある方でしたよね。
「ええ。まあ、叔父の会社なんで、無いに等しいですが。それに私、落ちこぼれですし」
尚哉の自虐は拾われることなく、芳美は次のとおり述べた。
——あの。社長の芳川貴明さんが不倫しているって話、聞いたことあります?
「不倫?」
あの貴明が?
「失礼ですが、なんの話でしょう」
——とぼけている訳じゃないですよね。
「本当に何のことかわからないのですが」
それから数秒の沈黙があったが、意を決したように、芳美は続きを話した。
——あの。先日家を掃除していたら、若奥様…志織様の部屋で見つけまして。
「何を?」
——勝治様の奥様、雛子様から芳川貴明さんへの手紙を。ラブレターのようでした。
「雛子さんから?ラブレター?叔父に、ですか?」オウム返しのように尋ねる尚哉に、芳美は神妙な声色で肯定した。
あり得ないと思った。貴明の人柄というか、彼がどういう人間か、尚哉は知っているつもりだった。なんたって、ある意味目標としていた人物だから。己の中で、高尚な人間と決め付けた人物なのだから。
確かに彼は昔、妻を病気で亡くしており、孤独の身である。ただ、彼と接点があった当時、彼の色恋の噂を聞いたことは無かった。周囲から密かに、仕事や会社と再婚したのだろうと揶揄されていたくらいである。他人の妻と逢瀬を楽しむなど…やはり、考えようが無かった。
「勘違い、では?」
しかし、電話先で芳美は否定する。
——私見ました、はっきりと。消印は、五年前の八月だったかと思います。
その後芳美は、封筒に記述されていたという宛先の住所を、朧げながらも述べていく。尚哉はその住所のことが、確かに聞き覚えがあった。
「五年前ですか」
その頃はというと、自分は交番勤務だった頃のことだが、同時に思い出すことがあった。
「芳川薬品と藍田製薬の業務提携の話がメディアに挙がってきたの、その頃でしたよね」
その発端は貴明からだったことも、尚人から聞いた記憶があった。
ここ数年、市場トップ企業である藍田製薬の業績は悪化の一途を辿っていた。理由は、藍田勝治の体調が優れないこともそうだが、四年前からは代替わりが原因で、間違いなかった。
藍田真琴は、経営者としては未熟だった。それもそうだ。調べによれば、彼は会社を継ぐ以前は、遠方の零細企業で働いていた。突然に子会社どころかグループ全体を回すだけの立場に立つなど、容易ではない。
貴明はこの機を逃すまいと考えた。まずは取締役の妻を娶り、業務提携の外堀を埋めていく。その後、ホワイトナイトさながらに、提携の話を藍田製薬に持ちかける。提携後は機を見て、友好的買収へと促していくという訳である。
まるで、ギリシア神話のトロイの木馬である。内側に入り込み、瞬く間に浸食する。侵略者の考えそのものではないか。
芳美も同じ考えを持っていたようだ。そうかもしれません、と更に小声で肯定した。
——三年前に真琴様が志織様と結婚してから、芳川家の方々がうちにいらっしゃることが多くなりました。彼ら、それはもう、我が物顔で屋敷内を闊歩するんです。…あ。
芳美は言葉を切った。息を詰まらせ、申し訳なさそうな口ぶりで続ける。
——すみません。刑事さん、芳川さんでした。
「構わないですよ。はは」
適当に笑って流すも、心を落ち着かせることはできなかった。つい先程までは有り得ないと思っていた、貴明の不貞の事実。それが会社のために行ったことと考えたら、あながち無くも無い話にも思えた。
「…ただ、折角興味深いお話をいただきましたけど。事件とは関係がなさそうですね」
それと顔剥ぎの、二つが繋がるとは思えないが故の台詞だったが、芳美はまたも、今度は強めにそれを否定してみせた。
——それが、その。関係あるかもしれないんです。
「え?」
——この前、見せていただいた被害者の方々の写真。ありましたよね?
「え、ええ」
——私、どこか見覚えがあって。誰だったかなって、ずっと考えていました。
「あ。もしかして、一人目の佐伯さんのことでしょうか。彼は前に藍田さん宅の庭師として雇われていたらしいですから」
——佐伯さんはもちろん覚えていましたけど。私がそう思ったのは、二人目の、女性の方なんです。
「棚橋さん、ですか」
——ええ。多分ですけど、お母様だったんじゃなかったかと。
「お母様?どなたの?」
——冬子様です。真琴様の前妻の方で、三年半前に亡くなった。
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