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第五章 リビング
八
しおりを挟む芳美との電話の後で、尚哉はメールウィンドウを開いた。野本に今の話を共有するためである。
指を動かし本文を綴りつつも、尚哉の頭の中では、芳美との会話の内容が反芻していた。
まさか、棚橋綾子が藍田冬子の実母だとは。どうして、棚橋綾子の血縁として調書に記載が無かったのだろうか。本部の調べの甘過ぎる点に、尚哉は舌打ちする。
佐伯三郎は藍田家の庭師。棚橋綾子は真琴の前妻の母親。塩原芳美は藍田家の使用人。皆、あの家に関わりのある者達。ここまできたら、顔剥ぎは藍田家に何かしら因縁がある人物としか思えない。
それは誰か。尚哉の頭に浮かぶのは、芳美を突き落とした者。柏宮の家にあったホワイトボード。芳美の名の下の「済」の文字。
「藍田瑛子か」思わず、その名前を呟いていた。前妻の冬子と真琴との娘。芳美から話を聞いた限り、瑛子以外に彼女を突き落とせそうな者はいなかった。
しかしそうだとしたら、何故瑛子は芳美を突き落としたりなどしたのだろう。彼女が顔剥ぎとは思えなかった。齢八歳の少女が、大の大人三人を殺害するなんて、現実的にできるとは思えない。
ただ…可能性は0ではない。あながち幼いからと決めつけるのは早計か。もう少し、調べ直す必要がある。藍田冬子について。藍田瑛子について。藍田製薬について。
メールを送り終え、腕時計を見る。午後十一時を過ぎている。予定滞在時間の三分の二を使ってしまった。溜息をつきつつも、尚哉は自分が座っていた席に戻った。
いつの間にか、尚哉の他にも客が来ていたようだった。カウンターには自分の他に二人程座り、ユサとは別の女の子と談笑している。
ユサは一人、軽食の下準備をしていた。尚哉が座っていた席の前、位置的には変わらない。自分を待っていてくれたのかもしれないと勝手な妄想をしつつ、少し気恥ずかしくなった。
「悪い、待たせた」
「遅いよお、お仕事の電話?」ユサは準備の手を止め、尚哉に向き直る。
「まあ、そんな感じだよ」
「また何か起きたの?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃないんだけど」
「けど?」
「細かくは話せないな。ただ、ようやく事件の糸口が見えてきた気がするな」
「事件の糸口?ねね、どんなどんな?」
興味津々な彼女を、まあまあと片手で制する。
「これ以上は話せないって。…すまないけどさ、あと一杯作ってもらえないかな」
不貞腐れるも、ユサはカウンター下にある冷蔵庫を開ける。とにかく色々あろうが、橋本と交換するまでの間、彼女との時間は楽しみたかった。もう、あと三十分も無いのだが。
そう思っていたが、結論からいえば、尚哉は彼女との歓談を楽しむことはできなかった。再び彼のスマートフォンが鳴り出したのだ。
ディスプレイには「橋本」とある。少々苛つきつつも、尚哉は通話ボタンを押した。
「…もしもし」
——先輩、先輩。
橋本はどこか、呼気が荒かった。
「どうしたんだ。交代には時間があるだろ」
ただ事では無い雰囲気をわずかに感じるも、尚哉は努めて冷静に返した。橋本は焦った様子で、早口で次のように述べた。
——今、塩原芳美の病室を外から見ていたんですが、何かおかしいんです。
「おかしい?」
——はい。少し前に、電気がついて。窓が開いたんです。そこで人影が…遠目でよく見えなかったんですけど、塩原芳美じゃなかった気がして。
「塩原、芳美じゃない?」
この夜更けに、芳美では無い何者かが、彼女の病室にいる?
「それ、看護師だろ」
一瞬不審に思えたが、芳美が携帯を切る間際に話していたことを思い出しつつ答えると、橋本は悩ましい声を上げた。
——でも、十月といっても、今日は少し蒸し暑いじゃないですか。窓を開けますでしょうか。虫が入るし、エアコンがあるでしょうし。それを看護師がやりますかね。
「まあ、それはそうだけど」
不審に思うにはこじつけにも思えるその考えに、若干呆れていたが、次の橋本の台詞に、尚哉は思わず目を丸くさせた。
——今から、彼女の病室に行ってきます。
「は?」
——何か起きていたら、取り返しがつかないですし。
「ちょ、ちょっと待て!」
店内ということも忘れ、尚哉は叫んでしまっていた。しかし既に通話が切れていることに気が付き、舌打ちをする。
「だ、大丈夫?」ユサが心配そうに尚哉の表情を伺う。
「あ、ああ」
息を整える。橋本が見た、芳美の病室の人影。恐らく彼の杞憂に違いないが、彼の勝手な行動を許す訳にはいかなかった。何も起きていなければそれで良いが、その場合自分が上に叱責される可能性もある。
尚哉はユサと向き合う。彼女は朗らかに笑みを浮かべ、首を傾げる。ちくりと針で刺されたみたく、心が痛む。今日だけはゆっくりしたかった。人生うまくいかないものである。
「すまない、出ないといけなくなった」
心の中で橋本に悪態をつきつつ、彼女にそう告げる。予想どおり、彼女は悲しそうな表情を尚哉に向けた。
「今の電話も、仕事なの?」
「ああ。ちょっと」
「そっか。まあ、仕方ないよね」ユサは儚げに頷く。
「埋め合わせは、次するからさ」
「ふぅん。それなら今度はもっと、ゆっくりしていってくれる?」
「もちろん。サービスもするよ」
「わあ、やった。尚哉さん、大好き」
営業トークということは分かっているが、実際にねだられると弱い尚哉だった。
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