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第五章 リビング
七
しおりを挟む——とりあえず、今お話しいただいたことをもとに、捜査に当たります。また伺わなければならないこともあるでしょうし、すみませんが、その時はお願いします。
冬子の件について、芳美がちょうど話し終えたところだ。尚哉の口ぶりから、彼との会話はここで終わるのだろうと、芳美自身も思った。
…だが。このまま、電話を終えてしまって良いのだろうか。
一番に話したかったことは、ひとまず言い終えた気がした。ただ、その時の芳美の頭の中は、もやもやと霞みがかっているように思えた。そう感じた。
「ま、待ってっ」
自然と声が出た。思わず、引き止めてしまった。
まだだ。話したいことがある。芳美は彼にそう告げた。そう、そうだ。「あのこと」を相談しなければ。芳美は肯くと同時に、自身の視界が少しだけ明瞭になったように思えた。
——今のお話と何か関連することで?
「あ…いや。実は別件になるんですけど」
——なるほど。なんでしょう。
尚哉の声のトーンが、あからさまに下がった。芳美は申し訳なさに心が痛むが、そうはいっても今ここで、警察官である彼に言う必要がある。
「この前他の刑事さん達お二人もいらした時のことですが。謝らなきゃいけなくて」
——謝る?
「…私、実は嘘をついていました」
嘘。一言で言えばそうだった。
「私の怪我、先日は足を踏み外して階段から落ちた…そう、話した気がするんです。でも、本当は違くて。本当は、その。突き落とされたんです」
——突き落とされた?
事故ではなく事件の可能性があるのであれば、話が違ってくるのだろうか。尚哉は半ば食い気味に、芳美に尋ねる。
——どうして先日、そう仰ってくれなかったんです。どうして嘘なんか。
責められているようで、芳美は心臓が締め付けられるも、意を決してその理由を述べた。
「お、脅されていたんです」
——脅されて?いったい誰に?
「…それが、分からなくて」
——分からない?
「え、ええ」
芳美は声を震わせつつ、説明する。
尚哉達が初めて芳美を訪れた、その数日前。芳美の病室の入り口に、封筒が落ちていた。
封筒の中には一枚の紙。そこには、数日以内に彼女のもとへ刑事が来ることと、余計なことを話せば、彼女の命を脅かすといった文章が書かれていた。差出人、宛名も書かれておらず、何者かが彼女の病室に、直接それを置いたということになる。
——黙っておくしかなかった。そういうことですか。
「は、はい。病室は手紙を出してきた人がいるかもしれない、見られているかもしれないって思うと怖くて。…ごめんなさい、嘘をついて」
再度謝りを入れておく。しかし尚哉は既に、自分を突き落とした者の解読に頭を移しているようだった。
——ちなみにその、突き落とされたのは藍田家の御屋敷にある階段でしたっけ。それは本当のことですか。
「あ、は、はい」
——突き落とされた瞬間は覚えて、いないんですよね。あなたを突き落とした者の姿とか、見ていたりとかは?
そこで芳美は一瞬、答えるのに窮した。頭の中には、自分を突き落としたと思われる者の姿が、仄かに浮かんでいた。が、確証が無いこともあって、頭の中からかき消した。
「…すみません。突然後ろから押されて、振り向く間も無く落ちてしまったので」
——なるほど。それなら、その時家にいらしたのは誰になりますか。
「ええと。私を除くと、勝治様、瑛子お嬢様、使用人の遠藤君の三人だった気がします」
——その時の状況を話してもらえますか。
尚哉に言われて、芳美は自分が落ちた時のことを思い出しながら話した。志織の部屋で、雛子と貴明との不倫の手紙を見つけたこと。一階に戻るも、その後すぐに志織の部屋に戻ったこと。
——どうして志織さんの部屋に戻ったんです?
「あ、えっ、あの。それなんですけど。私、自分で言うのもなんですが、野次馬根性があるというのか。雛子様のお手紙を見つけて、無断で持っていっちゃって」
——ははあ、それはまた。
「一階で使用人の遠藤くんに、指摘されて。刑事さんから見ても、私のやったこと、泥棒ですよね。そう考えると、戻しに行った方が良いと思って。また二階に戻ったんです」
遠藤か。彼のことを考えると、ますます仕事に復帰したくなくなってきた。罪悪感もそうだが、彼と顔を合わせたくない。もし彼が清河にでもこの話をしていたら。むしろもう、私の居場所は無くなっているのかもしれない。
——でも遠藤さんは、あなたが志織さんの手紙を盗ったことをいつ知ったのでしょう。
「いつ?多分、いや、そうですね…」
——一階に彼はいたんですよね。あなたが盗みを働いたかどうかなんて、分からないんじゃ。
なるほど確かにと、芳美は改めて思った。遠藤はどうして、まるで私の行いを知っていたかのような態度がとれたのだろう。
その前に、志織の部屋を物色中の自分を目撃したのだろうか。しかし遠目で見れば机の上で何をしていたかなど、わかるわけがない。机の上に手紙が置かれている、それを知らない限り。
もしかして。彼は自分より先に志織の部屋へ入室し、物色した?彼の担当場所ではない。それであれば、つまり彼は、勝手に入ったことになる。
——私の中では今、あなたを突き落とした犯人像に一番近いのは、その遠藤さんなんですけど。
彼が?どうして?と思いつつも、尚哉は客観的に推察した結果を言っているに違いない。遠藤が、階段から突き落とすために、自分を二階へと誘導したのではないか。
芳美は少し考えるも、「あっ」と思いついたように声を上げる。
「遠藤君は無いと思います」
——それはまた、どうして。
「私、二階の志織様の部屋に手紙を戻したんですが、その瞬間を誰かにみられていたようなんです」
——それが、遠藤さんだと?
「え、ええ。恐らく」
ばたばたと、大きく慌ただしい足音。あれは遠藤のものだ。というよりも、あの状況では彼以外に、その足音の主の候補が浮かばなかった。
「その足音、そのまま一階に降りていったんです」
——それが本当なら、二階にいたあなたを突き落とすことは、できそうにないですね。
つまり、階段以外で一階から二階に行くことができでもしない限り、彼の仕業とは言えない訳である。
——うーん。それなら勝治さんはどうです?
芳美は「いいえ」とすぐに否定する。
「勝治様、お体が優れなくて。最近じゃ、杖が無いと歩けないくらいなんです。そんな方が、いくら私が女性といっても、人を突き落とすだけの力で押せるとは思えません」
——いつ頃からそんな様子で?
「そうですね。きざしがあったのは、かれこれ五年は前ぐらいでしょうか。それから徐々に…体もそうですが、頭も。あ、これ失礼ですね。まあでも、事実ですけど」
五年前。口に出しておいてなんだが、何か頭に引っかかるものがあった。
——勝治さんも違う。しかしそうなると。
尚哉は言葉を切った。彼の思惑を、芳美は汲み取った。
「やはり、そうなんでしょうか」
芳美は心なしか、己の声が震えていることを実感した。自分の中で、察していたのかもしれない。「彼女」が、自分を突き落としたのではないか、ということに。
しかしそこで、タイムアップだった。
コッ、コッ。遠くから足音が聞こえる。電話の向こうではなく、芳美が今いるこの病院の中、聞こえてきていた。看護師だろう。
「すみません。そろそろ…」
足音は次第に大きくなる。近づいてきている。夜間の巡回か。消灯時刻後に電話をしているなんて、見つかると面倒なことになりそうだ。
——分かりました。ただ今のお話、明日以降に続きをお聞かせ願いますか。
彼の頼みに了承し、芳美は急いで電話を切った。その後はベッドの上、布団を首までかけて目を閉じ、寝ているふりをする。
これで良い。安心からか、ふうと大きく息を吐いた。無意識のうちに全身力を入れていたようで、体を動かすたびに、ポキポキと小さな音が体内で響く。
それにしても、尚哉が話の分かる人間で良かった。彼女自身、ここまで話を真摯に聞いてもらえるなんて思っていなかった。
しかし。私を突き落としたのは、本当に彼女なのだろうか。信じがたいが、状況的に、そうとしか考えられなかった。
ただ仮にそうだとしても、疑念は残る。彼女がそれをする動機が見えないのだ。自分を突き落として、何の得になるというのだろう。芳美自身、彼女から殺したい程までに嫌われているとは思えなかった。
そこでふと、我にかえった。
足音が聞こえない。考え込んでいるうちに、病室を通り過ぎた?それともナースステーションに帰った?どちらにせよ、全く足音が聞こえないのは、何かおかしい。
芳美が違和感から薄目を開けた、次の瞬間である。突然に病室の電気が点灯した。眩しさに、芳美は目が眩む。
足音の主はこの病室にいた?その挙動に驚くも、これが看護師なら失礼な話だった。消灯時間も過ぎたというのに、患者がいるにもかかわらず、突然の点灯だなんて。
「あの、ちょっと…」
一言物申そうと、数秒後目が慣れてきた具合で芳美は入室者に目を向ける。
そこで彼女は、思わず目を見開いた。
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