侵入者 誰が彼らを殺したのか?

夜暇

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第六章 空き部屋

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 自分の人生を思い返すといつも、あいつの顔が一番に思い浮かぶ。

 芳川尚人は煙草を吸いながら、高級ホテルの一室で椅子に座っていた。一緒に入室した女とは今程、一回戦を終えた。彼女は、今はシャワーを浴びている。
 煙を口から吐き出すや否や、疲れを酔いで癒やすかのように、目の前にあるジョッキのビールを飲んだ。不味い。尚人は、ビールが苦手だった。しかし缶チューハイの安い酒よりも、手っ取り早く酔える気がするのだ。口に合わずとも、自然と手が伸びる。嫌いの裏返しとも言えなくはない。
 一人になると、尚人はいつも考えてしまう。
 あいつは今日も立派に生きている。対して俺は。俺は、なんだ。
 これまで歩んできた人生を否定したいとは、尚人自身思っていなかった。クラブで出会った行きずりの女との間に、息子ができたことも。そんな息子に、ろくでなしと蔑まれようとも。それならそれで構わないと考え、尚人は今までやってきた。
 ただ。
 楽観的に考えつつも、昔からあいつのことだけは。
 あいつのことだけは、尚人はどうしても割り切れなかった。
 弟の貴明は秀才だった。凡庸な尚人は、普段から彼に対し、劣等感を抱いていた。幼い頃から、何でもできる彼を褒める友人達が嫌いだった。他人から弟と比較され、己を卑下する日々が嫌いだった。弟を過剰に慈しむ、親が嫌いだった。その親に「お前はどうしようもない」と、貶される自分が嫌いだった。
 そして、胸に燻る劣等感の原因ともいえる、貴明のことは、何よりも大嫌いだった。
 しかし尚人の脳裏には、いつも貴明の姿が映っていた。彼の振る舞い、口ぶり。知らず知らずに真似していたことに気付いた時は、尚人は自らを叱責した。
 貴明のようになりたい。心の奥底で、弟に憧れる毎日。虚しい。終わりたい。こんな毎日が終わるなら、何が起きても良い。しかし、自ら死ぬのは嫌だった。死んでこの、終わることのない苦悩が終わるのは良い。ただ、それでは、遺った世界で、自分は「弟に負けた」一生で終えることになるのだ。それだけは嫌だった。
 毎日願い続けるのは、千里を超える程に長く感じたというのに、終わる時はあっさりとしたものだった。それは、突然のことだった。
 両親が死んだ。今からおおよそ、四十年近く前のこと。春の出来事である。
 事は夕方に起きた。尚人はその時、近くの河川敷で悪友達と煙草を吸っていた。故にそれを知ったのは、自宅にいた貴明よりも後になった。
 尚人らの自宅に、車が突っ込んだのだ。両親は庭の手入れをしていた。バンパーは、完全に彼らの腹を潰していた。即死だった。
 警察の話では、ハンドルミスからのアクセル、ブレーキペダルによる踏み違いだったという。運転手は二十四歳の三浪大学生の男だった。世間的にも有名になり始めていた、薬品会社の社長の息子だった。少し前に運転免許を取得し、練習をしていたそうだ。
 当時未成年だった尚人と貴明は、父方と母方の実家で、別々に預けられることになった。互いが互いに、同じ場所で暮らすことを拒んだ。尚人が思っていたように、貴明もまた、尚人のことを嫌っていたのかもしれない。それならそれで構わなかった。
 望んでいた「毎日」の終わり。清々するかと思いきや、尚人の心には、ぽっかりとした穴が空いた。これまで、それだけを願って生きてきた。皮肉にも、その負の願いは己の生きる原動力になっていたようだ。
 尚人はその後、波乱の人生を歩んだ。父方の実家に快く思われていなかったこともあり、高校卒業と共に家を出た。それからは、生活をするためになんでもやった。犯罪と思しきことにも手を出し、汚い金を得た。ただ、耐えられない程ではなかった。性に合っていたわけではない。自分を縛る両親、弟、父方の実家。彼らはもういない。自分は自由だ。そう思うだけで、日々を生きることができた。
 だが——。月日が経ち、尚人は再び、因縁の貴明と対面することになる。それは、息子の尚哉が産まれて数年後のことである。
「シャワー、浴びたわよ」
 物思いに耽っていたところで、女の声がした。尚人は顔を向ける。女は髪を真っ白なタオルで丁寧に拭きつつ、純白のバスローブを着ていた。
 美しい。思わず見惚れてしまう程に。化粧せずとも整った顔。年齢を感じさせない、艶美な肢体。今すぐにでも押し倒し、その体を貪りたい。先程したばかりだというのに、情欲が湧いてくる。
「なに?」女は首を傾げる。
「ああ、うん」
 尚人は、誤魔化すようにまたもやビールを飲む。舌が痺れるような炭酸とホップの香り。少しだけ、酔いが回ってきた。
「美しい」
「え?」
「君に、見惚れてた」
「ふふ。何その臭い台詞」
 尚人の言葉に苦笑しつつも、女は嫌そうでは無かった。むしろ嬉しそうに、ベッドに腰掛ける。ふんわりとしたマットレスに、女の尻が埋まる。
 尚人と女は、互いに見つめ合う。その後の展開は、両者の中で既に決まっていた。
「こっち、きて」
 女が手をのばし、尚人を呼ぶ。尚人は無言で立ち上がり、ゆっくりと女のもとに進む。
 尚人は思う。人は他人のことを知っているようで、実はよく知ってはいないのだ。たとえ蜜月な時間を過ごすような間柄や、親子の関係であっても変わらない。何も知らなければ、何も言われようがないし、何も感じない。自分は何者にでもなれるのである。
 …俺は産まれてからずっと、弟に勝てるところはなかった。でも、これは違う。これは、貴明にはできない。俺の方が貴明より上手にできる。上に立つことができる。貴明もそれは分かっている。そうでなければ、俺なんかに頭を下げて頼み込む訳がないのだ。
 貴明みたく、人に胸を張って言えるような、立派な所業ではない。優越感と、客観視した自分という存在の惨めさに、尚人はジレンマを抱えつつも、今この時この瞬間だけは、その思いをかき消す。俺は、俺じゃない。尚人は女にキスをした。濃密で、燃えるように熱い。
「…愛してるわ、貴明さん」
「俺もだ。雛子」
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