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第六章 空き部屋
二
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S区警察署の地下二階、関係者以外立入禁止の区画。そこには、各部の捜査書類や重要文書を保管するための、文書保管室がある。
一般的に、それらは事件や事案が終えようとも、廃棄できる年度が来るまで、担当部署の管理下にあるとして、保管しておく必要がある。過去の事故や事件、S区の治安維持を担ってきた所轄の歴史が、その部屋には詰まっているのである。
午後十一時過ぎ。夜も更けたその時刻、野本は駆け足気味で、保管室へと向かっていた。
先程届いたばかりの、尚哉からのメールの内容を思い返す。本文には、塩原芳美から電話があり、彼女と会話し得た情報が載っていた。
内容は興味深いものだった。特に、二人目の被害者である棚橋綾子が、藍田真琴の前妻で、事故死したという冬子の実母だったということ。また、冬子は若い頃、綾子の後夫から性的暴力を受けていたこと。この二点は気になった。
藍田冬子か。覚えている。当時事件の可能性もあり、野本も初動捜査に参加した記憶がある。
彼女の死は事故として処理された。ただ、あの事故は、不完全燃焼のまま、終わりを迎えた覚えがあった。それがどういったものだったか。野本の頭の中で、正確に思い出せない。故に保管室に眠った資料より、改めて確認しようというわけである。
野本は保管室の扉を開けた。むわりと、紙と埃と湿気の臭いが、鼻の奥に漂ってくる。彼は手の甲で、鼻先をごしごしと擦った。
立ち並ぶ鈍色のオープンラックには、資料が詰まった、透明なプラスチック製のコンテナボックスが並んでいる。時期、地域、部署によって、文書の保管場所が異なる。つらつらと見ていくうちに、件の事故に関する書類があるであろうボックスを、発見した。
野本はラックからそれを引き抜き、床に置く。目に見える程に、埃が舞う。顔をしかめつつも、野本は中の書類を取り出し始めた。出てくる紙、紙、紙。文書の概要を見る。違う。これも、あれも。どれも——。
十分後、野本はそのボックスに入っていた全ての書類を見終えていた。そうして、一人首を傾げた。
目当てにしていた文書は、見つからなかった。見逃しや、他の文書に綴られている可能性を考え、各書類を一枚一枚めくり、念入りに確認する。やはり、見当たらない。
おかしい。三年半前。事故が起きた時期は覚えている。このボックスに間違い無い。宙に舞う埃でもあるまいし、資料が勝手に無くなることはあり得ない。
誰かが間違って、別のボックスに入れてしまったということも有り得る。が、尚哉から冬子のことを聞いた、このタイミングで、彼女の事故死の資料が無い。偶然とは思えない。
誰かが持ち去った?その理由は?
彼女の事故死は、今回の事件に関係している。それは、野本自身も分かっていなかった。しかし野本は、その二つが関連していると決め付けていた。彼自身の刑事の勘が、そう思わせるのか。それとも…そう思うだけの理由があるのか。
S区警察署に、藍田冬子の事故死と顔剥ぎの事件を、関連付けることを良しとしない者がいる?
そうであればと、野本は保管室と中扉で繋がる、事務室の扉を開けた。途端にもわりとした温かい空気が体にまとわりつく。保管室側の冷たい空気が、事務室内に拡がる。文書管理を担う記録課の職員は既に退勤し、誰もいない。
電気をつける。こぢんまりとした室内の端に、目的のものはあった。旧型のデスクトップパソコン。S区警察署における公文書のデータベースである。
電源を入れ、パソコンのキーボードに貼られた「閲覧者」のパスワードを入力すると、簡素なデスクトップの端に公文書の管理システムのアイコンがあらわれた。よかった。野本が最後に触ったのは数年前ということもあり、システムが変わっていたらどうしようかと思った。
覚束ないキー操作で、公文書の検索をする。件名に適当な名称を入れると、割とすぐに目当ての文書が見つかった。
― S区A町1ー××× 事故案件の報告書 ―
住所、公文書の作成日時。これだ。興奮しつつ、野本は文書件名をクリックした。
しかし彼の期待に応えるだけのものは、遷移したページには表示されていなかった。該当する文書が「あった」ことは分かったが、詳細なデータが、一切見当たらないのだ。
入力ミス?それならこのような、明らかに瑕疵のある文書が、保存文書として保管されているのはおかしな話である。
まさか。これもまた、何者かが意図的に削除したのではないか。紙の文書も無い。データ上の資料も無い。これらを行なったのは、同一人物なのではないか。
それが事実かそうでないかはともかく、現実問題これでは、冬子の事故死について、調べようがない。どうするべきか。パソコンの前のキーボードに手を置き、一人唸る。
そこで野本は、あることを思いついた。システムをいじり、他の文書を表示させる。
試しに、他の報告書概要のデータを消去できるか、やってみようというのである。結果はすぐにわかった。「閲覧者」の権限では、文書の削除や変更を行うことはできないのだ。
つまり。冬子の事故死のデータに手を加えた者は、このパソコンの「管理者」権限を持つパスワードを知っていることになる。
野本は振り返り、事務室全体を見渡した。「管理者」権限は、各部の総務課に配属されない限り、知る由もない。顔剥ぎの事件は署内では有名だが、本部での捜査状況は、原則他部署にも非公開である。冬子の事故死はもちろん、藍田家や芳川家を捜査していることも、断片的にしか知らないだろう。
つまり消したのは、過去に総務課に配属され、現在捜査本部にいる人間に限られる。
——一人。野本の中で、思い当たる人物がいた。
それは。
「野本さん」
その時、後ろから声が響いた。
一般的に、それらは事件や事案が終えようとも、廃棄できる年度が来るまで、担当部署の管理下にあるとして、保管しておく必要がある。過去の事故や事件、S区の治安維持を担ってきた所轄の歴史が、その部屋には詰まっているのである。
午後十一時過ぎ。夜も更けたその時刻、野本は駆け足気味で、保管室へと向かっていた。
先程届いたばかりの、尚哉からのメールの内容を思い返す。本文には、塩原芳美から電話があり、彼女と会話し得た情報が載っていた。
内容は興味深いものだった。特に、二人目の被害者である棚橋綾子が、藍田真琴の前妻で、事故死したという冬子の実母だったということ。また、冬子は若い頃、綾子の後夫から性的暴力を受けていたこと。この二点は気になった。
藍田冬子か。覚えている。当時事件の可能性もあり、野本も初動捜査に参加した記憶がある。
彼女の死は事故として処理された。ただ、あの事故は、不完全燃焼のまま、終わりを迎えた覚えがあった。それがどういったものだったか。野本の頭の中で、正確に思い出せない。故に保管室に眠った資料より、改めて確認しようというわけである。
野本は保管室の扉を開けた。むわりと、紙と埃と湿気の臭いが、鼻の奥に漂ってくる。彼は手の甲で、鼻先をごしごしと擦った。
立ち並ぶ鈍色のオープンラックには、資料が詰まった、透明なプラスチック製のコンテナボックスが並んでいる。時期、地域、部署によって、文書の保管場所が異なる。つらつらと見ていくうちに、件の事故に関する書類があるであろうボックスを、発見した。
野本はラックからそれを引き抜き、床に置く。目に見える程に、埃が舞う。顔をしかめつつも、野本は中の書類を取り出し始めた。出てくる紙、紙、紙。文書の概要を見る。違う。これも、あれも。どれも——。
十分後、野本はそのボックスに入っていた全ての書類を見終えていた。そうして、一人首を傾げた。
目当てにしていた文書は、見つからなかった。見逃しや、他の文書に綴られている可能性を考え、各書類を一枚一枚めくり、念入りに確認する。やはり、見当たらない。
おかしい。三年半前。事故が起きた時期は覚えている。このボックスに間違い無い。宙に舞う埃でもあるまいし、資料が勝手に無くなることはあり得ない。
誰かが間違って、別のボックスに入れてしまったということも有り得る。が、尚哉から冬子のことを聞いた、このタイミングで、彼女の事故死の資料が無い。偶然とは思えない。
誰かが持ち去った?その理由は?
彼女の事故死は、今回の事件に関係している。それは、野本自身も分かっていなかった。しかし野本は、その二つが関連していると決め付けていた。彼自身の刑事の勘が、そう思わせるのか。それとも…そう思うだけの理由があるのか。
S区警察署に、藍田冬子の事故死と顔剥ぎの事件を、関連付けることを良しとしない者がいる?
そうであればと、野本は保管室と中扉で繋がる、事務室の扉を開けた。途端にもわりとした温かい空気が体にまとわりつく。保管室側の冷たい空気が、事務室内に拡がる。文書管理を担う記録課の職員は既に退勤し、誰もいない。
電気をつける。こぢんまりとした室内の端に、目的のものはあった。旧型のデスクトップパソコン。S区警察署における公文書のデータベースである。
電源を入れ、パソコンのキーボードに貼られた「閲覧者」のパスワードを入力すると、簡素なデスクトップの端に公文書の管理システムのアイコンがあらわれた。よかった。野本が最後に触ったのは数年前ということもあり、システムが変わっていたらどうしようかと思った。
覚束ないキー操作で、公文書の検索をする。件名に適当な名称を入れると、割とすぐに目当ての文書が見つかった。
― S区A町1ー××× 事故案件の報告書 ―
住所、公文書の作成日時。これだ。興奮しつつ、野本は文書件名をクリックした。
しかし彼の期待に応えるだけのものは、遷移したページには表示されていなかった。該当する文書が「あった」ことは分かったが、詳細なデータが、一切見当たらないのだ。
入力ミス?それならこのような、明らかに瑕疵のある文書が、保存文書として保管されているのはおかしな話である。
まさか。これもまた、何者かが意図的に削除したのではないか。紙の文書も無い。データ上の資料も無い。これらを行なったのは、同一人物なのではないか。
それが事実かそうでないかはともかく、現実問題これでは、冬子の事故死について、調べようがない。どうするべきか。パソコンの前のキーボードに手を置き、一人唸る。
そこで野本は、あることを思いついた。システムをいじり、他の文書を表示させる。
試しに、他の報告書概要のデータを消去できるか、やってみようというのである。結果はすぐにわかった。「閲覧者」の権限では、文書の削除や変更を行うことはできないのだ。
つまり。冬子の事故死のデータに手を加えた者は、このパソコンの「管理者」権限を持つパスワードを知っていることになる。
野本は振り返り、事務室全体を見渡した。「管理者」権限は、各部の総務課に配属されない限り、知る由もない。顔剥ぎの事件は署内では有名だが、本部での捜査状況は、原則他部署にも非公開である。冬子の事故死はもちろん、藍田家や芳川家を捜査していることも、断片的にしか知らないだろう。
つまり消したのは、過去に総務課に配属され、現在捜査本部にいる人間に限られる。
——一人。野本の中で、思い当たる人物がいた。
それは。
「野本さん」
その時、後ろから声が響いた。
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