侵入者 誰が彼らを殺したのか?

夜暇

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第六章 空き部屋

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 ばたん。車のドアが閉まる。
「◯◎町の角まで」
「かしこまりました」
 貴明は雛子とタクシーに乗ると、行き先を告げる。
「私の家の近くじゃない。どうして?」
「ああ」雛子を横目に見る。「隠していたんだけど、実は今日、君の義理の息子さんに呼ばれていてね」
「こんな時間から?」
「こんな時間から」
 既に午後九時を過ぎている。彼の言い分に訝しげな表情をするも、そういうものかと一人肯く雛子。貴明は心の中で嘲笑した。この女は、貴明である俺がこうだと言えば、全てそうだと思い込む。自ら考えることを放棄し自分を貴明と信じて疑わない。
 貴明と信じて、か。その言葉に彼は、頭の奥にもやもやとした違和感を覚え、気分が悪くなった。今の俺は、芳川尚人では無い。芳川薬品の代表、芳川貴明としてここにいて、隣の女にもそのように見られている。雛子が俺に従順なのも、芳川貴明という存在のお陰。ただ、彼女が実際に惚れているのは、彼女と直接触れ合ってきた尚人なのである。己の中で抱く違和感に気持ちが悪くなる。
 車は走り出す。雛子は目を閉じて、体を寄せてくる。まるで、十代のカップルのような。実際は両名その三倍は生きている中年も中年である。自分達の状況に苦笑しつつ、彼女の手を握る。雛子はどこか嬉しそうに、口の端に笑みを浮かべた。途端、空虚で惨めな感情が、心を支配する。

 尚人が貴明を装い、女と寝るようになった契機は、十年以上前になるだろうか。
「女と会って欲しい?お前の代わりに?」
 芳川薬品の本社で尚人を待っていた貴明は、成功者の姿をしていた。本社高層階、尚人の背丈二倍はあるだろう、窓ガラス一面張りの社長室。皺の無い、仕立ての良いスーツ。整然としたたたずまい。忘れていた…いや、忘れようとしていた劣等感が沸々と湧き出てきて、尚人は心の中で唾を吐いた。
 今になって彼が尚人を呼んだのは理由があった。端的に言えば「自分のふりをして、女と寝てきて欲しい」とのことだった。
「なんたってまた、そんなことを」
 尚人が尋ねると、貴明は空を仰いだ。「苦手なんだ、ああいうの」
「はあ?」
「女と話すこと。それに好みでも無い女と体を重ねるなんて、どうしてもできなくてね」
「純情振るような歳でも無いだろ。知っているか、お前も俺も、三十路を越えてんだぞ」
 尚人の挑発には何も返さず、窓のところへ歩いて行く。
「それにこの女。裏の世界じゃ有名なとこの愛人だろ。なんたってこんな女と」
「謝礼は用意する。やってくれないか」
「一億円くれって、言えばくれるってか」
「常識の範囲内であれば、ある程度許容する」
「分からないな」尚人は頭を掻いた。「お前は昔から俺より、なんでもできただろう。なあ、今思えばお前も分かっていたんだろ。俺のこと、いつも見下していたものな」
「…」
「気付いていないと思っていたのか。そんなお前が、俺なんかに、えーっと、女と寝るだって?やりたくないのは本当のことだとしても、わざわざ俺を探してきて、金を払ってでも頼み込むって、よっぽどのことだろ」
「俺だって、兄貴に頼みたくはないさ。ただ」そこで貴明は、尚人に三枚の写真を寄越した。「兄貴はどうやら、経験豊富なプレイボーイみたいだからな」
 尚人が受け取った写真には、尚人と女がホテルに入るところが映されていた。それぞれ別の女。どれもがバーやクラブで会い、一夜を共にした相手だった。
「…盗撮なんて、趣味の悪い奴だな」
「随分とお盛んで。兄貴も知っているのか?俺達がもう、三十路を超えていることを」
 尚人は写真を貴明に向かって投げ返す。三枚の写真は、ひらひらと地面に落ちた。
「しかしまあ、本音が出たな。俺にお願いなんて、嫌々じゃないか。自分でできないのなら、その女と寝ること自体、やめるべきだよ。そうすりゃ、お前も俺もこうして顔を突き合わせる理由も無くなる」
「駄目なんだ」凛とした口ぶり。「やらなくちゃならないことなんだよ」
 今までで一番強い口調。尚人は思わず閉口する。
「昔、両親が死んだこと。流石に覚えているよな」
 尚人は肯く。忘れるわけなどない。
 尚人と貴明は、高校生の頃に両親を亡くしている。当時大学生だった若者が、車ごと自宅に車が突っ込んできた。両親はその事故で死んだ。あっけないものだった。
「あの後、俺がどう生きてきたのか、兄貴は知らないだろ。俺は父さんの会社を存続、発展させるために、血反吐を吐く程に努力してきた。幸か不幸かそれが実を結んで、ようやく安定してきたとは思う」
「何だ、急に自慢話か?」
「まあ、聞けよ」貴明は胸ポケットから煙草取り出した。
「でも駄目なんだ。まだ、なんだよ。俺が求めるレベルまでには、全然達していないんだ。そのためには」取り出した煙草を咥え、貴明は尚人を見た。「たとえ汚れ仕事でも、やらなくちゃならない時はある。やばい奴らとも、手を、組まなくちゃならないこともある。綺麗なままで、泥の中にある宝は取れないんだよ」
 尚人に下手な茶々は入れられなかった。それだけ、貴明の口ぶりには思いというか、力が入っていたからだ。
「それを俺にやらせるのか」
 ふっ、と貴明は口の端に笑みを浮かべた。
「早い話、やくざの愛人を寝取る訳だろ」
「彼女、俺のことを気に入ってくれているみたいでさ。ドンに資金援助を頼む代わりに、体を一晩貸せって」
「はあ」
「兄貴、最近仕事クビになったんだってな」
 尚人はどきりとした。「それも調べたってか」
「金、入用だろ。尚哉君だっけ。育児も大変だろうに。一億とは言わずとも、やってくれるなら、一割程度であれば、すぐに用意ができるぞ」
 それでも一千万。夢のような額。それだけ有れば、生活に余裕ができる。
「それにうちの子会社で良ければ、仕事先も紹介するよ。クビもないよう、手を回す。つまりうちが潰れなきゃ一生食っていける」
 何を躊躇う?という風に、貴明は首を傾げた。
「安全は保証する。兄貴は女と寝るだけ。しかも美人とな。女も金も手に入るし、良いことづくしじゃないか」
 安全は保証。相手はやくざの愛人だ。ミスすれば命はないかもしれない。彼の言葉自体、保証があるとは到底思えなかった。
 しかし尚人は貴明の求めに応じた。金はもちろんそうだったが、本当の理由は別にあった。それまで自分を下に見ていたであろう弟が、こうして自分を頼ることに、尚人はどうしようもなく優越感を抱いていたからであった。
 
 それから数年もの間、尚人は貴明の仕事の手伝いをした。流石に息子の尚哉には、自分のしていることは言えなかった。「実弟に金の工面をしに行く父親」と、彼から陰で罵られていることを知った時は、仕方ないと思いつつも、半ば心が痛んだ。
 しかしそれでも辞められなかった。最中は優越感で満たされるのだが、「仕事」が終われば、その感情が、貴明に抱いていた劣等感の蓄積による反動から出ずるものであることを自覚し、苦悩する。そんな日々に嫌気が差し、潮時と感じ始めたのが、今から五年前。貴明は、実質尚人にとって最後となる依頼をしてきた。
 それが彼女…藍田雛子だった。
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