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第六章 空き部屋
十
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藍田家から少し離れた公園の前でタクシーをおりた後は、二人並んで歩いた。互いに酒を飲んでいたこともあって、足取りは若干覚束ない。しかし世は十月の気候。夜風が心地よく、むしろふわふわとした軽い酩酊状態が気持ちよくも思えた。
「今日は、少し調子が悪かったかしら?」
「酒の影響さ」
「へえ。少し前は酒が入っても元気だったじゃない」
「…悪いな。今度の楽しみにしておいてくれ」
「忘れないわよ」
雛子は小悪魔的に微笑み、貴明の腕を組む。そうしてそのまま、満足そうに息をついた。
「毎日、こんな日だったら良いか?」
「ええ、ええ。そうね」彼女は何度か肯いた後で、表情に陰を落とした。「でも駄目。あの人、まだ生きているもの」
あの人。それが誰か、言わずとも察せられた。
「そっちの調子は良い感じなんだな」
「ええ。本当に。みるみるうちに。昨日、話したじゃない」
しかし雛子は浮かない顔で、大袈裟に溜息をついた。
「…でもね。最近は突然思い立ったかのように求めてくるの。もう数年前からEDで立たないのにね」
「はっ。中々悲惨だな」
「諦めが悪いの」
裸の雛子を前に、童貞の男子学生みたく、自分の股間を手で上下に擦り、必死にもがく勝治。笑えるどころか、純粋に気味が悪かった。
「彼のこと、最初から好きじゃなかったみたい」
数年前から続く逢瀬の中で、何度も話してきたであろう話を、雛子はまたも話し出し始めた。女は同じ話をするのが好きだ。それをただ、聞いてくれる男が好きだ。雛子はその、偏見的ともいえる貴明の考えに当てはまる、分かり易く扱い易い女だった。
「三十路を迎えて年齢も年齢だし、結婚くらい一度経験しておいた方がいいかなって、軽い気持ちだった。彼、金持ちだしね、私、貧しい生活って、嫌なのよね。実家がそうだったのよ。貧乏一家。来年、再来年の生活も担保されないような、そんな生活よ。意地でも抜けてやるって、そう思った。貴明さんにはこの気持ち、わからないかもしれないけど」
「わかるよ」一言。両親の死別後、苦労してきた日々を貴明は思い返す。しかし雛子は冗談だと受け取ったようだった。「やめてよ、もう」とあしらった。
「生きていく上で、何不自由の無い生活が欲しかった。お陰様で、それは手に入ったわ。その点、彼には感謝してる。でも」そこで雛子は、貴明を見た。「最近は、いつも考えちゃうの。貴明さんとなら両手を挙げて結婚できたのかなって。あの人より先に会えていればって。そうすればこんなふうに、こそこそ会う必要もなかったのに」
「貴明さんとなら、ね」
「ええ。貴明さん、あなたとなら」
貴明は彼女の手を優しく払い退けた。彼の行動に目を丸くさせる雛子だったが、彼らがいる場所が既に藍田家の門の近くであることに気付き、納得したような表情を見せる。
二人で、偶然そこで出会ったような素振りで門をくぐった。雛子は少し待っててと、玄関扉真横にあるチャイムを押そうとした。
そこで貴明は、持っていたビジネスバックからそれを取り出す。そうして雛子がチャイムを押す前に、彼は彼女の背後から覆い被さった。
「ちょ、ちょっと。ここじゃまずいわよ」
黒目のみ、周囲にきょろきょろと動かす雛子の耳元で、貴明は「すまない」と言った。
「ずっと、君に嘘をついていた」
「え?」
「君が好きな男は、貴明じゃないんだ」
「それって、どういうっ」
恥じらいのあるほんのり紅潮した表情から、さあっと色が消えた。雛子の首には黒の太いゴム紐が巻かれており、瞬時に彼女は締め上げられた。
「俺は、芳川尚人。芳川尚人だったんだ」
彼の声は、既に雛子には聞こえていなかった。蟹みたく口から泡をぶくぶくと出しながら、雛子はぐしゃり、その場に崩れ落ちた。
「すまない」
再度、貴明は謝罪の言葉を述べる。両手で、彼女の頭の上と顎のあたりを持つ。勢いよく逆時計回りに力を込める。ぼぐ。ぐきり。くぐもった音が、手の感触から全身に響いた。
「今日は、少し調子が悪かったかしら?」
「酒の影響さ」
「へえ。少し前は酒が入っても元気だったじゃない」
「…悪いな。今度の楽しみにしておいてくれ」
「忘れないわよ」
雛子は小悪魔的に微笑み、貴明の腕を組む。そうしてそのまま、満足そうに息をついた。
「毎日、こんな日だったら良いか?」
「ええ、ええ。そうね」彼女は何度か肯いた後で、表情に陰を落とした。「でも駄目。あの人、まだ生きているもの」
あの人。それが誰か、言わずとも察せられた。
「そっちの調子は良い感じなんだな」
「ええ。本当に。みるみるうちに。昨日、話したじゃない」
しかし雛子は浮かない顔で、大袈裟に溜息をついた。
「…でもね。最近は突然思い立ったかのように求めてくるの。もう数年前からEDで立たないのにね」
「はっ。中々悲惨だな」
「諦めが悪いの」
裸の雛子を前に、童貞の男子学生みたく、自分の股間を手で上下に擦り、必死にもがく勝治。笑えるどころか、純粋に気味が悪かった。
「彼のこと、最初から好きじゃなかったみたい」
数年前から続く逢瀬の中で、何度も話してきたであろう話を、雛子はまたも話し出し始めた。女は同じ話をするのが好きだ。それをただ、聞いてくれる男が好きだ。雛子はその、偏見的ともいえる貴明の考えに当てはまる、分かり易く扱い易い女だった。
「三十路を迎えて年齢も年齢だし、結婚くらい一度経験しておいた方がいいかなって、軽い気持ちだった。彼、金持ちだしね、私、貧しい生活って、嫌なのよね。実家がそうだったのよ。貧乏一家。来年、再来年の生活も担保されないような、そんな生活よ。意地でも抜けてやるって、そう思った。貴明さんにはこの気持ち、わからないかもしれないけど」
「わかるよ」一言。両親の死別後、苦労してきた日々を貴明は思い返す。しかし雛子は冗談だと受け取ったようだった。「やめてよ、もう」とあしらった。
「生きていく上で、何不自由の無い生活が欲しかった。お陰様で、それは手に入ったわ。その点、彼には感謝してる。でも」そこで雛子は、貴明を見た。「最近は、いつも考えちゃうの。貴明さんとなら両手を挙げて結婚できたのかなって。あの人より先に会えていればって。そうすればこんなふうに、こそこそ会う必要もなかったのに」
「貴明さんとなら、ね」
「ええ。貴明さん、あなたとなら」
貴明は彼女の手を優しく払い退けた。彼の行動に目を丸くさせる雛子だったが、彼らがいる場所が既に藍田家の門の近くであることに気付き、納得したような表情を見せる。
二人で、偶然そこで出会ったような素振りで門をくぐった。雛子は少し待っててと、玄関扉真横にあるチャイムを押そうとした。
そこで貴明は、持っていたビジネスバックからそれを取り出す。そうして雛子がチャイムを押す前に、彼は彼女の背後から覆い被さった。
「ちょ、ちょっと。ここじゃまずいわよ」
黒目のみ、周囲にきょろきょろと動かす雛子の耳元で、貴明は「すまない」と言った。
「ずっと、君に嘘をついていた」
「え?」
「君が好きな男は、貴明じゃないんだ」
「それって、どういうっ」
恥じらいのあるほんのり紅潮した表情から、さあっと色が消えた。雛子の首には黒の太いゴム紐が巻かれており、瞬時に彼女は締め上げられた。
「俺は、芳川尚人。芳川尚人だったんだ」
彼の声は、既に雛子には聞こえていなかった。蟹みたく口から泡をぶくぶくと出しながら、雛子はぐしゃり、その場に崩れ落ちた。
「すまない」
再度、貴明は謝罪の言葉を述べる。両手で、彼女の頭の上と顎のあたりを持つ。勢いよく逆時計回りに力を込める。ぼぐ。ぐきり。くぐもった音が、手の感触から全身に響いた。
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