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第二章 実行
三
しおりを挟む喉が、いがいがする。
まとわりついた粘液は、吐き気を引き起こしている。あの廃校から帰ってきてから、ずっとそう。原因のわからない気持ち悪さに、私は襲われていた。
私はキッチンへと向かう。ぎしぎしと、少々軋む廊下を進む。漸く目的の場所についたかと思えば、冷蔵庫に入っていたペットボトルの水を取り出し、そのまま口をつけた。
冷たい水が体中を駆け巡る。ああ。さっぱりする。が、それもどうせ一時のもの。またすぐに喉が渇く。渇く渇く。
もう一度水を口に含むと、冷蔵庫の扉を力任せに閉め、またもリビングへ。部屋の中央のソファに腰を下ろした。
今、この家の中には誰もいない。
窓の外から入る、蝉のうるさい鳴き声だけが、耳の奥で木霊する。
このまま、なにもかも忘れて眠りたかった。
昨日のことも、これまでのことも全て。
しかし、それはできない。
そう簡単な話ではない。
一人嘆息したその時、床に散らかった衣服に目が留まった。そうだ、昨夜帰ってきてからは、何も片づけずにいたのだ。
私は衣服を畳み始めた。何かしていないと落ち着かないのだ。そうじゃないと、否が応にも思い出してしまう。
その時、畳んでいたジャケットのポケットに何か入っていることに気がついた。四角い…それでいて小さく、薄い紙のようである。私はそれを手にとって見た。
そうだった。名刺だ。存在をすっかり忘れて、そのまま持って帰ってきてしまったのだ。
株式会社エイテック。会社名は知らなかった。が、注目した箇所は、大谷悟史…その名前を、私は知っていた。忘れるはずのない名前だった。
どうして、あの廃校に彼の名刺があったのだろう。
…試しに電話してみようか。
机の上に置いていた、スマートフォンを手に取る。
正直な話、向こうは私の声なんて聞きたくないのかもしれない。だからといって何故か、その時の私は、やめる気にはならなかった。
あの場所に名刺があった理由。それを知りたいがための衝動ではない。そうだ。時間が経った今なら、彼ときちんと話し合えるかもしれないと思ったからである。
名刺右下に記載されている電話番号に目を向ける。そのまま、番号をゆっくりと打ち込んでいく。画面に数字が一桁、また一桁と表示される。
緊張からか、指が震える。次は3、2…
コール音が耳元で鳴り始めた。よし、かかった。じんわり、手汗が出てくるのを感じる。
——株式会社エイテックでございます。
電話が繋がった途端、若い女性の滑舌の良い声が耳に届いた。透き通るようなその声に、自ら電話しておいて少々面食らった。
「あ、あの。営業第一課のオオヤさんをお願いします」
——確認いたしますので、少々お待ちくださいませ。
耳の中に単調なメロディが流れ始めた。これは確か、エドワード・エルガーの「愛の挨拶」だ。誰もが耳にしたことのあるであろう、思わず鼻歌を歌ってしまう曲。自分が勤めていた会社の保留時のメロディも、同じだったなとぼんやり思っていると、先程の女性に移り変わった。
——申し訳ありません。オオヤは昨日から休みをとっておりまして。
「え。そ、そうですか」
昨日から休み。張っていた気が抜け、ベッドに腰をかける。電話先の女性は申し訳なさそうに、すみませんと言った。
——明日は出勤の予定ですので、よろしければ明日、オオヤより直接お電話いたしましょうか。お電話番号をお聞かせく…
無意識に、親指は通話終了ボタンを押していた。机の上にスマートフォンを置き、はぁと溜息をつく。
と、そこで思い出した。そういえば、彼の直接の連絡先を私は知っていたではないか。置いたばかりのスマートフォンを再度手に取り、連絡先一覧を開く。
「…よし」
気を取り直して、大きく深呼吸をする。そしてそのまま連絡先を選択し、発信ボタンをタップした。
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