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第三章 思惑
十
しおりを挟む「私がマサキさんの勧誘を受けた理由ですかぁ?」
打ち合わせが終わり、解散した後。ミナが一人になったところを追いかけて呼び止めた。適当なことを言い、先程までいたカフェに二人だけで戻る。
「ええ。なんか、気になっちゃって」
どういった話かも伝えていないのに、彼女は私の誘いに素直に応じた。すんなりとしたその態度に、私は肩の力が抜ける。
「さっき言ったじゃないですか。あまり人前で話せないって」唇を尖らせてそう述べる彼女。私は、自らの焦燥感を抑え、無理やりに落ち着かせ、「でも」と続きを切り出した。
「これから一緒に仕事をやっていく仲なんだし、身の上話をもうちょっとしても構わないでしょ?」
あえて柔らかな口調でそう訊くと、彼女はバッグからメイク道具を取り出した。鏡を立て、マスカラを塗り始める。
「ミナちゃん、何…」
「あんたに話す必要、ある?」
「え?」
それまでのふんわりした態度から一転、突然の冷ややかな物言いに、私は思わず顔が引きつった。そんな私のことを、ミナは強く睨む。
「そもそもあんた、知ってるでしょ。あたしがここにいる理由」
「私が、知っている…」
「三年前。あの事故のこと」
「まさか」
「ええ、そう。当時は色々、お世話になったよね」
驚くと同時に、言葉が出なかった。彼女は覚えていたのだ。私のことを。私の夫のことを。
「覚えているなんて。まさか、思ってなかったわ。てっきり忘れたものと」
「忘れる訳、ないじゃないっ」
突然の大声に、全身の鳥肌が立つ。周囲からの好奇の眼差しを全身に痛い程感じるが、彼女は御構い無しである。
「あれがあったせいで、あたしの人生、めちゃくちゃになっちゃったのよ」
息を飲む私に、ミナは次のとおり述べた。
あの事故で、彼女が罪に問われることはなかった。それは私自身既に知っていることである。
しかし彼女をとりまく周囲の目、世間の目というものは厳しかった。学校の友人は彼女を「人殺し」と罵り出し、学校の教師もまた、彼女を腫れ物として扱う。
家でもそうだった。両親は、彼女の行動をそれまで以上に監視してくるようになった。習い事や塾は辞めさせられ、人目に触れないよう、学校が終わってからは自宅に「ほぼ監禁状態」だった。娘が車の前に飛び出した結果、事故を引き起こした——。その事実が、近隣で流行ったからなのかもしれない。
だからと言って、家で両親が話しかけてくることはなかった。彼らは本心、私を厄介者として見ている節があった。
つまりは事故を堺に、彼女は家でも学校でも、孤立した存在になったのだ。
「あたし、死のうと考えたわ。でも、駄目だった」
死ねなかった。しかしそれは、生への執着という訳ではない。
ぱちぱちと、火の弾ける音。ぐちゃぐちゃになった車。その車体の下から、じんわりと滲み出る真っ赤な血。駄目だ。死のうとすると、脳裏に三年前に見た光景が甦るのだ。あの、凄惨な事故のその情景を。自ら死んで楽になることを許されていないような。死という概念から、強く拒絶されているように感じた。
「もう、どうでも良くなったわ」
彼女は少ないながらも貯金を手に、家を出た。
それからの三年間は、様々な場所を転々としたのだという。その間、生活費を稼ぐために体を売り、水商売にも手を染めた。生きるために、生きてきた。
「そんな時に『不幸なあなたは、一番仕事に相応しい』ですって、管理人から。失礼しちゃうよね」
苦笑しつつも、ミナは儚げに表情に影を落とした。
「でも、確かに相応しいのかも。自殺を考える人達と接すれば、知ることができるもの。『私以上に不幸な人間がいるんだ』って。どん底の人生、嫌な気分を少しでも晴らすことができるかもって。だから私はここにいるの」
そんな彼女に、私は一つ訊いてみることにした。
「後悔してるの?」
「後悔?」
「三年前の、あの事故のこと」
ゆっくりと、文字に書き起こすように尋ねる。
あの時の女子高生がそんな苦悩の道を進んでいるとは思わなかった。夫を殺したことなど平気で忘れ、今は幸福な毎日を送っているものと決めつけていたのに。
それにあの事故。今の彼女の話を聞いて、彼女に故意性がなかったようにも思えている私がいた。
彼女がわざと飛び出した——。私の勘違いだったのか?勘違いでこの三年間、彼女のことを恨み続けていたというのか。私の頭の中、かちかちに固まっていた考えが崩れていく。
——赦すの?
自問する。しかしたとえ、そうだったとしても、彼女の行動で夫が亡くなったことは事実なのだ。簡単に赦してしまって構わないのだろうか。
「後悔、か」ミナは少しだけ考え込むと、私を睨め付けた。「ええ、してるわ」
心臓の鼓動が速くなる。「じゃあ…」
「だって。あんたの旦那の車なんか狙ったせいで、ここまで苦労することになったんだから」
指先が、急激に冷たくなった気がした。
——狙った?
「それって、どういう…」
心臓を右手で抑え、彼女の真意を訊いてみる。ミナはにやりと、下卑た笑みを見せた。
「ユーチューブ」
「え?」
「知らない?動画配信サイト」
「名前は知ってるわ。若い子がよく観てるのを見かけるから」
「若い子って」ミナは軽く笑いつつ、「まあ良いや。あのね、あれ、三年ぐらい前がピークだったのよ」
ミナはバッグからスマートフォンを取り出し、私の眼前でふりふりと振った。「観るだけなら良いんだけど、投稿もね。スマホ一つあればできるし、再生回数が収益になって、ちょっとしたお小遣いにもなるってさ。皆軽い気持ちで色んな動画を撮って、アップしてたなぁ」
私が黙っていると、「まあ、くだらない遊びよね」とミナは吐き捨てるように言った。
「でも皆、好きだったのよ。再生回数が増えると、なんだか自分が認められている、求められてる気がして。承認欲求が満たされるっていうのかな。
…それで当時ね。私の通ってた学校でも皆、それをやってて。あいつの動画やばい、あの子の動画すごいなんて言い合って。まるで競争し合ってるみたいで。中には万引きに不法侵入そんな動画を撮ろうとしてた男子もいたかな」
そういえば。当時、ニュースで話題になっていた記憶がある。犯罪紛いな行為をする者が後を絶たなかったため、最終的には動画サイト側が禁止項目を設けたんだったか。
しかし話を聞いていて、私は既に、彼女が何を言いたいのか。それが分かっていた。
「まさかそんな動画を撮るために、あなたは」
声が震える。つまり。彼女は動画を撮りたいがために、故意に夫の目の前へと飛び出した。
…その結果。
「女子高生がスタントマンごっこしてみた。これ、私が考えていた動画の内容。想定じゃ、少しだけ避けてもらって、ああ危なかったってのを期待していたのよ。事故を起こして欲しいなんて、これっぽっちも思ってなかったの。
それなのに、ねえ。なんで死んじゃうのよ。そんなつもりなんてあたし、無かったわ。あんたの旦那が死ななければ、あたしももっと平凡に楽しく暮らせたはず。それなのに、なんで——」
途中から、もう彼女の声は聞こえていなかったし、その後ミナとどんな会話をしたのかはよく覚えていない。気づいたら、その場には私一人が取り残されていた。
「言っとくけど、今更この件についてぶり返そうなんて考えないことね。証拠、一切ないもの」
最後に言った、彼女の言葉だけが頭に残っていた。
「あんたはあんたで旦那を亡くした。代わりにあたしは辛い人生を過ごしてる。それでもう、手打ちにしましょ。話は終わりよ」
彼女の言葉を、何度も反芻する。
そもそも——。改めて、考える。私の夫が亡くなったことと、あの女が苦労したこと。それが同等と言えるのだろうか。
…言えるのだろうか。
そんな訳、無いじゃないか。彼女が苦難を強いられたのは、身から出た錆であって、夫のせいでは無い。しかし彼が亡くなったのは、まごうことなく彼女のせいだ。
あの態度。沸々と、怒りがこみ上げてくる。
何様のつもりだ。
どうして、私が、私達が悪いと言い切れる。
ああああ。
駄目だ。駄目だ駄目だ。
もう駄目だ。
もう、自らを止めることなんてできなかった。
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