蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第三章 秘密とカクテル

10①

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 俺は彼女と、電車に乗って三つ隣の駅で降りた。
 駅前が繁華街になっていた。午後十時半を迎えるというのに、街は明るく、通りは人で溢れている。その大半が酔っ払いで、ちらほらいるのは居酒屋のキャッチ、風俗店のボーイもどき。東京の夜の街ではよくある光景だった。
 俺と理乃は駅を降りてすぐの、半個室酒場に入った。安い、早いで有名のチェーン店。彼女曰く、気楽に飲みましょう、とのことだった。


「でも、本当にそう思います」と理乃は言う。
「何が?」
「辻さんはお人好しなんですって」
 理乃は既にジョッキに入ったビールを半分飲んでいた。頬が少し赤くなっているのは、気のせいではないだろう。
「お人好し、なのかなぁ」
「そうですよ!」理乃はまた、ビールを一口あおる。「今回の仕事も、本当は吉田さんが担当していた案件なんですよね。それなのに彼はすぐに帰っちゃって。辻さん一人が被って、挙げ句の果てに遅いって課長に怒られていましたでしょ」
「ああ、見られてた?」
「あんな人前で怒鳴る人、最近じゃ珍しいですよね。あれ、わざとやってるんでしょうね」
「恥ずかしい限りです、はい…」
 彼女の言葉に自分の存在が余計に惨めに思えてきて、俺は小さな声で呟く。
「恥ずかしいだなんて。あれは課長のやり方がひどすぎます。辻さん、仕事ができる人なのに、あれじゃよく分かってない人からしてみれば、ダメな人だって思われちゃう」
 ダメな人。この前美沙と杏奈が、俺のことを陰でそう言っていたことを思い出して、心の中で空笑いをした。
 しかしそれと同時に「まって」と俺は理乃を見る。
「円城さん。仕事ができる人って?俺が?」
「ええ、でもそうですよね」
「どうみたって、俺はできない人の部類だよ」
 理乃はかぶりを振った。
「あれだけの仕事の量ですよ。あれを、ほぼ一人でしかも納期に大方間に合わせるだなんて、早々できないと思います」
 じんわりと、心に少し何か温かいものが滲み出てきたような気がした。そっか…仕事ができる、か。
 顔がニヤけていたのだろうか。理乃はふうとやや呆れたように、肩をすくめた。
「そのお人好しな性格で損してますって絶対」
「でもさ、どうすれば良いのか分かんないんだよ。師崎は総務にも同期がいるって聞いたから、そっちに話すにも少し気が引けるというか」
 どんなに叫んでも、その声はかき消され、無かったことにされる。そういうものだという、到底認められない常識。これが会社の常、若手が味わう苦労——。
「そんな苦労、あってたまるもんですかっ」バンッ。理乃はジョッキをテーブルに軽く叩きつけ、憤慨する。「そもそも先に出世したくらいですよね、あの人。仕事も大してできそうにないし。そんなんで、いい気になるなって思いません?」
 俺は目を丸くさせ、彼女を見る。先程までの落ち着いた雰囲気は無く、情緒不安定な雰囲気である。俺は「確かにそうだよね」と、当たり障りのない返事に留まるしかできなかった。
「いつもセクハラしてくるんですよ。ああ、気持ち悪い」
「それは」そこで俺は眉根を寄せた。「いつも、してくるの?」
 理乃は強く首を縦に振った。
「挨拶のついでに肩やら背中やら、今日はお尻も触られたし。食べちゃいたいくらい可愛い、とか」
 うわぁ……それは確かに気持ち悪い。
 しかし確かに理乃は艶かしい、何というのか、色気があった。胸は程よく出ていて、腰回りは細く、尻は丸く形が良いのが、服の上からでも分かる。普段彼女とは席が離れているが、より近い席にいれば、自然と彼女を目で追ってしまうかもしれない。
 しかしそれを面と向かって言うのは、今の時代ではタブーである。綺麗だね、可愛いね、髪切った、痩せたね、化粧変えた?エトセトラ。そういった発言もまた、人によってはセクハラと捉えられかねない。不快にさせるような発言は、暴力と同じ。昔とは違うのだ。
「美沙ちゃんも杏奈ちゃんも、いつも気持ち悪いって言ってますよ」
 あの二人が。師崎の付き人、好き好んで師崎の後ろをついていっていると思っていたのに。俺がそのことを言うと、ああと理乃はうんざりした顔になった。
「本気で慕ってるわけないじゃないですか。良いなんですよ。少し相手をすれば、彼女達の薄給じゃいけないような、高級店でご飯とか食べさせてもらえたり、ブランド品も買ってもらえるみたいですから。味、しめちゃったんでしょうね。飽きたら捨てるとか、いつも言ってますよあの子達。まあ」理乃はフッと笑う。「どっちが捨てられるか、わかりませんが」
 つまりはあの、でかい顔をしている師崎でさえも、こうして裏では下に見られているのだ。対する師崎も、彼女達の若さ、新鮮さを買っているようなものである。それがなくなれば…飽きがきたら、彼女達もまた用済みである。案外似たもの同士なのかもしれない。
「ろくでもないな…」
「え?」
「あ、いや」俺は口から溢れた言葉を急いで拾おうと言い訳を頭の中で考える。が、それよりも理乃は上手だった。
「ろくでもない人って、どこにでもいますけど。それって、ろくでもなくない人がいるからこそ、目立つっていうのもありますよね」
「どういうこと?」
「つまりですね。会社には一定数、駄目な人達が生まれるってわけです。あ、辻さん働きありの法則って知ってます?」
「知ってるよ。2:6:2のやつだろ」
 組織の中にいると、その組織の人々は三つに分類されるのだという。よく働く者が二割、普通に働く者が六割。そして、怠け者や役に立たない者が二割。これを蟻の巣に例えて、働き蟻の法則と呼ぶのだ。
「一人ひとりが目立たなくなるから、ってのもあるんだろうな。うちの会社はそんなでかくないけど、それでも個人プレーは無いし」
 つまりは社員個々のアイデンティティが無い。それを逆手にとった、ずる賢い奴らということになる。俺は吉田を、いの一番に頭に思い浮かべた。
 理乃は首肯し、テーブルの上に肘を置く。「今の辻さんの置かれている状況は、はっきり言ってお辛いと思います。でもそれは辻さんが悪いわけじゃなくて。その、役に立たない怠け者達が作り出す雰囲気、それに会社がノってしまっていることにあると思うんです」
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