蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第三章 秘密とカクテル

10②

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「会社がノる?」
「私は新参者なだけに、職場を俯瞰して見ることができます。今、もともといる方々からしてみれば、怠け者がいるのが当然だと無意識のうちに考えているわけです。
 でも、怠け者が怠ける分、仕事が滞るのは当然かと思います。それをフォローするのも当然…となると、自然とフォローする側、辻さんのような仕事ができて、真面目な方々がやるのが当然、という流れになります。すると、その仕事の遅滞が露呈した時には、フォローする側が責められることになるんです。
 そして最悪なのが、周囲もフォローする側である当事者もまた、それが当然とされている風潮が出来上がっていることです。普通、怠け者が責められるべきなのに」
「なるほどな」
 彼女の言うことには説得力があった。確かに俺が今、彼女が言っているフォロー側であることは間違いない。そしてそれは吉田という新入社員がいる上では当然だと、社の人間の誰もが考えているに違いない。
 しかし、限度を超えたレベルでの出来の悪さ、想像を超えるフォローが必要であることを、周囲は知らない。知らないが故に、俺が師崎に叱責されることに疑問が生じることも少ない。だからこそ師崎もまた、己のやっていることが正しいと誤認してしまう。
 改めて考えて見ると、いやな流れができているものである。
 しかし——。
「変えるのって、かなり難しいよ」
 職場の雰囲気というものは、想像以上に個々人に染み付いているものなのだ。それを変えるとなるとハレーションがあるのは確実だった。たとえそれが、一般的に容認されないようなことであっても。
「事実ね、円城さんが来る前に一人女の子が俺と同じような目に遭っててね。彼女も色々やってたらしいけど、駄目だったみたいで。結局二月に辞めてしまったんだ」
「石垣千紗さんのことですか」
「知ってるの?」
「ええまあ。私がその代わりに採用されたわけですから」
 そういった情報は誰かしらが話してしまうものだ。彼女はそれが耳に入ったのかもしれない。
 そうか、と俺はふと思った。彼女も、千紗もまた、こうして俺と同じように、今の環境に悩み、苦しんでいたのかもしれない。しかし結局改善には至らなかった。
 ——辞めるしかねえよ。
 西尾の声が聞こえてくる。一番楽になる近道は、仕事を辞めること。そうに違いない。千紗はそれを選択した。それだけの話だった。
「じゃあ、上司に言いつけますか」
 理乃が手を挙げて言う。俺は苦笑する。
「俺の上司がなんだよ」
「違います。その上です。課長の上って誰なんです」
「確か、井手浦いでうらって総務の部長だったかな。俺達からしてみれば雲の上の人だよ」 
「総務の…」
「しかも師崎とは顔見知り。つまりは、その道はないってこと」
 それでもその道を進むとなれば、荊どころか燃え盛る極太の針を受けつつ進むようなものだった。いや、そもそも進めないでリタイアするのがオチだ。
「…でもこの流れを無くさないと、辻さんが潰れちゃう」
 泣きそうな顔で俯く理乃を見て、俺は何も言わずに目の前のビールをあおった。
 潰れる…か。それは、自分でもわかっていた。
 それでも、仕事だと割り切るしかないと、今まで過ごしてきたのである。
 しかし、限界は目で見える程度には近づいてきていた。
 夢を見ることがあった。
 ふわり。それは、高いところから飛び降りる夢。風を感じるのはほんの一瞬で、すぐに意識が飛びそうなくらいの恐怖に、その後文字通り叩きつけられる、死を当然に迎えるだけの激痛。それをするだけの勇気が、夢の中の自分にはあった。しかし今は夢は夢、そのまま目を覚ませば二の足どころか三の足を踏む。そんな、飛び降り自殺だなんてできるわけがない。
 ただ、最近その夢を見る頻度が増えてきたのだ。まるで現実でそれを行う前の準備というのか、体と頭がリンクするまでのモラトリアム——。
 それが、ぴったり合わさった時に何が起こるのか。言わずとも、想像には易かった。
 理乃は上目遣いで俺を見る。
「辻さんは二割の人だから、潰れちゃダメだと思います」
「怠け者ってこと?」
「ち、違いますよ」頬を膨らませ、彼女は腰に手を当てる。「わかってるでしょうに。もう」
「はは、悪い悪い」
 しかしその時の俺は、そんな絶望の淵にいるとは思えない程度に、自然に笑えていた。理乃とまともに会話したのは、その日が初めてのことだったが、まるでそうは思えない程の心地よさを感じていたのだ。
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