蜃気楼に彼女を見たか

夜暇

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第六章 さよならと笑顔

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「辻さんの悪評を広めていますよね」
 彼女の淡々としたその口ぶりに、俺は「何のことやら」と肩をすくめた。「辻さんの悪口?俺が?社内で?」
「はい」
「あのさ、理乃ちゃん」
「やめてください」
「は?」
「ちゃん付けも、下の名前で呼ぶのも。認めていません」
 非難を帯びた口ぶりに、頭に血が上る感覚を覚えた。
「後輩のくせに、なんだその態度」
 そこで理乃は、くすくすと笑いだす。
「何だよ…」
「後輩って。あなたは新卒で経験も浅い、大した仕事もできない。よくもまあ、そんな大きい顔ができますね」
 頭にきたその勢いで罵倒しようとするも、俺は少しだけ…俺にしては少しだけ、落ち着いて返す。
「仮にさ。辻さんの悪評の発信が俺だったとするよ」
「認めるんですか」
「仮にって言ってるだろ」苛々を完全に隠せそうにはない。「そうだとしても、俺みたいな若造の言うことを鵜呑みにして、社内で…師崎もそうだけどさ。辻さんをそういう人間だって思い込む奴らが居るってわけだろ。
 それって、普段の人柄の問題だよな。庇う奴がいないってんだから。遅かれ早かれ、辻さんはこうなる運命だったんだよ」
「辻さんは、不器用なだけなんですよ」
「そんなん、知らねえって」俺は吐き捨てるように言った。「不器用って言えばネガティブな面、カバーできると思ってんの?あのさ。集団社会なのよ。コミュニケーション、大事なのよ。不器用な奴が生きていけるわけねえじゃん。
 師崎だってさ。あいつ、絵に描いたようなクズだけど。コミュニケーションってコツがあんだよな。ああいう人種は、仕事をきっちりやる寡黙な真面目ちゃんよりも、馴れ馴れしくしてくる若者の方が好きなわけ。
 俺、よく課長と飲むんだけど。少し酔ってきた時に辻さんのことを話に挙げるとさ。悪口で結構盛り上がるんだわ。そう考えると、悪評の発端は課長なのかもな」
 熱が入っていたようで、俺は矢継ぎ早に喋り続ける。そんな自分を見る理乃の目が、氷柱のように冷たいことにも気がつかないほどに。
「最低です」
「は?」
「あなた。最低の人間ですよ」
「へえ」
 そこで俺は理乃に近寄る。彼女はわずかにあとずさるも、毅然とした表情を変えることなく、俺を睨む。
「さっきから何?お前、辻さんのこと好きなの?」
「はい」
 間髪入れずに、理乃は肯く。
「…驚いた」
 俺はその眼差しと態度から、彼女が本心を話していることを察した。また同時に、心の中に嫉妬の感情が少し芽生えた。
 ——彼女は、やめとけ。
 何がやめろだ。結局は自分が狙っていた、それだけではないか。
「私が彼と交際しているなんて、噂を広めてもらっても全然構いません。でも、彼の悪評を広めるのはやめて。このままだと、私もこのことを上に言わざるを得なくなる」
 それだけ吐き捨てると、話は終わりと言わんばかりに、理乃はその場を立ち去った。

 なんだか、白けちまったんだよな。
 その時の俺は、彼女の態度に、苛々よりも脱力感を覚えた。俗な言い方をすれば、萎えたというやつだろうか。
 これがシリアスドラマか何かであれば、俺は逆上し、彼女を殺してしまう——なんてこともあるかもしれない。しかし現実は、そんな安易な理由で人を殺めようなんて思い立つ程、それは容易なものではない。
 というより、俺の心は何故か安心していた。
 なんだよ、辻さん。
 あんたにもいるじゃないか、味方が。
 俺はその日、久しくぐっすりと眠れた気がした。何故だろう。下に見ていた先輩が実は、客観的に見て美人といえる後輩に好かれていた。これが、蔑むだけの対象ではない。そう思えたからなのかもしれない。
 つくづく単純な性格だなと、俺は思う。
 だから、これからは一緒に働いてやってもいいかなと思い始めていた、その時だ。理乃が殺されたのは。

 それから今。こうして辻が会社を休んでいる。
 無関係とは思えないのが、本音だった。
「そういえば…」
 そこで俺はまたも一人、呟いた。
 思い返すとおかしなことに気がついたのだ。
 俺は別に、辻の悪評を広めるつもりはなかった。単に美沙や杏奈と話す時、彼のことを話題にすると盛り上がるから、というだけであって事実広めたのはあの二人に違いない。
 しかし、
 付き合っているとか好きだとか、はっきり言ってどうでも良い。彼を陥れるネタになるとわかれば話しているはずだから、記憶に無ければはっきりと言い切れる。
 噂の大元は、誰なのだろうか。
 
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