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第六章 さよならと笑顔
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彼女の両手は後ろ手で押さえつけられている。
田上は空いた一方の手で、深青の首筋にそれを押し付けていた。先が銀色のそれは、どの家にも一個はあるだろうもの。鋏だ。武器にするには心許ない。しかし今の状況、凶器としては遜色ないどころか恐ろしい。
「動くなよ。お前が動いたら、この子のここにこれを刺す」
田上はぐいっと、鋏の平たい部分で深青の首を持ち上げる。苦しそうに唸る深青。冷や汗が、こめかみから流れ出てきた。
「何をしているのか、わかってんのかっ」
俺がそう叫ぶと、田上は目を細めた。
「円城も同じように、俺にそう言っていたなぁ」
急速に頭へと血が昇る感覚。血管が千切れそうな。俺は、必死に自制する。そんな俺を見て、田上は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「飛び降りろ」
「…は?」
「聞こえなかったのか。飛び降りろって言ってんだよ!」
どこから。それは聞かずともわかった。この場所の縁は崖になっているのだから。
「落ちたら、死ぬ。だろ?」
田上は高らかに笑う。
「お前、俺を落とすつもりだったな?こんなところで一緒に死ぬっていうんなら、それしかないよな。それなら、お前から逝けよ」
下卑た視線を深青に向ける。
「お前が死ねば、あとはこの子だけだ。二人とも、仲良く死んでくれればそれでいい。そうすれば、今度こそ本当に、俺は安心できる。そうだろ?」
「そんなわけ…」
「あああもう良い。どっちだって良い」
田上は声を涸らし、咳き込みながらも俺を睨む。
絶体絶命。脳裏にその言葉が浮かんでいた。油断していた、といえばそうだ。数秒前の自分を顧みては唇を噛む。
このまま俺が落ちなければ恐らく…いや、確実に深青は殺される。かといって俺が落ちたとしても、田上が深青を助けるかといえばそんな根拠はない。体格差もあるのだ。その先は見えていた。
「ほら、早くしろ」
「そんなこと、俺には」
「飛び降りろよ!」
田上の声が怒声に変わる。どうすれば良い。俺は…
大丈夫。
声が、聞こえた。
俺はハッとした。それから深青に視線を合わせる。彼女は顔を苦痛に歪め、呻いているだけで俺を見ていない。つまり、彼女は声を発していない。
深青は大丈夫。
「えっ」
声は後ろから聞こえてきていた。
俺は振り返る。そこには誰もいない。当然だった。
龍介さん、ここであなたが彼に立ち向かっても、深青は大丈夫。心配いらないの。
田上の怒声も、耳に入らなくなっていた。
視界が歪んだ。
涙が出てきていた。
じんわりと顔が熱くなった。
この声は、彼女の——。
だから、立ち向かって。
自然と顔を、田上と深青に戻していた。
あの子を、深青を助けて。
途端、俺の足は動いていた。勢いよく、田上に向かって走り出す。田上は、俺の突然の所作に一瞬ギョッとする。その動揺を俺は見逃さない。そのまま二人に体当たりをして、三人で推し倒れる形となった。
「深青!逃げろ!」
俺は叫ぶ。同時に腹部に強い痛み。激痛に顔を歪めつつ、痛みの出所へと目を向けると、右脇腹に鋏が突き刺さっていた。田上が息も絶え絶え、勝ち誇ったかのように笑みを浮かべる。
刺された箇所が熱い。芋虫のように体をくねらせるも、痛みが消えることはない。地面を照り返す太陽の日差し。蝉の声に、遠くから聞こえる海の音。こんな時でさえ、雑念が入る。
「深青…」
彼女は、逃げただろうか。
視界がぼやけてくる。遠くの方から、サイレンの音が聞こえた気がした。しかしもはや何も感覚がなくなっていた。
眠い。とてつもなく眠い。
それから寒い。真夏だというのに。
瞬きをするのも億劫になって、俺はそろそろと目を閉じた。するとまるで舞台の幕のように、するすると瞼の裏もまた暗くなっていく。
そうして、俺は意識を失った。
田上は空いた一方の手で、深青の首筋にそれを押し付けていた。先が銀色のそれは、どの家にも一個はあるだろうもの。鋏だ。武器にするには心許ない。しかし今の状況、凶器としては遜色ないどころか恐ろしい。
「動くなよ。お前が動いたら、この子のここにこれを刺す」
田上はぐいっと、鋏の平たい部分で深青の首を持ち上げる。苦しそうに唸る深青。冷や汗が、こめかみから流れ出てきた。
「何をしているのか、わかってんのかっ」
俺がそう叫ぶと、田上は目を細めた。
「円城も同じように、俺にそう言っていたなぁ」
急速に頭へと血が昇る感覚。血管が千切れそうな。俺は、必死に自制する。そんな俺を見て、田上は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「飛び降りろ」
「…は?」
「聞こえなかったのか。飛び降りろって言ってんだよ!」
どこから。それは聞かずともわかった。この場所の縁は崖になっているのだから。
「落ちたら、死ぬ。だろ?」
田上は高らかに笑う。
「お前、俺を落とすつもりだったな?こんなところで一緒に死ぬっていうんなら、それしかないよな。それなら、お前から逝けよ」
下卑た視線を深青に向ける。
「お前が死ねば、あとはこの子だけだ。二人とも、仲良く死んでくれればそれでいい。そうすれば、今度こそ本当に、俺は安心できる。そうだろ?」
「そんなわけ…」
「あああもう良い。どっちだって良い」
田上は声を涸らし、咳き込みながらも俺を睨む。
絶体絶命。脳裏にその言葉が浮かんでいた。油断していた、といえばそうだ。数秒前の自分を顧みては唇を噛む。
このまま俺が落ちなければ恐らく…いや、確実に深青は殺される。かといって俺が落ちたとしても、田上が深青を助けるかといえばそんな根拠はない。体格差もあるのだ。その先は見えていた。
「ほら、早くしろ」
「そんなこと、俺には」
「飛び降りろよ!」
田上の声が怒声に変わる。どうすれば良い。俺は…
大丈夫。
声が、聞こえた。
俺はハッとした。それから深青に視線を合わせる。彼女は顔を苦痛に歪め、呻いているだけで俺を見ていない。つまり、彼女は声を発していない。
深青は大丈夫。
「えっ」
声は後ろから聞こえてきていた。
俺は振り返る。そこには誰もいない。当然だった。
龍介さん、ここであなたが彼に立ち向かっても、深青は大丈夫。心配いらないの。
田上の怒声も、耳に入らなくなっていた。
視界が歪んだ。
涙が出てきていた。
じんわりと顔が熱くなった。
この声は、彼女の——。
だから、立ち向かって。
自然と顔を、田上と深青に戻していた。
あの子を、深青を助けて。
途端、俺の足は動いていた。勢いよく、田上に向かって走り出す。田上は、俺の突然の所作に一瞬ギョッとする。その動揺を俺は見逃さない。そのまま二人に体当たりをして、三人で推し倒れる形となった。
「深青!逃げろ!」
俺は叫ぶ。同時に腹部に強い痛み。激痛に顔を歪めつつ、痛みの出所へと目を向けると、右脇腹に鋏が突き刺さっていた。田上が息も絶え絶え、勝ち誇ったかのように笑みを浮かべる。
刺された箇所が熱い。芋虫のように体をくねらせるも、痛みが消えることはない。地面を照り返す太陽の日差し。蝉の声に、遠くから聞こえる海の音。こんな時でさえ、雑念が入る。
「深青…」
彼女は、逃げただろうか。
視界がぼやけてくる。遠くの方から、サイレンの音が聞こえた気がした。しかしもはや何も感覚がなくなっていた。
眠い。とてつもなく眠い。
それから寒い。真夏だというのに。
瞬きをするのも億劫になって、俺はそろそろと目を閉じた。するとまるで舞台の幕のように、するすると瞼の裏もまた暗くなっていく。
そうして、俺は意識を失った。
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