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終章 彼女は蜃気楼だった
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しおりを挟む数メートル先の足下付近には、手のひらサイズ程度の石が立っている。
海面から少しだけ上、切り出した小さな崖のところだった。ここが良いな。俺は、彼女にそう言われた気がした。
だからここにした。この、海がよく見える場所に。
俺は石の近くに寄ると、よっこらせと腰を下ろす。真夏だが、爽やかな情景だった。木陰なだけに日光は夏のデザインの一つになりきっていた。木々のさざめきが、心地よく肌を撫ぜる。煙草を取り出して火をつけると、煙はパステルブルーの空へと、高く舞い上がった。
石の前に、花を置く。俺は彼女との思い出を振り返る。
理乃との交際期間は、たった数ヶ月のことだった。なのにこれだけ記憶に残るのは…彼女のためにあの時無茶をしたというのも、そう。人と人との仲が深まるのは、時間が問題ではなく、関わり方の問題なのかもしれない。密度が濃ければ、それは薄く長い関係に勝るのは当然の話だった。
数分はそうしていただろうか。ちょうど一本、煙草を吸い終えたぐらいのところで、後方からじゃりじゃりと、砂を踏み鳴らすような音が聞こえてきた。
「龍介さん」
俺は座ったままの体勢を捻り、後方を見る。
十メートル程度先のところに、女が立っていた。円城理乃、ではない。彼女は亡くなった。雰囲気は似ているが、彼女は違う。しかし面影は残る。
深青が、そこにいた。
「お久しぶりです」
深青は近づくと、ぺこりと頭を下げた。俺は立ち上がり、彼女と対面する形で立つ。
あれから三年が経過していた。二十二歳だった彼女も、今では二十五である。学生らしい幼さは抜けつつも、凛とした顔つき、容姿端麗な様は変わりがない。大きく変わったところで言えば、あの頃はロングヘアだった黒髪が、肩の上あたりで揃えるまでに短くなっていることだろうか。
「どうしてここに?」
俺の質問に、深青はくすりと笑みを浮かべた。
「龍介さんに会いにきたんです」
「俺に?」
深青は強く肯く。「あなたに会うために、結構苦労したんですよ。三年前、私が会いに行ったらもう退院したっていうから」
俺は三年前を思い返した。
田上に腹部を鋏で刺された俺だったが、当たりどころが良かったのか、致命傷は避けることができたようだ。しかしながら、突然のことで体が強くショックを受けたようで、わずかながらも、生死の境を彷徨うことになった。
意識を失う間際に聴いたサイレンの音は間違いではなかったようで、あのあとすぐに警察が到着したらしい。経緯は不明だが、動画配信サイトで有名な配信者が、深青の行方を探していたのだという。
俺が田上と話しているところで、深青は車の中、配信者にダイレクトメールを送った。私はここにいる。警察を向かわせてくれと。
田上は警察の姿を見た瞬間、すぐに降参した。今は、理乃の殺害に加えて俺の未遂も加わり、当分は刑務所で服役する形となった。
「龍介さんとお姉ちゃんが働いていた会社にいったんです。でも、門前払いされちゃって」
「はは。でも、あそこはあの後すぐに辞めたんだ」
俺は今、西尾の知り合いのオーナーが開いた店で働いている。これまでとは畑違いの仕事だが、少なからずやりがいを感じて生きていられている。
「聞きました。いや…聞けました、ようやく」
「深青は今、何をしているんだ」
聞くと、彼女はポケットから黒い物を取り出した。刑事ドラマで一度は見たことがある。警察手帳だ。
「今は所轄の刑事です」
手帳を仕舞うと、深青は海風になびく髪を耳にかける。
「それを使って、TNSに聞き込みを?」
「ええ」
「今更だし、それに職権濫用だ」
「良いじゃないですか。でも、お陰様で色々知ることができて。あなたが仕事を辞めたこともそうですが、お姉ちゃんが働いていた所を見ることができましたし」
「そっか」
俺は足下の石に目をやる。深青は目を細める。
「お墓ですか」
「まあ、そんなところだな」
「お姉ちゃんの指、ですよね」
「ああ」
俺は肯いた。
三年前、俺は理乃の死を目の当たりにした。
明らかに他殺体だったそれを見て、俺は悲しみを通り越して怒りが湧いた。
俺は犯人を探し、殺すつもりだった。しかし彼女の指に残る犯人の血痕…DNAは、残したままでいれば、犯人は特定されるに違いない。
「このこと、ホテルで話したっけな」
「はい」
「あの時は、おかしくなってた。犯人を殺すって、息巻いて。だからといって、彼女の指を切断するなんて。全てが終わって。彼女の指を見て、俺は俺のしたことがひどく惨たらしいことだって実感した。同時にさ、俺の中で分かったんだ」
「何がです?」
「理乃の復讐だって考えてたが、そんなことはないんだ。三年前のあれは、俺の復讐だったんだよ。つまり、そこでも彼女の尊厳を侮辱した。…俺もあいつと同罪だよ」
「そんなことはありません」
「いや、深青もわかっていたはずだ。そうじゃなければ、俺が田上を殺そうとするのを、止めるような真似はしないさ。俺が独りよがりで復讐をしようとしていることに気がついて」
「違います」
深青は俺の主張をばっさりと切るように、はっきりと口にした。
「何が違うんだ」
「たとえ独りよがりの復讐でも、お姉ちゃんのことをあなたが愛していたってことだから。それを私は否定しません。それに…私も同じだから」
深青の言葉に、俺は口をつぐむ。彼女は、意を決したように俺を見た。
「三年前に、言ってなかったことがあります」
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