精霊の守り人

つなさんど

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封印の箱

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「待て」

源兵衛の声は小さかったが、不思議な力を持って化け物の唸り声を鎮める。ガマは不満げに口を閉ざすと、咥えた千代の体を深く飲み込むように引き込んだ。

源兵衛は、毒液で焼け焦げた衝立の残骸を一瞥し、そして、静たちが消えた廊下の闇を見つめる。その顔には、一切の焦りがなかった。

「……逃がして良いのですか、源兵衛様」

ガマの喉の奥から、くぐもった声が響いた。それは、化け物そのものではなく、化け物を操る何者かの声のようだった。

「良いのだ」源兵衛は静かに応じた。「どうせ、あの子の帰る場所は一つしかない。それに、あの老兵(ろうひょう)は、毒を浴びた。毒は体内に残っておる」

源兵衛は、再び薄気味悪い笑みを浮かべた。

「あの老兵、綾と申したか。あれが毒を浴びた身体で、無理に動き回れば、毒の巡りは却って早くなる。まもなく、あの子の唯一の盾は崩れ落ちるだろう」

彼はゆっくりと中庭を横切り、まるで自分の屋敷であるかのように悠然と縁側に上がった。静を追う必要はない。源兵衛には、静がどの道を選ぶかが、既に見えているのだ。

「あの箱は、呪いの器。それを手放さず、災いを解き放った娘御の行く末は決まっている。いずれ、自分からあの箱を抱え、儂の元へ泣きつくほかなくなる。今宵出向いていけば良いだけの事。その方が都合も良い。まあ、最も知りすぎた娘を生かしておく理由はないがな」

源兵衛は、汚れた着物の袖を払い、まるで優雅な散歩でもしているかのように、月明かりの中を歩き始めた。彼の目的は、静を捕らえることではなく、静を絶望の淵に追いやること。

そして、その絶望の先に、静が自ら封印の箱を差し出すよう、外堀を埋めていくことだった。
綾は、毒を浴びた身体を必死に動かし、静を夜闇の中、自宅へと急がせた。しかし、源兵衛の言う通り、無理な動きは毒の巡りを速めた。長崎奉行の家の屋敷跡に着く頃には、綾の顔色は土気色に変わり、呼吸は浅く、途切れ途切れになっていた。

「お嬢様……お嬢様……」

土間に倒れ込んだ綾は、静の腕の中で震える手を握った。その手はすでに冷たくなり始めていた。

「綾さん! しっかりして!」

静の懇願にも、綾はか細い声で、ただ一つの言葉を絞り出す。

「あの箱だけは……何があっても、手放してはなりませぬ……あれは……あれはお嬢様の命そのもの……」

綾は、静の未来を祈るように、最期の力を振り絞ってその言葉を静の心に叩き込むと、そのまま静かに息を引き取った。

血のついた衝立の残骸を持ち、毒を浴びながらも自分を守り抜いた忠実な使用人の亡骸を前に、激しい後悔と怒りに震えた。

(私が決断を迷ったせいで、千代が。そして、綾さんまで……)

源兵衛の言葉が脳裏にこだまする。「すべて、お嬢様、あなたのせいだ」。そして、この災いの元凶は、すべてあの黒漆の箱なのだ。

綾は「守れ」と言った。だが、静の心は完全に逆の決断に傾いていた。

(こんなものが、私の命だって言うの?違う。これは紛れもなく呪いだ。呪い以外の何物でもない。これがある限り、私は、大切な人たちを、この箱のせいで失い続ける)

静は涙を拭い、荒い息を整えた。もはや自分の命などどうでもいい。この忌まわしい因縁を断ち切るには、源兵衛に渡してしまうのが最善なのだ。この災いを、すべて終わらせるために。


静は提灯も持たず、闇に慣れた目だけで蔵の奥へと向かった。

土壁に囲まれた蔵の中は、古木の匂いと、冷たい空気が満ちている。埃を被った家宝や骨董品の山を掻き分け、静はついに、壁際に置かれた件の封印の箱の前にたどり着いた。

黒漆が塗られた箱には、幾重にも古い紙垂(しで)のような和紙の封印が貼られている。静が触れようとすると、箱の表面から、強い拒絶の念のような冷気が放たれた。

静は決意した。

「もうたくさんだ。あなたごと、源兵衛にくれてやる!」

震える指先で、静がその箱の蓋に触れ、わずかに持ち上げようとした、その瞬間――。

暗闇を切り裂く、虹色の光が溢れ出した。

箱の内部から噴き出したその光は、黒漆の蓋の僅かな隙間から溢れ出し、蔵全体を鮮やかに照らし出す。それは、蝋燭の火や月明かりのような柔らかな光ではなく、まるで千の宝石が一斉に輝いたかのような、強烈で純粋な輝きだった。

光は静の身体を包み込み、その熱さに静は思わず箱から手を離した。

(これは……何だ? 妖の呪いではない……)

光がわずかに収束すると、箱の開いた隙間から、何かが飛び出した。それは、手のひらに乗るほどの大きさの、光り輝く小刀(こがたな)のようなものだった――あるいは、刀の形をした結晶。

それは静の前に浮かび上がり、澄んだ鈴のような音を立てた。その音は静の心に直接響き、源兵衛の呪いの言葉で凝り固まっていた恐怖と罪悪感を、一瞬にして打ち破るのだった。
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