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鞍馬の背負うもの
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「待て、松本巡査」
一刀は、その傲慢な言葉を遮った。
「なぜ、そこまで出世したい? お前は、ただの欲に目が眩んだ男ではないはずだ。命が助かった子供を見て、刀を収めた人間に、それほどの望みがあるのなら、聞いておきたい」
静もまた、松本の冷酷さの裏に隠された人間的な葛藤を感じ取り、静かに松本を見つめた。
松本は、一刀の鋭い問いに、一瞬ふてぶてしさを失った。彼の顔に、悲しみと、諦念(ていねん)のような影が落ちる。彼は周囲の目を気にせず、深い呼吸をした。
「……五つ下の弟がいた」松本は低い声で話し始めた。
「俺は、貧乏な長屋育ちだ。あいつは頭が良かった。医者になるのが夢だった。だが、疫病に罹った。この時代、金がなきゃ、まともな医者にも薬にもありつけねぇ」
松本の視線は、先ほどまで子供が苦しんでいた地面に向けられている。
「俺は、あの時、何もできなかった。無力な巡査の給金じゃ、弟を助ける金も力もなかった。弟は金持ちの家の子だったら助かったのにと言って、死んでいった。悔しいじゃねえか、原因が分かっているのに、何もないって言うだけで理不尽に命を落とさなけりゃならないってのはよ」
松本は、ふと顔を上げて、一刀を睨んだ。その目は、憎しみに満ちていた。
「だからよ。俺は出世する。権力と金を手に入れる。学校も建てられるし、病院も作れる。そうすりゃ、もう誰も、世間の難儀で死なねぇようにできる。俺自身も、誰にも頭を下げることのねぇ人間になれる」
松本の言葉は、単なる私欲ではなく、過去への復讐と、弱い者を守りたいという歪んだ正義感に根ざしていた。
「小松って野郎は、俺のその望みを知ってやがる。だから、条件を出した。源兵衛がどうだろうが知らねぇ。俺は、弟を殺した世の中と戦ってんだ。お前らの神様の難儀と戦ってんだ!」
松本はそう言い放つと、刀を鞘に強く収めた。彼の出世への執着は、悪魔の力を利用しようとする源兵衛とは異なり、この明治の世の不平等な現実が生み出した、新たな歪みだった。
小松少警部からの冷徹な追及を受け、再び追跡任務を命じられた松本は、急ぎ調達させた馬車の中で、重い沈黙を保っていた。彼の胸中には、小松への底知れぬ恐怖と、裏をかかれた屈辱が渦巻いていた。しかし、それ以上に彼の心を支配していたのは、弟の記憶だった。
松本は、馬車の揺れに合わせて、懐に忍ばせていた人相書きをぎゅっと握りしめた。
(ちくしょう。俺はただ、出世して、弟を救えなかったこの不公平な世の中を変えたいだけだというのに……)
彼の弟、慎太郎(しんたろう)は、兄とは正反対の心優しい青年だった。松本が巡査となり、荒くれた現場の仕事に明け暮れるのを見て、慎太郎はいつも言っていた。
「兄貴。僕は病気や怪我で苦しむ人を救う医者になるよ。貧乏な家の子でも、安心して治せるように。兄貴がこの世の不正と戦うなら、僕はこの世の苦しみと戦う」
慎太郎の夢は、単なる医者ではなかった。貧しい者には分け与え、疫病が流行れば身を挺して人々の命を救う、仁(じん)の心を持った医師を志していた。それは、松本が権力と金で世の中を変えるという歪んだ動機を持つに至った、最も純粋な願いの裏返しでもあった。
松本は、なぜ自分がこんなにも出世に執着するのか、改めて自問した。それは、金や地位そのものではなく、無力な自分への決別だ。そして、慎太郎を奪った難儀という理不尽な力への、血を吐くような復讐心だった。
(あの野郎どもを捕まえさえすりゃ、俺は小松の掌から抜け出せる。俺の功績で、慎太郎のような死に方をする人間がいなくなるんだ)
松本は、光の短刀を持つ一刀と、その傍らにいる静の顔を思い浮かべた。彼らを捕らえることが、弟との悲しい約束を果たす唯一の方法だと信じ込み、松本の表情は、冷徹な狩人のものへと変わっていった。
馬車が山間の道を進むにつれ、松本は弟の慎太郎の記憶を追っていたが、その思い出の端には必ず、昼間の茶屋での一刀と静の姿が張り付いて離れなかった。
「……あの野郎どもめ」
松本は、虚空に悪態をついた。
子供を救うため、一刀が光の義手をかざした時、その顔にあったのは、松本が今まで見てきた悪党や裏社会の人間とは似ても似つかない、研ぎ澄まされた真剣さだった。隣の静も、自分が指名手配犯であることなど忘れたかのように、母親を助け、ただひたすらに目の前の命を救おうとしていた。
(ちくしょう、あれが芝居だというのか?)
松本の心臓に、良心という名の虫が這い上がってくる。
あの時の一刀の眼差しには、「世間の難儀を打ち払う」という、松本自身が弟のために抱いたはずの強すぎる使命感にも似た感情と同じ匂いのするものが宿っていた。それは、慎太郎が病人を診る時の、あの曇りのない目に酷似していたのだ。
——無垢な人たち皆殺しにしてよお。
自分が突きつけた人相書きの言葉が、脳内で虚しく響く。本当に彼らが人殺しならば、なぜ命がけで逃亡している最中に、自分たちを捕らえに来た巡査の前で、何の得にもならない他人の子供を救う必要があったのか。
もし、一刀と静の主張——自分たちは源兵衛に嵌められ、この災いを止めようとしている守り人だ——が真実であるならば、松本は今、弟の願いを継ぐべき人間を、自分の出世のために追っていることになる。そして、小松少警部は、その松本の歪んだ功名心を利用して、より大きな悪事を企んでいることになる。
松本は、奥歯を強く噛み締めた。
(たわごとだ。あんな光る腕を使う奴が、真っ当なはずがねえ。悪党ってのは、最もらしく善を演じることで、人を欺くもんなんだ)
松本は、弟の死という過去の理不尽に深く根ざした不信感で、一刀たちの真摯な行動を無理やりねじ伏せた。自分は、人相書きという目に見える真実を信じる。そう決意することでしか、松本は、弟を殺した世の理不尽と戦い、小松の掌から抜け出すという、自らの使命を続けることができなかったのだ。
「……出世だ。俺は、俺の道を行く」
松本は荒々しく呟くと、馬車をさらに加速させた。その道は、弟の願いを叶える道でありながら、弟の持つ純粋さから、最も遠い場所へと続いていた。
一刀は、その傲慢な言葉を遮った。
「なぜ、そこまで出世したい? お前は、ただの欲に目が眩んだ男ではないはずだ。命が助かった子供を見て、刀を収めた人間に、それほどの望みがあるのなら、聞いておきたい」
静もまた、松本の冷酷さの裏に隠された人間的な葛藤を感じ取り、静かに松本を見つめた。
松本は、一刀の鋭い問いに、一瞬ふてぶてしさを失った。彼の顔に、悲しみと、諦念(ていねん)のような影が落ちる。彼は周囲の目を気にせず、深い呼吸をした。
「……五つ下の弟がいた」松本は低い声で話し始めた。
「俺は、貧乏な長屋育ちだ。あいつは頭が良かった。医者になるのが夢だった。だが、疫病に罹った。この時代、金がなきゃ、まともな医者にも薬にもありつけねぇ」
松本の視線は、先ほどまで子供が苦しんでいた地面に向けられている。
「俺は、あの時、何もできなかった。無力な巡査の給金じゃ、弟を助ける金も力もなかった。弟は金持ちの家の子だったら助かったのにと言って、死んでいった。悔しいじゃねえか、原因が分かっているのに、何もないって言うだけで理不尽に命を落とさなけりゃならないってのはよ」
松本は、ふと顔を上げて、一刀を睨んだ。その目は、憎しみに満ちていた。
「だからよ。俺は出世する。権力と金を手に入れる。学校も建てられるし、病院も作れる。そうすりゃ、もう誰も、世間の難儀で死なねぇようにできる。俺自身も、誰にも頭を下げることのねぇ人間になれる」
松本の言葉は、単なる私欲ではなく、過去への復讐と、弱い者を守りたいという歪んだ正義感に根ざしていた。
「小松って野郎は、俺のその望みを知ってやがる。だから、条件を出した。源兵衛がどうだろうが知らねぇ。俺は、弟を殺した世の中と戦ってんだ。お前らの神様の難儀と戦ってんだ!」
松本はそう言い放つと、刀を鞘に強く収めた。彼の出世への執着は、悪魔の力を利用しようとする源兵衛とは異なり、この明治の世の不平等な現実が生み出した、新たな歪みだった。
小松少警部からの冷徹な追及を受け、再び追跡任務を命じられた松本は、急ぎ調達させた馬車の中で、重い沈黙を保っていた。彼の胸中には、小松への底知れぬ恐怖と、裏をかかれた屈辱が渦巻いていた。しかし、それ以上に彼の心を支配していたのは、弟の記憶だった。
松本は、馬車の揺れに合わせて、懐に忍ばせていた人相書きをぎゅっと握りしめた。
(ちくしょう。俺はただ、出世して、弟を救えなかったこの不公平な世の中を変えたいだけだというのに……)
彼の弟、慎太郎(しんたろう)は、兄とは正反対の心優しい青年だった。松本が巡査となり、荒くれた現場の仕事に明け暮れるのを見て、慎太郎はいつも言っていた。
「兄貴。僕は病気や怪我で苦しむ人を救う医者になるよ。貧乏な家の子でも、安心して治せるように。兄貴がこの世の不正と戦うなら、僕はこの世の苦しみと戦う」
慎太郎の夢は、単なる医者ではなかった。貧しい者には分け与え、疫病が流行れば身を挺して人々の命を救う、仁(じん)の心を持った医師を志していた。それは、松本が権力と金で世の中を変えるという歪んだ動機を持つに至った、最も純粋な願いの裏返しでもあった。
松本は、なぜ自分がこんなにも出世に執着するのか、改めて自問した。それは、金や地位そのものではなく、無力な自分への決別だ。そして、慎太郎を奪った難儀という理不尽な力への、血を吐くような復讐心だった。
(あの野郎どもを捕まえさえすりゃ、俺は小松の掌から抜け出せる。俺の功績で、慎太郎のような死に方をする人間がいなくなるんだ)
松本は、光の短刀を持つ一刀と、その傍らにいる静の顔を思い浮かべた。彼らを捕らえることが、弟との悲しい約束を果たす唯一の方法だと信じ込み、松本の表情は、冷徹な狩人のものへと変わっていった。
馬車が山間の道を進むにつれ、松本は弟の慎太郎の記憶を追っていたが、その思い出の端には必ず、昼間の茶屋での一刀と静の姿が張り付いて離れなかった。
「……あの野郎どもめ」
松本は、虚空に悪態をついた。
子供を救うため、一刀が光の義手をかざした時、その顔にあったのは、松本が今まで見てきた悪党や裏社会の人間とは似ても似つかない、研ぎ澄まされた真剣さだった。隣の静も、自分が指名手配犯であることなど忘れたかのように、母親を助け、ただひたすらに目の前の命を救おうとしていた。
(ちくしょう、あれが芝居だというのか?)
松本の心臓に、良心という名の虫が這い上がってくる。
あの時の一刀の眼差しには、「世間の難儀を打ち払う」という、松本自身が弟のために抱いたはずの強すぎる使命感にも似た感情と同じ匂いのするものが宿っていた。それは、慎太郎が病人を診る時の、あの曇りのない目に酷似していたのだ。
——無垢な人たち皆殺しにしてよお。
自分が突きつけた人相書きの言葉が、脳内で虚しく響く。本当に彼らが人殺しならば、なぜ命がけで逃亡している最中に、自分たちを捕らえに来た巡査の前で、何の得にもならない他人の子供を救う必要があったのか。
もし、一刀と静の主張——自分たちは源兵衛に嵌められ、この災いを止めようとしている守り人だ——が真実であるならば、松本は今、弟の願いを継ぐべき人間を、自分の出世のために追っていることになる。そして、小松少警部は、その松本の歪んだ功名心を利用して、より大きな悪事を企んでいることになる。
松本は、奥歯を強く噛み締めた。
(たわごとだ。あんな光る腕を使う奴が、真っ当なはずがねえ。悪党ってのは、最もらしく善を演じることで、人を欺くもんなんだ)
松本は、弟の死という過去の理不尽に深く根ざした不信感で、一刀たちの真摯な行動を無理やりねじ伏せた。自分は、人相書きという目に見える真実を信じる。そう決意することでしか、松本は、弟を殺した世の理不尽と戦い、小松の掌から抜け出すという、自らの使命を続けることができなかったのだ。
「……出世だ。俺は、俺の道を行く」
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