βなんか好きにならない

切羽未依

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前夜

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 久しぶりに母親に起こされて、笙悧しょうりは目を覚ました。
 土曜日も、予備校に行く妹が、部屋の外の廊下を行ったり来たりする足音で、いつも目が覚めるのに。

「笙悧、だいじょうぶ?起きれる?」
「何?…」
「あなた……今日は、行かないの?」
「本番は、明日だよ」
 むにゃむにゃ、笙悧は答えた。――起きてる方のお母さんが、寝ぼけてるなんて、ヘンなの。と思いながら。

「じゃなくて、練習…」
「今日は、行かない…」
「明日、本番なのに、練習しなくて、だいじょうぶなの?」
「ぅぷぷ」
 笙悧は笑ってしまった。心配顔で覗き込んでいる母親を、ベッドに寝たまま、見上げた。


 ピアノを弾いていることを、お母さんに知られないように必死だったのに、ピアノの練習に行かないことを、今、お母さんに心配されていることが、おかしくて仕方なかった。


「もうっ、笑ってる場合?」
 母親は、笙悧を布団の上から叩く。

 笙悧は、笑ってしまう口を、布団を引き上げ、隠して、答えた。
「昨日、リハーサルで、市民文化会館で、ピアノの音量調節したから、別のピアノを弾くと、感覚がおかしくなっちゃうから、今日は、練習しない」
「そうなの?市民文化会館では、練習できないの?」
「今日は、2日目に出る人たちのリハーサルやってる」
「そうなの…」

 昨夜、笙悧が帰った時には、もう妹が予備校から帰っていて、ピアノの話はできなかった。

 妹が部屋の外の廊下を行ったり来たりする足音で、目が覚めないくらい、リハーサルで疲れてたんだなぁ…と、笙悧は思う。

 母親は、ベッドの端に腰掛けた。
「あなたが部屋から出て来ないから、お母さん、心配しちゃった」
「ごめん」
 素直に笙悧は謝った。――昔の笙悧だったら、不眠と空腹で、部屋で動けなくなっていても、おかしくない。

「なのに、あなた、ぐーぐー、寝てるんだもの。一瞬、死んだかと思っちゃった」
「縁起悪いな!」
「本番は、明日なのにね…ちゃんと寝られて、ごはんも、ちゃんと食べられるのね…」
 笙悧は、カーテンを開けていない薄暗い部屋の中、母親の背中を見つめる。


 ありがちだけど、こんなに小っちゃい背中だったかな?と思う。


「笙悧、ほんとはピアノ、続けたかった?」
「ううん」
 母親に、笙悧は即答した。
「もう、あの時は、煮詰まってたからさ。上に詰まってるのが、天才2人だよ?何か、キッカケなかったら、辞められなかったよ」
「そう……――ピアノを弾いてる時は、辞めたいって思わなかった?」
「思わなかった。ピアノを弾くことしか考えてなかった」
「そうね…そうだね……」
 それから母親は何も言わず、しばらくベッドの端に腰掛けていた。
 笙悧は、母親の小さな背中を見つめていた。


 母親は立ち上がると、笙悧を振り返らないまま、言った。
「二度寝するなら、止めないけど…」
「ううん。起きるよ」


 結局、笙悧は、一日中、だらだら、過ごしてしまって、児童館に行けばよかったかなぁ~と、寝る前に、後悔した。


 目を閉じても眠れないのは、朝寝坊した上に、昼寝までしたせいだった。


 朝は、ハムエッグトーストにスープ、昼は、野菜たっぷりうどん、夜は、串揚げを、ちゃんと食べた。もちろん串カツもあって、母親の「勝つ」という無言のプレッシャーに、父親が、うぶうぶ、ウケていた。

 予備校から帰って来た妹には、カツ丼が出された。
「太るぅ~」
 と言いながら、ぺろりと食べた。
 頭、使うと、お腹、減るんだろうね…と、笙悧は、感心した。


 午後には、暖が家に来たのだが、笙悧は昼寝していた。
 明日、笙悧の父親と母親を、車に乗せて、市民文化会館に行くために、暖は、レンタカーを借りて、道の確認と、運転慣らしに行くと言っていたそうだ。

「暖くん、ドライブデートに誘いに来たのに、『明日が本番ですから、起こさなくていいですよ』って、ほんと、やさしすぎる」
 昼寝から覚めた笙悧は、母親に言われて、速攻、暖にLINEを送った。

「すごい渋滞するから、徒歩で来て」

 なかなか既読もつかず、2時間近く経って、既読がつき、暖から返信が来た。

「もっと早く言って」
 いろんな車のスタンプを、1台ずつ、延々ピコン延々ピコン延々ピコン延々ピコン延々ピコン延々ピコンピコン送られた。


 笙悧は目を開けた。枕元のスマホを取り上げ、暖のLINEを見る。渋滞している車の列を見て、また笑ってしまう。
 暖にLINEを送ろうとして、やめた。

「眠れない」なんてLINEを送って、お兄ちゃんを心配させたくなかった。


 宇宙そらに、LINE通話した。
 すぐにつながった。
「ふふっ」
 宇宙の笑い声が、笙悧の耳をくすぐった。
「やっぱ電話して来た」

 隣の部屋で、受験勉強している妹に聞こえないように、こそこそ声で、笙悧は言った。
「電話じゃねえし。」
「緊張して寝れない?」
「今日一日、ごろごろしてたから、眠くなんないだけだよ」
「それなら、児童館に来ればよかったのに。」
 宇宙に言われてしまって、笙悧は、唇をとがらせた。

 自分もそう思ってたけど、宇宙に言われると、何かムカつく。

「今日、一日中いちんちじゅう、児童館に、笙悧、来ないかなぁ~って思って、マイナゲートを、ちょこちょこ、見てた」
「児童館の入口のゲート、そんな名前なの?」
「ううん。俺だけが、そう呼んでる」
「ぅぶっ」
 笙悧は口を閉じ合わせ、笑いをこらえた。笑い声なんて響かせたら、隣の部屋の、受験生の妹をイラつかせてしまう。

 マイナンバーカードの認証で通るから、マイナゲートというネーミングは、おもしろくもないが、宇宙だけが、そう呼んでいるのが、おかしかった。


「ちゃんと、子どもたちのお世話しなよ」
 笙悧は、笑いをこらえて震える声で言った。
「ちゃんと、お世話しつつだよ」
 そう答えて、宇宙が笑う。

「何?」
「ちゃんとジャージに、アイロンかけた?」
「っぷ」
 笙悧は、大声で笑ってしまいそうになって、手で口を押さえた。


「本番って、服装、どうするの?」
 ぽぽんたで練習している時、笙悧が、おそるおそる、宇宙に聞くと、希更がショーケースの向こうから聞いて来た。
「笙悧くん、ジャージ、持ってる?」
「やっぱりか~」
 笙悧は声を上げ、うなだれて、頭を抱えた。――その時は、本気で、高校の時の紫ジャージを着て、ピアノを弾くことを覚悟した。
 もちろん、希更の冗談だったのだけれど。


 スマホの向こうの宇宙に、笙悧は答える。
「バッチリだよ」
「俺も、一番カッコいいジャージ、着てくから。」
「マジで、ジャージ着て来そうで、心配になって来た…」
「着てかない着てかない。ちゃんと、スーツだよ」
「スーツ、リハで、汗、かかなかった?ぼく、ズボンだけは、洗濯してもらったよ」
「…まあ、スーツは、持ってるんで。」
 宇宙の詰まった言葉を押し出すような言い方に、笙悧は、枕の上、小首を傾げた。

「笙悧」
「うん?」
「眠れるように、歌ってあげようか」
「うん…」
「ひつじがいっぴ~き、ひつじがにひきぃ~、ひつ~じがさんびき~、」
 宇宙がヘンテコなメロディで、羊を数え出して、笙悧は枕に、ぼふっと、顔を埋めて爆笑した。
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