βなんか好きにならない

切羽未依

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合わない音

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「マジで?!笙悧しょうりくん、ピアノ弾けんの?!座って!弾いて!」
 いわおは叫んで立ち上がる。

「わたしは、邪魔ねえ」
 長椅子から立ち上がるおばあちゃんは、巌にエスコートされて、奥のイートインスペースへ行った。椅子に、こちらを見るために、横向きに座って、わくわく、見ている。
 巌は、おばあちゃんのテーブルの向かいの椅子に横向きに座り、わくわく、こちらを見ている。
 イートインスペースに、まばらにいる客たちまで、わくわく、こちらを見ている。
 ショーケースの向こうの希更も、わくわく、こちらを見ている。


 けれど、自動ドアを開けっ放しに立ったままの笙悧は、リュックを背負った自分の背中が、そんな視線を集めてることを知らなかった。
 首だけを横に向けて、宇宙そらと向かい合っていた。


 料理教室、2回連続ドタキャンなんて、許されないだろ。
 買ったケーキ、どうすんだよ?


 言ってしまってから、現実的な後悔が、笙悧に押し寄せていた。いや、そんなことよりも!


 宇宙さんが何にも言ってくれない!!怒らせたかな?余計なこと、言っちゃったかな?やっぱりピアノなんか弾きたいと思っちゃいけなかった。


 宇宙が首を傾げた。
「弾かないんですか?」
「宇宙さんが…何にも、言ってくれないから…」
「え。でも。ごめん。」
「ごめん」と言われて、笙悧は泣きたくなった。


 やっぱり、伴奏したいなんて言わなきゃよかった。


「えらそうだけど、合わせてみないと、なんとも言えないと言うか…」
 ごにょごにょ、宇宙は言った。

 笙悧の涙は、目の奥に引っ込んだ。
 そうだ。その通りだ。

 笙悧が回れ右すると、希更きさらが、ショーケースの向こうから出て来て、ケーキの箱と、リュックを預かってくれた。
 ケーキの箱とリュックを持って行こうとする希更を、笙悧は呼び止めた。
「すみません、スマホ…」

 希更にリュックを持ってもらったまま、笙悧はファスナーを開け、スマホを取り出すと、料理教室に、2回連続ドタキャンのLINEをした。スマホをリュックに入れて、ファスナーを閉める。

「これから、何か、予定あった?」
 身長差で笙悧のドタキャンLINEの画面を見たわけではなく、状況からさっした希更が心配顔で、笙悧を見上げる。

「いえ。だいじょうぶです。すみません。」
「こっち、今日じゃなくても、明日でもいいんだよ」
 笙悧は、希更を見下ろして、首を横に振った。


「今」じゃなきゃ、決心は、消え失せてしまうにちがいなかった。


「そう?」
 希更の心配顔のまま、ケーキの箱とリュックを持って、イートインスペースへ行った。

 巌が引いた椅子に、希更は座ると、テーブルにケーキの箱を、そばの椅子にリュックを置いた。そして、心配顔で見守る。


 笙悧は、長椅子の端に置かれた楽譜に気付いて、取り上げた。
 楽譜と言っても、白い紙に、手書きで、歌詞とコードが書かれただけのものだ。

 笙悧は、長椅子をまたぐのではなく、きちんと回り込んで、アップライトピアノの前に立つと、譜面台ふめんだいに、楽譜を置いた。長椅子の真ん中に座る。


 笙悧は、楽譜を見渡して、聴いた曲の記憶と、答え合わせをする。
 笙悧が聴き分けた和音コードに、ひとつも誤りはなくて、自分の耳が衰えていないことに、安心した。


 笙悧は、イートインスペースにいる巌に聞いた。
「ぼく、最初から聴いていなかったので…こちらの曲は、イントロはないんですか?」
「イントロね、イントロ。」
 巌は言いながら、イートインスペースからやって来て、宇宙からギターを取り上げ、長椅子の端に座った。

「こんな感じ」
 巌は、イントロを弾いてみせる。
 笙悧は聴き取ったコードを、左手で弾く。
「うんうん、そうそう」
 笑顔で、巌はうなずく。

「すごっ!聴いただけで、弾けるの?!」
 希更が椅子から身を乗り出して、感動の声を上げる。

「俺だって、弾けるよ」
「あなたは邪魔してないで、早く帰って来なさい」
 希更は、巌には、唇をとがらせて言う。イートインスペースの客たちは、くすくす笑う。

「はいはい」
 巌はギターをスタンドに置くと、イートインスペースへ帰って行き、椅子に、おとなしく座った。


 深呼吸した笙悧は、息がしにくくて、マスクを外すと、カーディガンのポケットに入れた。
 もう一度、深呼吸をする。――ここは、甘い、いい匂いがする。

 宇宙の方を、笙悧は見た。
 宇宙は、ふわっと笑った。

「そんな怖い顔しないで。俺まで緊張しちゃう」
 宇宙は椅子を立ち、笙悧に向かって、真っすぐに立つ。


 笙悧は、ピアノの鍵盤の上に、両手を置く。

 カーディガンの袖の厚みで、弾きづらいことに気付いて、脱ぐ。たたんで、長椅子の端に置いた。

 笙悧は、もう一度、宇宙の方を見て、イントロを弾き出す、左手で。右手は、オクターブ上の分散和音アルペジオを、そっと響かせる。



――宇宙が歌い出さない。


 動揺して笙悧がピアノを弾く手を止めるより早く、宇宙が聞いた。
「どこから、歌うの?」


 全員が笑い出す。

 笑い声の中、笙悧は恥ずかしさで顔を赤くしながら、イントロを弾いてみせる。
「ここです、ここ!」
「ほ?」
 宇宙は、歌い出しの一文字目で、聞き返す。

「もう1回。」
「ほ?」
 笙悧がイントロを弾き、宇宙が一文字で聞き返す。
「ちょっと遅い。です」
 笙悧は、うっかり敬語を忘れて、慌てて「です」を付け足した。

「みなさん、少々、お待ちください。歌い出しが決まりません」
 巌が椅子を立ち、イートインスペースの客たちに向かって、上げた手を大きく交差させて振る。
 そして、笙悧を振り返る。
「歌い出しの前で、一拍いっぱく、置いてあげて、笙悧くん。宇宙は、そこで歌い出しな。」


 笙悧と宇宙は、はっとして、巌の方を見て、大きくうなずいた。
 巌は、メガネの奥から、やさしい眼差しで見返して、うんと、うなずき返した。イートインスペースに向き直る。
「歌い出し、決めました、俺が。では、お聴きください」
 巌は椅子に座る。


 笙悧と宇宙は目と目を合わせて、どちらともなく、深呼吸した。
 笙悧はピアノを弾き出す。イントロの後、一拍いっぱくの無音。

 宇宙が歌い出す。

 しまった!
 歌い出しの後の和音が、一瞬、笙悧は遅れてしまった。
 けれど、それで演奏を崩すことなく、ピアノを弾いてゆく。


 途中で、店に客が入ってきたが、ピアノを弾く笙悧は、歌う宇宙を見つめていて、自動ドアが開く音にも、気付かなかった。
 歌う宇宙も、ピアノを弾く笙悧の指を見つめていて、気付かなかった。


 入って来た客に、イートインスペースから希更は、唇の前に人差し指を立てて、それから、両手を合わせて、「今は、シーッで。すみません」と、ジェスチャーで伝える。
 客は、希更にうなずき、自動ドアの前から、右横に一歩、ずれた。自動ドアが閉まる。



 弾き終わって、笙悧は、ほっと、息をつき、息を吸って、嫌な臭いを嗅いだ。反射的に振り返ると、

「合わせにくいな…」
 宇宙のつぶやきが聞こえて、振り返ろうとしていた笙悧の首は、自動ドアの方ではなく、横に向いた。

「俺、友達に、ピアノアレンジしてもらって来る!!」
 巌が叫んで、椅子を倒す勢いで立ち上がり、駆け出し、自動ドアが開くのも、もどかしく、体をねじ込んで、店を出て行った。

「あ~あ~あ~あ~、も~お~お~お~、」
 あきれて希更が頭を抱えて、うなる。

 ゆっくりと手を打ち合わせる拍手の音に、笙悧は自動ドアの方を振り返り、瞳を見開いた。
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