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言い訳
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暖は、笙悧の後に付いて、店を出ると、隣に並んだ。
「危なかったな。笙悧に会わなかったら、ダブルで、ケーキ買っちゃうところだったよ」
甘い、いい匂いに紛れていたαのフェロモンの嫌な臭いが、笙悧に迫って来る。
笙悧は、カーディガンのポケットからマスクを出して、着けた。
夕方の混雑した商店街のアーケードを、マスクの中、鼻に嫌な臭いを吸い込まないように、口だけで息をして、歩く。
「お店を調べたら、いいことが書いていなかったから、心配になって、次の日、見に行ったんだよ。行ったら、店長さんも感じのいい人で、お店の雰囲気もよくて。笙悧のことは、言わなかったよ。ただ、お店を見に行っただけ。笙悧を助けてくれたのって、お店の入口の所にいた方だよね?ごめん、笙悧。お店に行ったこと、言っていなくて。今日は、ケーキを持って、笙悧の家に行こうと思ったんだよ」
ピアノを弾いていたことに触れずに、暖がしゃべり続けていることが、笙悧は、こわかった。
暖は、自分がどうして店にいたのかを、説明していただけなのに。
「ピアノを弾いてたのは、宇宙さんが、そのぉ…」
笙悧は、自分からピアノを弾いていた理由を言い出して、宇宙が弾いていた下手なギターを思い出して、マスクの中、笑いそうになってしまった。
アーケードを抜けて、空が開けた。日は、すっかり暮れていた。
駅までの歩道は混雑していたが、嫌な臭いは、アーケードのように密閉されていない分、薄まる――ような気がする。
アーケードよりは道幅がないので、暖は、笙悧の隣ではなく、後を歩く。
「後で聞く」
暖は、頭を下げて、笙悧の耳元で言った。
嫌な臭いがする。
大好きなのに、暖のαのフェロモンさえ、「嫌な臭い」としか感じられないことが、笙悧は、本当に悲しかった。
エスカレーターに乗り、線路を越えるぺデストリアン・デッキに上がって、駅前の混雑を通り過ぎ、マンションが建ち並ぶ北側へとエスカレーターで降りる。
マンションへ帰る人、大型商業施設の客で、歩道は混雑はしていたが、道幅が広いので、暖は、笙悧の隣を歩く。
笙悧は、話の続きをした。
「ピアノを弾いてたのは、宇宙さんが、そのぉ…あんまりギターが、まだ上手じゃなくて、伴奏してただけなんだよ」
「メガネの人に習っているのを、見たよ。そうだね。まだ、あんまりね…」
暖の声にも苦笑が混じってて、笙悧は、マスクの中、笑いをこらえる。
でも、
「今日、さっきの一度だけだよ、ぼくが伴奏したの。でも、ピアノとは、」
笙悧の声は、勝手に震えた。
「合わなかったみたい」
「そうかな?」
「うん。その前に、巌さん――メガネの人が、ギターで伴奏して、歌ったのは、」
笙悧は、声が詰まる。
あたたかな宇宙の歌声を思い出して、胸が詰まる。
初めてだった。ピアノを辞めてから、「弾きたい」と思ったことは。
宇宙のへたくそなギターを見かねて、伴奏をしたなんて、言い訳だ。
あの歌声と、自分が弾くピアノを響き合わせてみたかった。
「すごくよかったんだよ」
「そうなんだ」
「うん」
信号待ちで立ち止まる。歩行者信号の赤が、笙悧には、滲んで見えた。
ピアノを弾きたいなんて、思っちゃいけなかった――ぼくは、Ωなんだから。
歩行者信号が、滲んだ青に変わり、横断歩道を渡って、マンションのエントランスへ入る。
エレベーターに乗り込むと、暖は自分の家の階のボタンだけを押した。
笙悧は自分の家の階のボタンを押そうとして、暖に手首を掴まれた。
「痛いっ」
笙悧が思わず声を上げるほどの強さだった。
暖は、はっとして、握り締めた手首を離した。
「ごめん…」
うなだれるように謝った。
「ううん、ううん」
笙悧は、ぶんぶん、首を横に振った。
「痛くないよ。びっくりして、思わず『痛い』って、言っちゃっただけ。痛くなんかないよ」
「ごめん…」
暖は、うなだれたままでいる。
エレベーターのドアが、自動的に閉まった。
嫌な臭いが籠って、マスクの中、笙悧は息を止めた。
「少し、ぼくの家で話したいんだ。話すだけ…話すだけだから…」
暖への答えを、笙悧が迷っている間に、エレベーターは、笙悧の家の階を通り過ぎた。
止めてた息を、笙悧は吐き出した。鼻に吸い込まないように、口で息を吸った。
暖の家のリビングルームに入って、笙悧は、どうしたらいいか、困る。
先に入った暖は、ダイニングテーブルの椅子に座らず、立ったままで、背中を向けている。
大きなダイニングテーブルの奥に、暖は立っていて、笙悧は、端に立っている。――これくらい離れていれば、嫌な臭いは感じずにいられた。
「先週、本当に、だいじょうぶだった?」
「――うん。」
暖に聞かれて、笙悧は安心する。――ピアノの話をされるんじゃないかと思っていた。
「遠慮しなくていいんだよ」
「遠慮なんかしてないよ。本当に、だいじょうぶだったんだよ」
先週、笙悧は発情期だった。
でも、発情期とは思えないほど、何ともなかった。
酷い時は、搾り尽くしても、足りないくらいなのに。
「その前に、……シたから。だから、だいじょうぶだったんじゃないかな?」
笙悧は恥ずかしさに頬を熱くしながら、言った。
「そういう時でなくても、来ていいんだよ」
暖に言われて、笙悧は、ますます頬が熱くなった。
発情期でもないのに、そんなこと、できるわけがなかった。
笙悧が答えられずにいると、暖は背中を向けたまま、言った。
「話は、それだけ。――ショートケーキ、もらっていい?」
「いっしょに食べようよ」と笙悧は、食器棚の方へと歩き出す暖の横顔に、言えなかった。
「危なかったな。笙悧に会わなかったら、ダブルで、ケーキ買っちゃうところだったよ」
甘い、いい匂いに紛れていたαのフェロモンの嫌な臭いが、笙悧に迫って来る。
笙悧は、カーディガンのポケットからマスクを出して、着けた。
夕方の混雑した商店街のアーケードを、マスクの中、鼻に嫌な臭いを吸い込まないように、口だけで息をして、歩く。
「お店を調べたら、いいことが書いていなかったから、心配になって、次の日、見に行ったんだよ。行ったら、店長さんも感じのいい人で、お店の雰囲気もよくて。笙悧のことは、言わなかったよ。ただ、お店を見に行っただけ。笙悧を助けてくれたのって、お店の入口の所にいた方だよね?ごめん、笙悧。お店に行ったこと、言っていなくて。今日は、ケーキを持って、笙悧の家に行こうと思ったんだよ」
ピアノを弾いていたことに触れずに、暖がしゃべり続けていることが、笙悧は、こわかった。
暖は、自分がどうして店にいたのかを、説明していただけなのに。
「ピアノを弾いてたのは、宇宙さんが、そのぉ…」
笙悧は、自分からピアノを弾いていた理由を言い出して、宇宙が弾いていた下手なギターを思い出して、マスクの中、笑いそうになってしまった。
アーケードを抜けて、空が開けた。日は、すっかり暮れていた。
駅までの歩道は混雑していたが、嫌な臭いは、アーケードのように密閉されていない分、薄まる――ような気がする。
アーケードよりは道幅がないので、暖は、笙悧の隣ではなく、後を歩く。
「後で聞く」
暖は、頭を下げて、笙悧の耳元で言った。
嫌な臭いがする。
大好きなのに、暖のαのフェロモンさえ、「嫌な臭い」としか感じられないことが、笙悧は、本当に悲しかった。
エスカレーターに乗り、線路を越えるぺデストリアン・デッキに上がって、駅前の混雑を通り過ぎ、マンションが建ち並ぶ北側へとエスカレーターで降りる。
マンションへ帰る人、大型商業施設の客で、歩道は混雑はしていたが、道幅が広いので、暖は、笙悧の隣を歩く。
笙悧は、話の続きをした。
「ピアノを弾いてたのは、宇宙さんが、そのぉ…あんまりギターが、まだ上手じゃなくて、伴奏してただけなんだよ」
「メガネの人に習っているのを、見たよ。そうだね。まだ、あんまりね…」
暖の声にも苦笑が混じってて、笙悧は、マスクの中、笑いをこらえる。
でも、
「今日、さっきの一度だけだよ、ぼくが伴奏したの。でも、ピアノとは、」
笙悧の声は、勝手に震えた。
「合わなかったみたい」
「そうかな?」
「うん。その前に、巌さん――メガネの人が、ギターで伴奏して、歌ったのは、」
笙悧は、声が詰まる。
あたたかな宇宙の歌声を思い出して、胸が詰まる。
初めてだった。ピアノを辞めてから、「弾きたい」と思ったことは。
宇宙のへたくそなギターを見かねて、伴奏をしたなんて、言い訳だ。
あの歌声と、自分が弾くピアノを響き合わせてみたかった。
「すごくよかったんだよ」
「そうなんだ」
「うん」
信号待ちで立ち止まる。歩行者信号の赤が、笙悧には、滲んで見えた。
ピアノを弾きたいなんて、思っちゃいけなかった――ぼくは、Ωなんだから。
歩行者信号が、滲んだ青に変わり、横断歩道を渡って、マンションのエントランスへ入る。
エレベーターに乗り込むと、暖は自分の家の階のボタンだけを押した。
笙悧は自分の家の階のボタンを押そうとして、暖に手首を掴まれた。
「痛いっ」
笙悧が思わず声を上げるほどの強さだった。
暖は、はっとして、握り締めた手首を離した。
「ごめん…」
うなだれるように謝った。
「ううん、ううん」
笙悧は、ぶんぶん、首を横に振った。
「痛くないよ。びっくりして、思わず『痛い』って、言っちゃっただけ。痛くなんかないよ」
「ごめん…」
暖は、うなだれたままでいる。
エレベーターのドアが、自動的に閉まった。
嫌な臭いが籠って、マスクの中、笙悧は息を止めた。
「少し、ぼくの家で話したいんだ。話すだけ…話すだけだから…」
暖への答えを、笙悧が迷っている間に、エレベーターは、笙悧の家の階を通り過ぎた。
止めてた息を、笙悧は吐き出した。鼻に吸い込まないように、口で息を吸った。
暖の家のリビングルームに入って、笙悧は、どうしたらいいか、困る。
先に入った暖は、ダイニングテーブルの椅子に座らず、立ったままで、背中を向けている。
大きなダイニングテーブルの奥に、暖は立っていて、笙悧は、端に立っている。――これくらい離れていれば、嫌な臭いは感じずにいられた。
「先週、本当に、だいじょうぶだった?」
「――うん。」
暖に聞かれて、笙悧は安心する。――ピアノの話をされるんじゃないかと思っていた。
「遠慮しなくていいんだよ」
「遠慮なんかしてないよ。本当に、だいじょうぶだったんだよ」
先週、笙悧は発情期だった。
でも、発情期とは思えないほど、何ともなかった。
酷い時は、搾り尽くしても、足りないくらいなのに。
「その前に、……シたから。だから、だいじょうぶだったんじゃないかな?」
笙悧は恥ずかしさに頬を熱くしながら、言った。
「そういう時でなくても、来ていいんだよ」
暖に言われて、笙悧は、ますます頬が熱くなった。
発情期でもないのに、そんなこと、できるわけがなかった。
笙悧が答えられずにいると、暖は背中を向けたまま、言った。
「話は、それだけ。――ショートケーキ、もらっていい?」
「いっしょに食べようよ」と笙悧は、食器棚の方へと歩き出す暖の横顔に、言えなかった。
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