βなんか好きにならない

切羽未依

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巡り逢えたら

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 料理教室の先生から、DMが来た。
「ご都合がつかなかった方たちだけで
 教室を開きます。
 よろしかったら、おいでください」

 毎月の発情期や、突発的な発情で、行けなかったΩのために、補習のように、料理教室を開いてくれるのだ。

 笙悧しょうりは返信した。
「ありがとうございます
 参加します
 よろしくお願いします」


 考えてみれば、ネットのクチコミで、『バースに配慮したクラス制で、安心して通えます』という評価を見て、この料理教室に通い始めたのだから、クチコミも良し悪しだな…と、笙悧は思う。


 笙悧は、行きも帰りも、商店街のアーケードを、ぽぽんたがある方とは反対の方を歩いて、料理教室で、スパニッシュオムレツ、きのこの炊き込みごはん、野菜のポタージュを習って、作って、食べた。


 行きも帰りも、歌もギターも聴こえて来なかった。


 宇宙そらさんがあきらめたとか、まさか、ぼくが来るのを待っているとか、そんなことはないと思う……


 商店街のアーケードを行き帰りするのも、明後日の木曜日と、来週の木曜日、あと2回だけだ。
 大学の夏休みをダラダラ過ごしていて、母親に言われて、通い始めた料理教室だった。秋休みも、来週で終わる。料理教室へ通うのも、終わりだ。


「まだ習ってる最中だからっ」
 笙悧の手料理を食べたがるだんには、そう言い続けていた。
 でも、ら、作らざるを得ない。

 高校生の時から暖は、一人暮らしをしていて、料理どころか、家事は完璧だった。
 明らかに自分の手料理より、味も、見た目もおとる笙悧の手料理を、「美味しい」と、暖が笑顔で食べてくれることを思うと、笙悧は気が進まなかった。


 そんなことを思いながら笙悧は、明るいLEDライトの街灯の下、マンション前の交差点の歩行者信号が、青に変わるのを待っていた。
 信号が青に変わった。
 笙悧は、マンションへ帰る人たちの後に付いて、歩き出す。
笙悧しょうりくん?」
 後ろから名前を呼ばれて、反射的に振り返ってしまった。


 コンビニの明かりに照らされて、肩幅の広い、背の高い影が立っていた。
「ほんとだ。会えた」
宇宙そらさん…」

 宇宙のスニーカーは駆け寄ろうとして、つんのめるように、立ち止まった。
 他の人たちが横断歩道を渡り切った後の、がらんとした交差点の前、一人きり、立っている笙悧から、少し離れたまま、宇宙そらは話す。

「ここでバイトしてる。ずっと。」
 マンションの1階にある、後ろのコンビニを指差した。
「店長さんが、『笙悧くんと巡り逢えた?』って言ってたの、こういうことかぁ…」
 店長さん――希更きさら
 笙悧は鼻先に、ぽぽんたの甘い、いい匂いを思い出す。

「そこで、ちょっと待ってて。楽譜、持って来る」
 宇宙は言って、コンビニに戻ろうとして、笙悧を振り返った。
「逃げても、全速力で追い駆ける」

 その一言は、笙悧から逃亡の意志を奪うには、充分すぎた。
 笙悧が逃げても、あっという間に、追いつかれる。

 宇宙はコンビニへ戻って行った。
 笙悧は、あきらめて、交差点の前ではなく、とぼとぼ、歩いて行って、コンビニの入口の横で、待った。

 コンビニから宇宙そら手提てさげの紙袋を持って、自動ドアが開くのも、もどかしく、出て来た。


 からあげの匂いを、笙悧は嗅いだ。

 この人は、いつも食べ物の匂いがする。
 コンビニで、からあげを揚げているのだろう。

 入口の横で待っていた笙悧が、呼び止めるのに「そ」のくちのかたちになった瞬間には、宇宙そらはじけるように地面を蹴って、駆け出していた。
 宇宙は、交差点の前の信号待ちの人たちの間を、まるでステップを踏む足取りで、きょろきょろ、探す。

 結局、笙悧は、交差点の前へ戻ることになった。
「宇宙さん…」
 目立たないように、小声で笙悧が呼ぶと、きょろきょろしていた宇宙は、信号待ちの人たちの間を、ステップを踏む足取りで、すいすい、抜けて、やって来た。

「逃げたと思った」
「コンビニの入口で待ってました」
「言って~。」
「宇宙さん、足が速いから…」
 話していると、信号が青に変わった。信号待ちの人たちが歩いて行き、また交差点の前は、がらんとして、二人きりになる。

 コンビニの青い制服を着た宇宙は、ぽぽんたの手提てさげの紙袋からクリアファイルを左手で出すと、笙悧に差し出した。
「これ、楽譜。ピアノの。」


 透明のクリアファイルで、楽譜が見える。
 手書きではない、きちんと印刷された楽譜だった。
 五線譜に並ぶ音符を見ただけで、笙悧には、ピアノの音が聴こえる。


 伴奏用の楽譜ではなく、ピアノのための小品しょうひんと呼んでもいいほどの、編曲だった。
 難しいと思うと同時に、弾きたいという気持ちががる。


 けれど、笙悧は、楽譜を受け取れなかった。


いわおさんのバンドのキーボードやってる人が、高校の音楽の先生なんだよ。その人が、ピアノアレンジしてくれた」
 宇宙がねた声で言う。

 笙悧は、マスクの中、喘ぐように息を吸い込み、言った。
「ぼくの伴奏で歌った時、『合わせにくい』って、言ってましたよね?」
「言った。あ、言いました。」
 宇宙は、敬語に言い直す。

「笙悧くんって、何歳?」
 いきなり宇宙に聞かれて、笙悧は、今、聞くこと?と思いながら、答える。
20歳はたちです」
「今年、20歳になった?今年、21歳になる?」
「今年、20歳になりました」
「1つ下だ」
 そうなんだと、笙悧は思っただけだったが、体育会系の宇宙にとって、年齢は、敬語のボーダーラインだった。

 宇宙は話を続ける、敬語なしで。
「初めてで、セットプレーが、ぴったり合うなんて、奇跡だし。練習すれば、何とかなると思う」
「セットプレー」という用語が、笙悧には、わからなかった。ポピュラー音楽の用語は、わからない。

 笙悧は聞いた。
「もう、1ヵ月ちょっとしかないんですよね?」
「もう1ヵ月しかない」
「……市民祭って、いつですか?」
「11月2日」
 正確には、1ヵ月と1日しかなかった。

「それまでに、俺がギターを弾けるようになるよりは、まだ可能性がなくない?」
 確かに、宇宙の言う通りだった。

 笙悧は、楽譜の入ったクリアファイルを受け取った。ぽぽんたの手提げ袋も、もらって、クリアファイルを入れる。


「俺たち、ずっとすれ違ってたんだね」
 また、いきなり宇宙が言い出した。
「巌さんのバンドの曲でね、そういう曲があるんだ」
 宇宙は、左手の人差し指と、右手の人差し指を立てて、すれ違わせてみせる。
「すれ違ってるのに、出会えない少女と少年の歌」


 いつも渡っている交差点。目に映っているだけの風景の中のコンビニ。笙悧は、入ったこともなかった。


 真っすぐに自分を見つめる宇宙の瞳が、まるで宝物を見付けたみたいにキラキラ輝いているのは、コンビニの明かりが瞳の中に反射してるせいだ。――笙悧は、そう思った。
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