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第6章「最高神生誕祭」

139話 断罪神として

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 *

 遙か昔の光景が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
 デミ・ドゥームズデイから数か月後。致命傷を負ったことで長らく治療を続けていた彼女が、久しぶりに姿を見せてくれた。

「やっほ~、クリムぅ~! お持ち帰りさせてぇ~!」

 何事もなかったかのように、彼女が背中から抱き着いてくる。彼女の頭には、青白い光の輪。そんなものは初めて見た。
 あまりにも、異様だった。まるで彼女の姿をした別人が、僕にまとわりついてきたような感覚だった。

「ち、ちょっとアリア、どうしたの? 離れてよ」
「やだー。クリム可愛いもん」

 デミ・ドゥームズデイの前では考えられない姿だった。僕は困惑するばかりで、アリアは気にも留めていない。
 アリアの笑顔を眺めていたら、僕の脳裏を鬱屈とした闇がよぎる。その中に落ちたクロウの生首と、血まみれになった自分の両手、そしてあの生首の吐く呪詛を思い出して────

「いいから、離れて!!」

 思わず乱暴に突き放してしまい、彼女はびっくりした顔で言葉を失っていた。僕は軽い自己嫌悪に陥る。
 確かに、彼女は以前のような明るさを取り戻した。だが、なぜだかわからないけれど、僕の知る彼女ではないような気がした。

「アリア、変だよ。カルデルトに治してもらったんじゃないの?」
「アイリス様が私を治してくれたの。記憶もなくなっちゃうくらい損傷が激しかったからね。一応、カルデルトも協力してくれたけど」

 神の治療なんて、カルデルトの専門だと思っていた。あまりにも怪我が深かったから、アイリス様の力に頼るしかなかったのかもしれない。

「クリムは、私のこと嫌いになっちゃったんだね。私はまだ、こんなに好きなのに」

 何かを繕っている気がした。自分が欠けていることを自覚して、それを隠そうとしている。
 結局のところ、何も覚えていないのだろう。何も覚えていないのに、繕おうとしているのが見え透いていた。
 本当に記憶がなくなっているかどうか、尋ねればよかったのだろう。それが一番穏便に済ませられる方法だったはず。

「……今の君に、僕の何がわかるっていうんだよ」

 それなのに、何も知らない彼女に冷たく言い放ってしまう。
 当時の僕に余裕はなかった。誰にも触れてほしくなかった、そんな利己的な気持ちを押し付ける形になってしまった。

「あっ、クリム! ちょっと待ってよ!」

 彼女を置いて、そのまま僕は走り去る。変わってしまった彼女の現実を受け入れるのが怖かった。
 本当のアリアは今も「暴走したまま」だ。事件後の彼女にかけられた青白い輪は、暴走したアリアを抑えるリミッターそのものである。
 僕が求めているのは、そんな仮初のようなアリアじゃない。僕が確かに憧れていた昔のアリアと、もう一度話がしたかった。
 その願いを、アイリス様に申し出たことがあった。



 けれど────彼女は首を横に振った。

「……壊れた方のアリアと話せると思うでない。あやつはもう、妾が抑えなければダメな状態じゃ」

 自身が生み出したはずの神を「壊れた」などと表現した。アイリス様がそんな物言いをするなんて、自分の耳を疑った。

「異質な力が身体に混入しておってのう。身体自体はなんとかなっているのじゃが、精神が崩壊しかけておる。それを妾がリミッターをかけて止めておるところじゃ。下手に抑えるのをやめるのは危険なのじゃよ」
「その異質な力とやらを、なんとかすればいいんですよね? なら、僕にやらせてください。僕がアリアを元に────」
「クリム。お主はなぜ、壊れたものに執着するのじゃ」

 そう尋ねてきたアイリス様の目が、異様なくらい冷たかった。
 僕は執着しているわけじゃない。仲間を気遣うのは当たり前の感情であるはずだ。そう訴えたくても、うまく言葉にできない。
 
「クロウリーのときもそうじゃった。あやつはお主らを裏切ったというのに、最後まで見捨てようとはせんかったじゃろう。あのときのお主、正直異常じゃったぞ」
「そんな……確かに、クロウは嫌な部分もある奴でしたけど。それでも、僕たちの仲間には変わりなかったはずで……」
「じゃが、アリアに致命傷を与えたのは揺るぎない事実じゃろう。お主は手元に残った仲間よりも、裏切った仲間の方が大事なのかえ?」
「そんなわけないじゃないですか!! どうしてそんな冷たいことをおっしゃるのですか!? あなたは僕たちにとって、唯一の親なのに!! クロウもアリアも、あなたの子供であるはずなのに……!!」

 たまらなくなって、つい大声で自分の気持ちを吐露してしまう。
 クロウを殺して平和を得られたのは、結果的に正解だった。でも、僕の手にはいつまでも、あの男を殺したときの感覚が残っている。その感覚に苛まれている。
 かつて触れ合っていた仲間の血の色。どろどろとした感触も、人肌が固く冷たくなっていく気持ち悪さも、アイリス様は知らないだろう。いつだって、アイリス様は僕たちにすべてを任せる。街の統治も、管理も、魔物の討伐も────罪人の死刑でさえも。
 アイリス様はただ冷然と、僕のことを見ていた。蔑むような目、と言ってもいい。
 
「……お主らなど、この世の平和を守るためのパーツに過ぎん。お主は今や、このキャッセリアの平和を守る断罪神。甘い感情は一切捨て去り、冷酷に振る舞え。この世の平和を乱す者は、すべてお主の手で斬り裂いてもらう」
「アイリス様、僕たちはあなたの道具じゃ────」
「妾の命令が聞けぬのなら、お主もアリアも処分する。本当は、そんなことはしたくないのじゃよ? お主は賢くて生真面目な子、妾から見てもかなり貴重じゃ。生みの親を裏切るようなこと、二度と起こさんでくれ」

 処分、なんて言葉をこのひとから聞きたくなかった。
 これが、上に立つ者として当然の態度なのか? それとも、これこそがアイリス様の本来の気質なのか────いくら僕が考えたところで、アイリス様のお考えは変わらない。アイリス様もまた、アリアみたいに変わってしまったかのようだった。
 なんだか、妙に力が抜けたというか、拍子抜けしてしまった気がする。

「…………わかり、ました」

 僕はそれ以来、彼女に対してあまり本心をさらけ出さないようにした。彼女に何を訴えても無駄な気がしたから。
 僕の本当の願いを理解してくれるひとなど、どこにもいない。ならば、動くのは僕一人でいい。どれだけ嘘を吐くことになろうと、この気持ちだけは誰にも知られてはいけない。
 誰かに理解されたいなどと、期待してはいけない────

 *

 冷たい雫が、何度も僕の身体を打ちつけている。服も濡れて肌に張り付いているというのに、身体そのものはまだ熱い。激痛に苛まれていたはずなのに、今は痛みがだいぶ引いている。
 僕はまた、昔の夢を見ていたらしい。夢から覚めたかと思えば、ぼんやりと石レンガの地面を眺めていた。
 地面に水たまりができ、波紋が何重にも生まれて重なり続けている。もうすぐ、雨が土砂降りになりそうだ。

「よかった、間に合いましたね」
「ヴィータ……?」

 うつ伏せに倒れた僕の顔を覗き込んで、安堵しているみたいだ。声色も、心なしか優しいものに聞こえた。
 ゆっくりと身体を起こしてみる。身体が焼けるほどの激痛が嘘だったかのようで、残った痛みといえば地面に叩きつけられたときの外傷くらいだ。

「アストラルは除去しておきました。黒幽病になることはないでしょうが、念のため気をつけてください」

 気を失う前のことを、少しずつ思い出す。僕は観測者でありシファの攻撃を受けたせいで、アストラルに身体が侵されるところだったんだ。
 今考えたら、シファに単身で挑むのは間違いだった。ヴィータが来なかったら、「神々の英雄」の故人二人と同じ運命を辿っていたと思う。

「そうだ、シファとアリアは?」
「まだ戦っています。あなたが気を失ってから、そんなに時間は経っていないですよ」

 二人を見つけるのに苦労はしなかった。
 繁華街の道の真ん中で、シファとアリアが対峙している。彼女は僕に背を向けるような状態で剣を構えているため、どんな顔をしているかわからない。少なくとも、アリアの頭には青白い輪はない。
 アリアが肩で息をしているのに、シファはほとんど無傷で黒結晶の翼を展開し続けていた。

「はぁ、はぁ……ちくしょう、早く死ねって言ってんだよ!!」
「だーかーらー、偽神ごときに観測者は殺せねぇっつってんの! 話聞いてんのかおまえ!?」
「うるさいうるさい!! お前を逃がすつもりなんか毛頭ねぇんだよぉッ!!」

 僕は地面に転がっていたガラスの剣を拾い上げ、ヴィータと一緒にアリアの元へ走る。
 アリアは過去の傷のせいで、精神崩壊を必死に食い止めなければいけない状態にある。リミッターがアリアによって解除された今、崩壊を食い止めるのは他でもないアリア自身だ。ほとんどの者の話を聞くことがないのも、その余裕がないせいだ。
 とりあえず、彼女と会話できるようにするためには、再びアリアにリミッターをかけ直さなくてはいけない。最初にリミッターをかけたアイリス様本人にしか、戻すことはできない。

「アリア、落ち着きなさい! 気が狂ったんですか!」
「ヴィータ、今のアリアはアイリス様じゃないと元に戻せない。僕たちじゃどうしようもないよ」
「な、なんであなたがそんなことを……」

 正直、丁寧に説明している暇もない。僕はアリアにかけられていたリミッターの仕組みも何も知らず、手の施しようがないのだ。

「あーもう、バーサーカー相手にするのめんどくさ。こうなったら……!」

 シファは懐からカードの束を召喚し、自身の周囲にたくさんのカードを舞わせる。カードはまもなく四方八方に飛んでいき、行方がわからなくなった。
 やがて、土砂降りの雨が降り注ぐ街のあちこちから、魔物たちが顔を出す。中央都市には魔物を防ぐ結界が張られているはずなのに、だ。
 祭りの最中でありながらほとんど人気がなかったのは、ある意味幸いだったかもしれない。

「魔物……! 一体どこから呼び寄せたんです?」
「おれと姉さんで作ったんだよ。こいつらは失敗作だけど、せっかくだし有効活用してやらなきゃなぁ!」

 高らかな叫びに呼応するように、魔物が次々と建物の陰から現れる。街を埋め尽くすのにそう時間はいらないくらい、急速に数を増やしていた。
 今にもアリアが剣を構えて群れに突進しそうだったが、単身で魔物の群れを相手させるわけにはいかない。

「ヴィータ、アリアを押さえてて!」
「何をする気です?」
「ここは僕に任せてほしいんだ」

 僕はヴィータに彼女を託し、二人の前に出る。魔物が僕たちを取り囲み、じりじりと距離を詰めてくる中、僕はガラスの剣の切っ先をシファへと向けた。
 彼は相変わらず嘲笑を浮かべており、僕たちを小馬鹿にする態度を崩さない。

「アーケンシェンって言ったって、どうせ偽神に変わりねぇだろ。おれに勝てるわけねぇって」
「ぎしん? だから何だと言うんだ。僕は断罪神として、自分の役割を全うするだけだよ」
「……断罪神、ねぇ。聞こえはいいけど、公に殺しを認められてるだけだろ。一人を殺したら、何人殺したって一緒だ。結局、『おれたち』と何も変わらないんじゃないの?」

 シファもまた、アスタやヴィータと同じ観測者である。不老不死で、驚異的な生命力と戦闘力を持つ超越的な存在────
 彼が兄妹と明確に異なる点は、生命を奪うことに一切の躊躇がないことだ。アスタとヴィータが生命を守るなら、シファやシファの姉とやらは生命の害となる存在。
 僕はキャッセリアの断罪神だ。罪深き存在を裁き、この街の平和を守るために戦う。
 アイリス様のためだけではない。この世界に生きる生命を、少しでも多く助けるために────

「僕は救うために戦う! 自分勝手な理由で命を奪うお前と一緒にするな!!」

 長年の迷いを、今ここでようやく晴らせた気がした。雨が降り続けている街で、僕は濡れた翼を広げ飛びあがる。
 軽くなった心の底から溢れ出る力。迷いのなくなった身体の底で、魔力が滾っている。

「罪深き魂よ、我が断罪の剣の前にひれ伏せ」

 ガラスの剣を握りしめ、自分の前で掲げ魔力を注ぐ。目を閉じて意識を集中させた。

「詠唱……! やらせねーよっ!」
「ああああああ!! うるっせぇんだよクソガキ!! 黙れ黙れぇ!!」
「あっ、アリア! 待ちなさい!」

 慌てる声たちと、武器と異形の魔物たちがぶつかり合い、ぐちゃぐちゃと砕ける音が聞こえてきた。けれど、不思議と不安は湧いてこなかった。
 うっすらと目を開けたとき、僕の身体は青白い光に包まれていた。

「すべての罪を贖わせる為、奈落の底へと突き落とさん」

 シファと魔物たちがいる範囲に、いくつもの魔法陣を召喚する。
 屋内では狭すぎて使うことができなかった、今の僕の切り札。もし、あのカフェで使うことができていたら、ユキアたちを不必要に傷つけることもなかっただろう。
 だから、せめて────この街をさらに混乱に陥れようとする異形たちを、僕の手で止めなくては。
 魔力の光を十分に蓄積した剣を灰色の天へ突き上げ、僕は叫んだ。

「────『天帝天誅ヒメル・ネーメズィス』!!」

 ガラスの剣を振り下ろすと同時に、魔法陣たちから青白いエネルギーが溢れ出す。光の大海と見紛うような光景が、繁華街と敵たちを覆い尽くす。
 何かが崩れる音が、耳を壊しそうな勢いで響く。ヴィータとアリアを巻き込んでいないか心配だったが、意外なことにアリアがヴィータの首根っこを掴んで飛んでいたので、大事には至らなかった。

「ちょっと、アリア。もっと丁寧に引っ張ってくださいよ、苦しいです」
「はぁ!? 地面に投げつけんぞテメェ!?」
「それより……これが、クリムの神幻術なのですね」

 そういえば、ヴィータに見せたのは初めてだった。そもそも、僕は滅多に神幻術を使わないので、知らない者も多いだろうけど。
 光と魔法陣が霧散する。繁華街の道路沿いの建物がかなりの損傷を受けていた。
 僕たちが地面に降り立ったとき、魔物たちは消し炭になっていた。シファは唯一自分の足で立っていた。

「はぁ、はぁ……アストラルも使ってねぇくせに、こんなに痛ぇのかよ……!」

 藍色の装束はボロボロで、手や脚を覆うように巻いていた包帯もほとんど焼け落ちている。
 包帯の下にあるのは、たくさんの傷跡だった。僕の神幻術によるものかと思ったが、傷の形からして何か違う気がする。

「クリム、だったか……次に会ったら、本気でぶっ潰してやるからな!!」

 捨て台詞とともに、シファは黒結晶の翼を生やしてどこかへ飛び去って行った。

「おいっ、クソガキ!! 逃げんじゃねぇ、肉片にしてやんぞ!!!」
「いい加減黙りなさい、口汚い!」
「ぷぎゃっ」

 ヴィータが語気を強め、アリアの後頭部めがけて本の背表紙を叩きつけた。見慣れた銀の装丁の本で殴られたアリアは、変な鳴き声とともにその場に倒れ伏す。
 ……脈も正常だし、普通に気絶しただけみたいだ。いくら暴走していても、気絶すれば暴れることはない。

「ヴィータ、本は大事にした方がいいと思うよ」
「いえ、この銀の本は魔導書武器ですので。そういえば、これクリムのですよね?」

 懐から薄い茶色の手帳を取り出し、僕に差し出してきた。シファと戦っていたとき、落としたままだったのを思い出す。
 中身を読まれていないかどうか心配だったが、ヴィータは不思議そうに手帳を眺めている。

「何について書いてあるのですか」
「内緒……って言おうと思ってたんだけどね。アリアがどうして暴れていたのか、気になるでしょ?」
「……ということは、これは彼女についての?」

 そう。仕事用に使っているわけでもない薄い茶色の手帳は、アリアの暴走やそれを抑えているリミッターについて、僕が知っている限りまとめたものだ。
 僕は僕なりに、彼女を昔の姿に戻したいと考えていた。だが、それはアイリス様の意思に背くこととなり、バレれば僕たちは処分される可能性がある。クロウを僕に殺させたことを考えると、オッドアイであり特別な力を持っているアーケンシェンでも、アイリス様の意に沿わないなら抹消されるかもしれない。
 だから、表向きは命令に従い役割を担いつつ、秘密裏に動いていた。多分、このことはまだ誰も気づいていない。この前はアリアにバレそうになって危なかったけれど。

「あなたには、あなたの確固たる目的があったのですね。それを知られるわけにはいかなかった。あなたの命や大事なものを失う可能性があったから」
「まあね。どこから漏れるかわからないし」
「……無謀ですね。そういうところは、あなたもユキアと変わらないですよ」

 クローバーの模様が刻まれた赤い瞳は、とても優しい色を宿している気がした。小さく凛とした微笑みは、雨に打たれ続けている彼女をよりいっそう大人っぽく見せる。

「でも、安心しました。あなたの迷いは弱さのせいじゃなかったと知ることができましたから」

 安心したのは、僕も同じだ。元々仲間ではあったけれど、きっと僕たちは前よりも強い絆で結ばれたのだと思う。
 しばらくは安心しきっていたけれど、街の中でまだ何か蠢いている。ヴィータも同じく、禍々しい気配を感じ取ったようだ。

「……まだ残っていますね、魔物」
「撃ち漏らしか……他の神の安否も確認しないといけないね」
「それでは、クリムは魔物を倒してください。繁華街の生存者の確認をしてきます」
「なら、アリアのことも任せていい?」
「わかりました。ご武運を」

 僕たちは別々の方向に散り、それぞれのやることを遂行する。
 まだ雨はやまない。でも、ただ雨上がりが来るのを待っている時間はない。
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