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第三章 ザハラ王国編
49 誓った愛は
しおりを挟む王の後に続いて辿り着いたのは、華麗に装飾された扉の前だった。
王の後宮――ここから先は、限られたものしか足を踏み入れることが許されない。
重い扉が軋みをあげながらゆっくりと開かれると、咽せ返るような甘ったるい香りに包まれた。覚えのあるこの香りに胸が重くなる。
王を出迎えるのは、薄物を纏っただけの美しい男たち。色とりどりの宝石のような瞳を期待に輝かせ、次々と王の前に膝を折る。
だが、王は彼らを一瞥することなく進んでゆく。
男たちの陰にひっそりと控えるのは、後宮の召使たちだ。
その中に見知った顔を見つけて、一瞬、息が止まった。
そんな所にいたのか……ジェイ
ルシアンも彼の存在に気づいたはずだ。
だが、俺たちは黙って彼の前を通り過ぎる。
幾重もの薄布で隔てられた回廊を抜けると、また別の扉が現れた。
王に続いてその扉を通り抜けようとすると、屈強な男たちに行手を遮られた。王は背後の俺たちを気にする様子もなく、一人で奥へと進んで行ってしまった。
「ここから先は聖域となります。王の許しがあるまで、こちらの部屋でお待ちください」
どこからともなく現れた美しい青年が、俺の肩にしな垂れかかった。
紅玉の瞳が、俺を誘うように艶やかな光を放つ。
「おい、その手をどけろ!」
ルシアンの低く唸るような声に、青年は肩を竦めると、口元に微笑みを浮かべながら身を引いた。
「……ったく、 どいつもこいつも、色気を振りまくしか脳がないのかっ!」
「ここはそういう所なんだ、別に悪気があるわけじゃないさ」
「ああ、そもそも王があんな感じだしな……」
そう吐き捨てるように言いかけて、ルシアンが言いよどんだ。
「ロイド……なぜ私を見ようとしない?」
「いや、別に……」
「別に、じゃないだろう?」
仕方なく顔を上げれば、男らしく引き締まった唇に視線が吸い寄せられる――この唇に王が触れていた。あの瞬間に感じた痛みを思い出して、また胸が苦しくなる。
こんなふうに嫉妬するなんて……俺にそんな資格はないのに。
「どうした?」
「……嫌だったんだ……王があんなふうにお前に触れるなんて……」
こんな顔、とても見せられない。
俺はルシアンに背を向けた。
「……バカだな。私があんな少年に心を移すとでも?」
背後から、そっと肩を抱かれた。
「私の最愛は、いつだってお前なのに」
ルシアンが俺の耳に唇を寄せる。
甘い吐息を落とされ、耳につけたピアスが熱を持つ――まるで、高鳴る俺の心を表すように。
それでも、辛い……お前にもこんな気持ちを味わわせていたのかと思うと。
俺があいつに何をされたのか、ルシアンはとっくに察しているはず。それでも、俺たちは今まで敢えてその話題を避けてきた。
「ルシアン……俺とあいつの話を聞いて、お前はどう思った……」
「やめろ!」
鋭い声が俺の言葉を断ち切った。
その後に続く沈黙が、永遠に続くように思える。
「真実なんて……知りたくもない! 」
ルシアンは鋭い拒絶を口にしながら、それでも俺を強く抱きしめる。
「ロイド、お前がここにいる……それで十分だ」
一瞬、心臓が止まったような気がした。
あいつの事を考えるたび、ルシアンを裏切ったことを思い出す。
こんなにも愛しいのに……どうしてあの時、一瞬でもお前のことを諦めたりしたのか。
―― 俺は、いつかお前を傷つけてしまう。
「ロイド、こっちを向けよ」
振り向くと、いきなり肩越しに口づけられた。
それ以上、もう何も考えるな―― そう言われたような気がした。
「すまない……今はまだ、その話を聞く勇気がない」
その重く沈んだ声が、胸の奥に鈍く響いた。
だが、その言葉にほっとしている自分もいる。
―― 狡いな、俺は。
◆
神殿からの迎えはまだ来ない。あとどれだけこの小さな部屋で待たされるのか。
部屋中に漂うこの甘ったるい香りが鼻について、両手で顔を覆った。
微かな媚薬の香り。あの舌に残る甘ったるい味まで思い出せる。
囚われていた間、この媚薬を煽るように飲んで、この身に受ける辱めをやり過ごそうとしていた。
ああ……っ
苦い記憶を締め出そうと、無理やり目を閉じる。
その時――ふっと、空気の揺らぎを感じた。
……なんだ?
顔を上げると、いつの間に現れたのか、目の前に男が一人佇んでいた。
砂漠の民らしいゆったりとした衣装に身を包み、長い頭布がその表情を隠している。後宮の番人にしては気品があるが……何者だ?
「お待たせいたしました。ここからは私がご案内いたします」
その男は、片手を胸に当て軽く頭を下げた。
「待て! ロイドをどこへ連れて行くつもりだ」
ルシアンがすかさず俺の前に立ち、男に向かって声を上げた。
だが、男は怯む様子もない。
「女神の神殿へ。そう主より仰せつかっております」
「お前の主とは、まさか、アシーク将軍ではないだろうな!」
「いいえ、私の主はレイラ王女。光の女神の声を聞くことができる唯一のお方です」
レイラ王女?―― 思いがけない名に驚かされる。
女神の声が聞こえるとは、 つまり神殿を護る巫女ような存在ということか?
「神託を授かったそちらの御方をお連れするようにと、王女殿下より仰せつかっております」
「ロイドだけを行かせるわけにはいかない、私も同行する!」
ルシアンは拳を固く握りしめ、今にも男に飛びかからんばかりだ。
そんなルシアンの姿を見て、男はわずかに口元を緩めると肩を震わせ始めた。
「何を笑っている!」
男の態度が癇に障ったらしく、ルシアンが声を荒げると、男はとうとう堪りかねたように声を上げて笑い出した。
「はっ、ははっ! ロイド様のことになると、流石の銀狼も肩なしだ。そういう所は、昔から変わっていないのですね」
昔からって、まるで俺たちのことを知っているような口ぶりだ。
それに、この声……いや、そんなはずは……
すると、男がいきなり俺たちの前に膝をついた。胸に拳を当てるその姿は、騎士が尊敬する相手に捧げる最上の敬礼だ。
「こうして再びお二人にお会いできるとは。ルシアン団長、ロイド副団長」
えっ……お前、まさか……!
気づいた時には手が伸びて、男の顔を覆う頭布を乱暴に払い除けていた。
布の陰から現れたのは、明るい若葉色の瞳。
「お前……トビアス!」
絶句する俺に代わって、ルシアンが驚きの声を上げた。
俺は、慌てて彼を床から立ち上がらせた。
記憶の中の彼よりも少しやつれた姿――トビアスは、かつてラクロス国の王宮騎士として、エリスの護衛を勤めていた。まだ幼かった彼女が辺境領に預けられていた頃もエリスの側にいて、俺たちと一緒になって彼女に振り回されていたっけ。
エリスの明るい笑い声、ルシアンの怒鳴り声、トビアスの困り顔……賑やかで、平和だった頃の記憶が鮮やかに蘇る。
あの頃のエリスは、強力な魔力を上手くコントロールできず、騒ぎばかり起こしてた。
風魔法で花壇の花を根こそぎ吹き飛ばし、石壁をぶっ壊し、俺たちまで巻き込んで噴水に突っ込んで。そして、びしゃびしゃになった彼女を掬い上げるのは、いつだってトビアスの役目だった。
――それでも彼女を見つめる若草色の瞳は、いつだって優しかった。
「お前、こんなところで何をしてるんだ!」
ルシアンがトビアスに向かって怒鳴っているが、これは……照れてるんだな。さっき、俺のために一生懸命になりすぎて、笑われたばかりだから。
トビアスもルシアンの照れ隠しなどお見通しなのだろう。にこやかな笑みを崩さない。
「お二人は相変わらず仲が良いですね。 戦場であれほど恐れられた『双頭の狼』が、恋をするとこんなに甘くなるとは」
「恋だと……っ!?」
照れ臭くて、俺もルシアンも思わず声が裏返ってしまった。
俺も負けじと、トビアスに言い返す。
「それよりお前のことだろっ! 生きてたのに、どうして戻ってこなかったんだ!」
―― エリスは、ずっとお前を待ってたんだぞ。
尋ねたいことは山ほどあった。
そんな形をして、ザハラの王女に仕えてるなんて……お前の心はもう変わってしまったのか?
だが、どうしてもその問いを口にすることができなかった。
「そうですね、何から話せばいいのか……」
トビアスが、そっと目を伏せた。
彼の言葉を待ちながら、俺は握りしめた拳に力を込める。
暫くして、彼が静かに語り始めた。
「……ここに身を沈める覚悟でした。故郷に戻ることも、懐かしい人たちに会うことも諦めて……なすべきことをするのだと、そう決心していたのに……」
――渓谷での戦いは激しく、これでもう最期だと覚悟しました。でも、痛みと共に目が覚めてみれば、無様に囚われていたのです。王宮騎士の紋章を身につけていたので、身代金でも取れると思われたのでしょう。傷は手当されたものの、痛みと熱で幾日も朦朧としていました。そうして、レイラ王女と出会ったのです。
「美しいけど……寂しい目をした女性だと思いました」
トビアスは、その時の記憶を手繰り寄せるように、遠くを見つめた。
――彼女が王女だと知った時は驚きました。王族が自ら捕虜の手当てをするなんて、信じられなかったんです。やがて彼女と短い会話を交わすようになり、少しずつ王宮の様子がわかってきました。
王宮全体が、どこか異様な雰囲気に包まれていました。誰もが息を潜め、常に何かに怯えているような。
サリーム王はまだ若く、後宮で享楽に耽る日々。そんな王に代わって王宮を支配していたのは、恐怖。
「その源が、アシーク将軍だったのです」
奴の名に、俺は思わず息を呑む。
「アシークとは、どういう人物だ?」
ルシアンが、トビアスに尋ねる。
「噂では残虐非道、闇魔法で人の心を操ると……実際、広間で奴の魔力に触れて、嫌というほど思い知らされたがな」
トビアスが大きく頷いた。
「ええ、概ね噂通りの人物です」
――ただ、彼が弑する者はみな、影の男神の怒りに触れたからだと信じられています。前王が殺されたのも男神の意志だと。ですから、将軍を咎める者などいないのです。
しかし、彼は王位に目もくれず、幼いサリーム王を王座に据えると、すぐにザハラ全軍を率いて周辺諸国への侵攻を再開したのです。
えっ……では、前王の死後も、アシークの一存で戦が続けられたと?
前王を倒した時点で大義はなくなり、戦を終わらせることもできたはずだ。なぜ、奴はそうしなかったのか。そのせいで、どれだけの人命が失われたことか。
歯軋りしたいほどの怒りが湧いてきた。
ルシアンも、俺と同じように感じたようだった。
「将軍が、この戦を続けることを望んだと?」
トビアスは静かに頷くと、低い声で話を続けた。
「サリーム王は、おそらく王宮の外で何が起きているのかも知らないでしょう。家臣たちは、王に見目の良い少年たちをあてがい後宮の奥につなぎとめています。その一方で、彼らはアシーク将軍に媚びへつらい、自分たちが利を得るために戦を続けさせたのです」
ああ、王は無知であり続けることを選んだのだ。
「だが、おかしいじゃないか。アシーク将軍は闇魔法で腐敗した輩を一掃できたはずだ。なぜそうしなかった?」
「もし彼が闇魔法を使えば、王宮には誰も残らないでしょう。そうなれば、たちまちザハラ国は他国に侵略されてしまう。将軍にとって、国を守るためには戦い続けるしかなかったのかもしれません。それに、もしかしたら……レイラ王女のためだったのかも」
――レイラ王女は、あいつの婚約者だ。
「サリーム王は、自ら後宮に引き篭もりましたが、レイラ王女は……全てを知るが故に、後宮の奥深くに閉じ込められていましたから」
全てを知る、とは?
だが、俺がその疑問を口にする前に、トビアスが口を開いた。
「ですから、私は……」
ひどく思い詰めた声だ。
「……囚われていた間、ずっと考えていました。アシーク将軍が存在する限りこの戦は終わらない。ならば、この手で……」
トビアスがぎゅっと拳を握りしめた。その指先が白くなるほど強く。
おい、まさか……
俺は、心に浮かんだ恐れを思わず口にしていた。
「だからお前が、奴を始末しようとしたのか!」
すると、トビアスがすっと目を伏せた。
「あの晩……短剣を手に将軍の後をつけました。外門を出たところで、いざ飛び出そうとした時……」
トビアスが自嘲するような笑みを浮かべた。
「……レイラ王女が、私の袖を掴んだのです。私の計画は、最初から彼女に勘づかれていた」
それだけ聞けば、もう十分だった。俺はたまらず、トビアスへ詰め寄った。
「もし王女が止めなかったら、八つ裂きにされてたぞ! そんなこと許せるものか……お前のために悲しむ人間がいるって、一瞬でも考えなかったのか!」
怒りと悲しみがない混ぜになって、声が震えた。
その時、俺の脳裏に浮かんだのは、トビアスの名を呼びながら泣きじゃくっていたエリスの姿だった。
(トビー……生きていてくれればいい。無事で幸せでいてくれるなら、それでいい……)
お前は、あの祈りを無駄にしようとしたんだ!
途端に、トビアスが苦しげに表情を歪めて、胸を掻きむしるようにして床に崩れ落ちた。
「もう、叶わない想いに苦しむのは止めたんだ!」
振り絞るような叫びだった。
「この想いを伝えられなくても、せめて……彼女を守りたかった……その身に危険が及ばないように、これからの長い人生を笑顔で暮らしていけるように……そのためには、この戦を終わらせなければ……あいつを討たなければ……!」
普段の彼とはまるで違う乱暴な口調。
長い間、胸の奥に押し込めてきた想いが激しく溢れ出る。
まったく……トビアスもエリスも互いに想い合ってたのか……密かに誓った愛は、いつまでも変わることはなかった。
それなら、尚更――
俺は、トビアスの胸ぐらを掴むと、拳を振り上げた。
「俺は、エリスに約束したんだ。もし、お前があいつを振って王女を選んだのなら、俺があいつの代わりにお前を殴ってやるって。でも、まさか……敵と差し違えようとしてたなんて!」
トビアスはじっと俺を見つめたまま、黙って俺の拳を受け入れようとしている。
若草色の瞳は揺らぎもしない。
俺は、ふり上げた拳を力無く下ろした。
「はあっ……お前を殴るのは俺じゃないな。直接、あいつに謝れよ」
「いや、まだ国に戻るつもりはない」
トビアスの思い詰めた表情を見て、ルシアンが呆れた声を出した。
「まだ諦めてないのか……お前も頑固だな。でも、国に戻る必要はないぞ、エリスはもうこの国に来てるからな」
その言葉に、トビアスが目を剥いた。
「そんな危険なことを、どうして許したのですか!」
「いや、あいつが勝手に着いてきたんだ。お前にどうしても会いたいって、踊り子の一座に紛れてな」
「踊り子の一座って……踊れもしないのに? そんな、無茶苦茶な……」
トビアスの声が震えていた。
じっと胸を押さえたまま動かない。胸中ではいろんな想いが吹き荒れてるんだろう。
一旦諦めたはずの想いだったのに、愛する人が自分を追って来てくれた。その苦しさと喜び、俺には痛いほどわかる。
ルシアンが、トビアスの肩をそっと叩いた。
「お前にもしものことがあったら、私はあれを止める自信がない。お前だって、エリスが一筋縄じゃ行かない女だってわかってるよな……だから、頼む。あいつに会うまでは、無茶をしないでやってくれ」
俺もトビアスに並んで、その肩を抱く。
「厄介な相手に惚れたもんだ。あいつはただ守られるだけの女じゃない……だから、観念しろ、トビアス」
トビアスが俺の顔を見て、困ったように眉尻を下げた。
俺たちは顔を見合わせて、ふっと笑った。
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