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春~婚約破棄
5. 評価と疑い
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魔法陣の授業の二日目のことは、今でもはっきりと覚えている。
普通の紙に普通のインクで書かれた魔法陣を見て、これが何をする魔法陣なのかを解析するのがその日の授業の内容だ。初回の説明と手元の資料と突き合わせて翻訳していくと、エリサには配られた魔法陣の目的が分かった。
けれどクラスメイトたちは苦戦している。というよりも、興味があるのは魔法陣を書くことで、読み解くことではないので、やる気が出ないらしい。
他人の書いたコードを読むのも必要なのになあ、真っ白なところから作るのではなく人のコードを真似て書くのが楽なのになあ、と思いながら、おしゃべりを始めたクラスメイトをぼんやりと眺めていると、悩んでいると思ったのか、教師が声をかけてくれた。魔法陣の授業を担当するグラールは、普段は魔法省で働いている非常勤講師だ。
「クレッソンさん、何か分からないことがありますか?」
「第七円を書くと、どうなるのですか?」
「……それは応用の授業の範囲も超えます」
ということは、書けるのだ。けれど、グラールが言葉を濁したということは、危険なのかもしれない。
「それで、この魔法陣はどういう内容か分かりましたか?」
「内向き、きっかけから三秒、無属性、対象は触れている人、ごく弱く、流れ込んだ量を判別する。この魔法陣は、触れた人の魔力量を測定するものでしょうか」
グラールが指し示したのは、配られた中でも一番分かりにくい魔法陣だった。しばらく悩んで、これはファンタジー定番の魔法陣ではないかと思いついた。そう、魔力量判定の魔法陣だ。
でもこの魔法陣、初回の授業で理解できる内容ではない気がする。それを指定してくるなんて、生意気な生徒として教師に目をつけられてしまったかもしれない。
「クレッソンさん、以前に魔法陣について勉強したことがありますか?」
「ありません。法に触れますよね?」
「魔法陣技師の指導であれば可能です」
なるほど、そういう抜け道があったのか。でもこれは、ジャンに頼めば家庭教師を雇えるということだ。良いことを聞いたと内心歓喜の声をあげていたエリサにグラールは「放課後、教員室まで来るように」と言い残して、他の生徒の見回りへと離れていった。
クラスメイトに何をやらかしたのかと半分あきれられながらも送り出されて教員室へ行くと、エリサのクラス担任であるワイスと、魔法陣の授業のグラールがそろって待っていた。
「グラール先生、クレッソンが魔法陣の授業で何かしましたでしょうか?」
「魔法陣を正確に解析しました。初めて魔法陣について学んだとは思えないのですが」
「クレッソン、お前……」
「待ってください。本当に初めてです。ただ説明どおりに読み解いただけです」
まずい。まさかのズルを疑われていた。
この場合ズルが法に触れるので、魔法省の裁判にかけられる可能性があるというのが大問題だ。周りの教師たちも、こちらの会話に注目しているのが分かる。
前世の知識がこんな事態を引き起こすとは思いもよらなかった。エリサはちょっと似たようなものを知っていたから理解が早かっただけで、あの説明で分かる人は分かるはずだ。分からない説明をしてるわけじゃなくて、理解するのが難しいだけなのだ。
そもそも、分かるように説明できない教師のほうにも問題があるのではないかと、エリサは心の中で責任転嫁をしたくなる。
「ワイス先生、彼女は優秀な生徒なのですか?」
「真面目ですが、成績はあまりよくありませんね」
本人の目の前で言うとは、無神経なうえに残酷だ。エリサにやる気があっても、歴史は王朝が多すぎて覚えきれないし、政治の制度は前世の記憶に引っ張られて混乱してしまう。マナーは子どものころからたたき込まれている高位貴族にはかなわない。そのため、全体的に試験の点はよろしくない。一つを除いては。
担任の評価にエリサが密かに傷ついていると、その一つだけできる科目の教師が助け舟を出した。
「クレッソンさんは、数学はかなり優秀ですよ。すでにこの学園で教える内容は理解しています。彼女が魔法陣の解析ができても、私は驚きません」
数学の先生、ありがとうございます! そうです、数学っぽいものは得意なんですよ。商人の娘だから、金勘定は得意だろうって思われているけど、そうじゃなくて、論理的思考が得意で、暗記が苦手なだけなんですよ。
エリサは必死で心の中で弁解しているが、空気が不穏すぎて口に出せない。魔法省の取り調べなど勘弁してほしいと思っているのは、エリサだけでなく学園の教師たちもだ。
結局、教師たちの協議の末、怪しいけど証拠もないということで、要注意人物として監視されることになった。とりあえず魔法省に連れていかれるような、怖いことにはならなさそうだ。
「あの、できれば応用の授業を受けて、魔法陣技師になりたいのですが……」
「それは、今後次第です」
なれるとは言われなかったが、道が閉ざされたわけではないらしいので、今はそれだけで良しとすべきだ。欲張って道を断たれては元も子もない、とエリサは自分を無理やり納得させた。権力がものを言うこの世界、そもそも平等とか公正とか、もっと言えば人権だって軽んじられているのだ。男爵家の娘など、魔法省が黒と決めつければ、事実がどうであれ黒になる。
それからの授業中、エリサは目立たないようにひたすら魔法陣に用いる文字の練習に励んだ。魔法陣の授業の教材は部屋から持ち出し禁止なので、授業中にしか練習できない。実は授業中にこっそり隠れて空想上の文字を練習しているような気分になって、楽しくて熱中していたことは、誰も気づいていないだろう。エリサのかつてのオタク心が歓喜に震えていた。
文字が問題なく書けるようになったら、今度はお手本の魔法陣自体を書き写した。完成されている魔法陣は、その造形がとても美しいので、その美しさを再現できるように、納得がいくまで夢中になって練習を繰り返した。
最初は注意を払っていたグラールも、黙々と書き取り練習をしているエリサのことは放っておいてかまわないと思ったのか、そのうち全く気にかけなくなった。
そして基礎の授業もあと二回を残すだけになり、次回はいよいよ魔法陣を書いてみようとなったときに、エリサはまたグラールに呼び出されてしまった。
ちなみに、魔法陣の家庭教師は雇っていない。目をつけられている状況で、そんなことができるほどエリサは周りが見えなくなっているわけではないし、何よりも肝が据わってはいなかった。
普通の紙に普通のインクで書かれた魔法陣を見て、これが何をする魔法陣なのかを解析するのがその日の授業の内容だ。初回の説明と手元の資料と突き合わせて翻訳していくと、エリサには配られた魔法陣の目的が分かった。
けれどクラスメイトたちは苦戦している。というよりも、興味があるのは魔法陣を書くことで、読み解くことではないので、やる気が出ないらしい。
他人の書いたコードを読むのも必要なのになあ、真っ白なところから作るのではなく人のコードを真似て書くのが楽なのになあ、と思いながら、おしゃべりを始めたクラスメイトをぼんやりと眺めていると、悩んでいると思ったのか、教師が声をかけてくれた。魔法陣の授業を担当するグラールは、普段は魔法省で働いている非常勤講師だ。
「クレッソンさん、何か分からないことがありますか?」
「第七円を書くと、どうなるのですか?」
「……それは応用の授業の範囲も超えます」
ということは、書けるのだ。けれど、グラールが言葉を濁したということは、危険なのかもしれない。
「それで、この魔法陣はどういう内容か分かりましたか?」
「内向き、きっかけから三秒、無属性、対象は触れている人、ごく弱く、流れ込んだ量を判別する。この魔法陣は、触れた人の魔力量を測定するものでしょうか」
グラールが指し示したのは、配られた中でも一番分かりにくい魔法陣だった。しばらく悩んで、これはファンタジー定番の魔法陣ではないかと思いついた。そう、魔力量判定の魔法陣だ。
でもこの魔法陣、初回の授業で理解できる内容ではない気がする。それを指定してくるなんて、生意気な生徒として教師に目をつけられてしまったかもしれない。
「クレッソンさん、以前に魔法陣について勉強したことがありますか?」
「ありません。法に触れますよね?」
「魔法陣技師の指導であれば可能です」
なるほど、そういう抜け道があったのか。でもこれは、ジャンに頼めば家庭教師を雇えるということだ。良いことを聞いたと内心歓喜の声をあげていたエリサにグラールは「放課後、教員室まで来るように」と言い残して、他の生徒の見回りへと離れていった。
クラスメイトに何をやらかしたのかと半分あきれられながらも送り出されて教員室へ行くと、エリサのクラス担任であるワイスと、魔法陣の授業のグラールがそろって待っていた。
「グラール先生、クレッソンが魔法陣の授業で何かしましたでしょうか?」
「魔法陣を正確に解析しました。初めて魔法陣について学んだとは思えないのですが」
「クレッソン、お前……」
「待ってください。本当に初めてです。ただ説明どおりに読み解いただけです」
まずい。まさかのズルを疑われていた。
この場合ズルが法に触れるので、魔法省の裁判にかけられる可能性があるというのが大問題だ。周りの教師たちも、こちらの会話に注目しているのが分かる。
前世の知識がこんな事態を引き起こすとは思いもよらなかった。エリサはちょっと似たようなものを知っていたから理解が早かっただけで、あの説明で分かる人は分かるはずだ。分からない説明をしてるわけじゃなくて、理解するのが難しいだけなのだ。
そもそも、分かるように説明できない教師のほうにも問題があるのではないかと、エリサは心の中で責任転嫁をしたくなる。
「ワイス先生、彼女は優秀な生徒なのですか?」
「真面目ですが、成績はあまりよくありませんね」
本人の目の前で言うとは、無神経なうえに残酷だ。エリサにやる気があっても、歴史は王朝が多すぎて覚えきれないし、政治の制度は前世の記憶に引っ張られて混乱してしまう。マナーは子どものころからたたき込まれている高位貴族にはかなわない。そのため、全体的に試験の点はよろしくない。一つを除いては。
担任の評価にエリサが密かに傷ついていると、その一つだけできる科目の教師が助け舟を出した。
「クレッソンさんは、数学はかなり優秀ですよ。すでにこの学園で教える内容は理解しています。彼女が魔法陣の解析ができても、私は驚きません」
数学の先生、ありがとうございます! そうです、数学っぽいものは得意なんですよ。商人の娘だから、金勘定は得意だろうって思われているけど、そうじゃなくて、論理的思考が得意で、暗記が苦手なだけなんですよ。
エリサは必死で心の中で弁解しているが、空気が不穏すぎて口に出せない。魔法省の取り調べなど勘弁してほしいと思っているのは、エリサだけでなく学園の教師たちもだ。
結局、教師たちの協議の末、怪しいけど証拠もないということで、要注意人物として監視されることになった。とりあえず魔法省に連れていかれるような、怖いことにはならなさそうだ。
「あの、できれば応用の授業を受けて、魔法陣技師になりたいのですが……」
「それは、今後次第です」
なれるとは言われなかったが、道が閉ざされたわけではないらしいので、今はそれだけで良しとすべきだ。欲張って道を断たれては元も子もない、とエリサは自分を無理やり納得させた。権力がものを言うこの世界、そもそも平等とか公正とか、もっと言えば人権だって軽んじられているのだ。男爵家の娘など、魔法省が黒と決めつければ、事実がどうであれ黒になる。
それからの授業中、エリサは目立たないようにひたすら魔法陣に用いる文字の練習に励んだ。魔法陣の授業の教材は部屋から持ち出し禁止なので、授業中にしか練習できない。実は授業中にこっそり隠れて空想上の文字を練習しているような気分になって、楽しくて熱中していたことは、誰も気づいていないだろう。エリサのかつてのオタク心が歓喜に震えていた。
文字が問題なく書けるようになったら、今度はお手本の魔法陣自体を書き写した。完成されている魔法陣は、その造形がとても美しいので、その美しさを再現できるように、納得がいくまで夢中になって練習を繰り返した。
最初は注意を払っていたグラールも、黙々と書き取り練習をしているエリサのことは放っておいてかまわないと思ったのか、そのうち全く気にかけなくなった。
そして基礎の授業もあと二回を残すだけになり、次回はいよいよ魔法陣を書いてみようとなったときに、エリサはまたグラールに呼び出されてしまった。
ちなみに、魔法陣の家庭教師は雇っていない。目をつけられている状況で、そんなことができるほどエリサは周りが見えなくなっているわけではないし、何よりも肝が据わってはいなかった。
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