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冬~婚約成立
7. 婚約成立
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物事が動き出すときには、大きな流れができる。その流れに否応なく巻き込まれ、自分が今どこにいるのかもわからないままに、次から次へと現れる目の前のことに対処するので精いっぱいになる。後から、あれは大きな流れに巻き込まれていたのだと分かるが、渦中にいるときは何も見えず、無我夢中で泳ぐしかない。
学園の卒業パーティーから一年弱、エリサには怒涛の日々だった。婚約破棄に始まった騒動は、新たな婚約の成立で一応の決着をみせることになる。もっともそれは新たな騒動の始まりでもあるのだろう。
自分のことと商会のことだけを考えていればよかったほぼ平民の男爵令嬢から、ヴェルニュ辺境伯家とモルビエ伯爵家への影響も考えて行動しなければならない立場へと変わった。
けれど、一人ではない。ジョフリーという心強い味方がいる。エリサが失敗してもきっと何とかしてくれるはずだから、胸を張っていよう。そう決意して、自分自身の婚約披露のパーティー会場へと足を踏み入れた。
辺境伯によるジョフリーとエリサの婚約成立についての挨拶の後、エリサたちは招待客からのお祝いの言葉を受けている。社交の場なので、実際にどう思っていようと、みな笑顔で祝ってくれる。それに対して言葉少なにお礼を述べて、その後は招待客とジョフリー、ときには横にいる次期辺境伯夫妻エドワードとジュリアと会話をしているのを見守る。事前に習っていた爵位や役職の情報と、目の前の人物とを照らし合わせながら、もう何組目になるのか分からない相手に頭を下げてから次の招待客を見ると、見覚えのある二人だった。
「ジョフリー、エリサ嬢、おめでとう」
「セシル、ありがとう。シェルヴァン様、お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「エリサ嬢、貴女の幸せを祈っている。ジョフリーに泣かされたら、いつでも逃げておいで」
きゃーーーー! セシル様が、セシル様が、私の幸せを祈ってくれるなんて、嬉しすぎて鼻血がでてしまいそう。
今日のセシルは、騎士服ではなくドレスだ。シンプルなドレスだからこそ、気高さと清廉さが際立つ。この場でなければ、「お姉様、一生ついていきます」と言ったのに。
「セシル、私の婚約者を誘惑しないでほしいな」
「ふん、この程度で揺らぐようでは先が思いやられるな」
にっこりと笑いかけられた、それだけで今日のパーティーの最後まで頑張る気力が湧いてくる。延々と続く挨拶に飽きてきていたが、セシルの今日のドレス姿を思い浮かべるだけで最後まで笑顔で乗り切れそうだ。ジョフリーには悪いが、揺らいでいるわけではなく、そもそも最初からエリサの熱量はセシルに向いている。
そんなエリサを見て、シェルヴァンとジョフリーだけでなく、エドワードとジュリアも苦笑していることに、ツンとしたセシルも素敵だと見とれているエリサは気づいていなかった。
だが、好意的な反応ばかりではない。家の力関係上挨拶には来るものの、露骨にエリサを視界に入れず、声もかけない人だっている。成り上がりの元男爵令嬢など相手にしたくないのだろう。エリサは黙って頭を下げているだけで挨拶が終わるので楽でいいなくらいにしか思っていないが。
「辺境伯のご令息に成金男爵家の令嬢とは、もったいないですなあ。それでしたら、私の娘のほうが優秀ですのに」
「優秀なご令嬢をお持ちで、伯爵家も安泰ですね」
当たり障りのない返答をしているエドワードとジョフリーを横目に笑顔を浮かべて会話を聞いているものの、いったい何がしたいのかが分からなくて首をひねりたくなる。これで娘を売り込めると思っているなら方法を間違えているし、当てつけを言いたいならエリサでなく次期辺境伯に言う時点で間違っているし、何を目指しているのやら。
「エリサ様、お気になさないでね。あの伯爵、ずいぶん前からご令嬢をジョフリー様にと熱心に申し込んでいらっしゃったのよ」
「それは悔しくていらっしゃるでしょうね」
なるほど。どうしてもエリサのポジションに娘を送り込みたかったが、辺境に行くのを拒んだのか、あるいは問題のある家なのか、何らかの理由で断られ、捨てゼリフを吐いたようだ。
縁談を娘を売り込む商談だと考えた場合、それなりに歴史も実績もある中堅の会社が、ぽっと出のベンチャー企業に狙っていた取引先を取られたようなものだ。しかもそのベンチャーではネームバリューも実績もなく取引相手としては不十分だからと、自分と同じくらい中堅の会社の孫請けのような形を取っている。そんなことするくらいならうちでもいいだろう、と愚痴の一つも言いたくなるのは分からなくもない。
モルビエ伯爵家の養女になってから辺境伯についてあらためて勉強して、政治的にもかなり気を遣う立場だと知った。
ヴェルニュ領に限らず、辺境伯は国の防衛の要だ。外敵の侵入を防ぐ盾なのだから当然だが、同時に周辺国への寝返りを警戒される立場でもある。だからこそ、王家の信頼が厚いものが任命され、また王家からの監視も厳しくなる。
野心をもって自分の娘を売り込んでくるような家は避けたいところに現れたクレッソン男爵の野心が、政治ではなく商売に向いているのは辺境伯家にとっても都合がよかったのだ。以前は高位貴族の人たちは大変だな、くらいにしか思っていなかったが、実際に自分がその中に入るとなると、多方面に気を遣わなければならず、大変どころの騒ぎではない。息をするように状況に合わせて返答のできる人たちを尊敬する。
せめて足を引っ張らないようにと気合を入れ直しにこやかに笑って、それからの時間をなんとか乗り切った。
パーティーを終えて、最後の招待客を送り出してから、ジョフリーとともにしばしくつろいでいる。エリサはこの後モルビエ伯爵夫妻とともに伯爵邸に戻るので、伯爵夫妻を待っているところだ。
できることならソファに横になりたいが、さすがにそれは令嬢としてやってはならないことだと分かっている。けれど、少しくらいはだらけても許してほしい。初めての慣れない社交を終えたばかりなのだ。
「一日、お疲れ様。疲れただろう?」
「私、大丈夫でしたか? 何か失敗をしていませんでしたか?」
「きちんと受け答えもできていたし、問題ないよ」
微笑みを顔に張り付けていたので、頬が疲れた。今後は会話だけでなく、表情筋もトレーニングしていく必要がありそうだ。
すでに辺境伯夫人ヴィクトリアや次期辺境伯夫人ジュリアと一緒にお茶会に参加することが決まっている。そこにはジョフリーはいないので、今日のようにジョフリーに任せて横で笑っているだけというわけにはいかない。
ところで一つ、パーティーの中で気になったことがあった。
「多くの方がジョフリー様におっしゃっていた、恋が叶ってよかった、というのはどういう意味ですか?」
「ああ、あれはね、エリサ嬢に私が一目ぼれをした、といううわさが流れているからだよ」
聞くと、「ロベールとの婚約破棄で意気消沈し、魔法陣技師として生きていこうと決意したエリサが、ヴェルニュ辺境伯領の魔物の素材に興味を持ちジョフリーに接触したところ、ジョフリーがエリサに一目ぼれして、婚約に至った」といううわさが出回っているらしい。出回らせたのは、ヴィクトリアだそうだ。
「なぜまた、そのようなうわさになったのですか?」
「それなら、エリサ嬢がお茶会に出ない理由として、魔法陣技師の仕事に専念している、と言えるからね」
「それは……、私のために、申し訳ございません」
社交が苦手なエリサのために、ジョフリーが濡れ衣を着せられたようなものだが、辺境伯家としてはお茶会でエリサにうかつな発言をされると困るというのもあるのだろう。けれど、エリサの令嬢らしかぬ部分も、仕方がないと受け入れてくれている。そういう度量の広いところが、エリサにとってはありがたい。
「エリサ嬢、すごくいまさらだけど、貴女となら辺境でもいい関係を築いていけると思っている。そういう意味では、一目ぼれ、というのも間違いではないよ。私と婚約してくれるかな?」
「私もジョフリー様となら上手くやっていけそうですわ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
打算で始まった関係ではあるが、それだけではない信頼を、これまでの短い時間でお互いに築くことができた。
これからいろいろと想定外のことが起きて、困ることもあるだろう。それでもジョフリーとなら乗り越えていける気がする。
いつかは二人で恋も育てていければいいなと、エリサにしてはロマンチックなことを考えていた。
風花の舞った冬の日、エリサとジョフリーの婚約が正式に成立し、公表された。結婚式は秋を予定している。
その話は庶民にまで瞬く間に広がり、大手商会の娘が高位貴族を射止めたという夢物語の劇が作られるほどの話題となった。
学園の卒業パーティーから一年弱、エリサには怒涛の日々だった。婚約破棄に始まった騒動は、新たな婚約の成立で一応の決着をみせることになる。もっともそれは新たな騒動の始まりでもあるのだろう。
自分のことと商会のことだけを考えていればよかったほぼ平民の男爵令嬢から、ヴェルニュ辺境伯家とモルビエ伯爵家への影響も考えて行動しなければならない立場へと変わった。
けれど、一人ではない。ジョフリーという心強い味方がいる。エリサが失敗してもきっと何とかしてくれるはずだから、胸を張っていよう。そう決意して、自分自身の婚約披露のパーティー会場へと足を踏み入れた。
辺境伯によるジョフリーとエリサの婚約成立についての挨拶の後、エリサたちは招待客からのお祝いの言葉を受けている。社交の場なので、実際にどう思っていようと、みな笑顔で祝ってくれる。それに対して言葉少なにお礼を述べて、その後は招待客とジョフリー、ときには横にいる次期辺境伯夫妻エドワードとジュリアと会話をしているのを見守る。事前に習っていた爵位や役職の情報と、目の前の人物とを照らし合わせながら、もう何組目になるのか分からない相手に頭を下げてから次の招待客を見ると、見覚えのある二人だった。
「ジョフリー、エリサ嬢、おめでとう」
「セシル、ありがとう。シェルヴァン様、お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「エリサ嬢、貴女の幸せを祈っている。ジョフリーに泣かされたら、いつでも逃げておいで」
きゃーーーー! セシル様が、セシル様が、私の幸せを祈ってくれるなんて、嬉しすぎて鼻血がでてしまいそう。
今日のセシルは、騎士服ではなくドレスだ。シンプルなドレスだからこそ、気高さと清廉さが際立つ。この場でなければ、「お姉様、一生ついていきます」と言ったのに。
「セシル、私の婚約者を誘惑しないでほしいな」
「ふん、この程度で揺らぐようでは先が思いやられるな」
にっこりと笑いかけられた、それだけで今日のパーティーの最後まで頑張る気力が湧いてくる。延々と続く挨拶に飽きてきていたが、セシルの今日のドレス姿を思い浮かべるだけで最後まで笑顔で乗り切れそうだ。ジョフリーには悪いが、揺らいでいるわけではなく、そもそも最初からエリサの熱量はセシルに向いている。
そんなエリサを見て、シェルヴァンとジョフリーだけでなく、エドワードとジュリアも苦笑していることに、ツンとしたセシルも素敵だと見とれているエリサは気づいていなかった。
だが、好意的な反応ばかりではない。家の力関係上挨拶には来るものの、露骨にエリサを視界に入れず、声もかけない人だっている。成り上がりの元男爵令嬢など相手にしたくないのだろう。エリサは黙って頭を下げているだけで挨拶が終わるので楽でいいなくらいにしか思っていないが。
「辺境伯のご令息に成金男爵家の令嬢とは、もったいないですなあ。それでしたら、私の娘のほうが優秀ですのに」
「優秀なご令嬢をお持ちで、伯爵家も安泰ですね」
当たり障りのない返答をしているエドワードとジョフリーを横目に笑顔を浮かべて会話を聞いているものの、いったい何がしたいのかが分からなくて首をひねりたくなる。これで娘を売り込めると思っているなら方法を間違えているし、当てつけを言いたいならエリサでなく次期辺境伯に言う時点で間違っているし、何を目指しているのやら。
「エリサ様、お気になさないでね。あの伯爵、ずいぶん前からご令嬢をジョフリー様にと熱心に申し込んでいらっしゃったのよ」
「それは悔しくていらっしゃるでしょうね」
なるほど。どうしてもエリサのポジションに娘を送り込みたかったが、辺境に行くのを拒んだのか、あるいは問題のある家なのか、何らかの理由で断られ、捨てゼリフを吐いたようだ。
縁談を娘を売り込む商談だと考えた場合、それなりに歴史も実績もある中堅の会社が、ぽっと出のベンチャー企業に狙っていた取引先を取られたようなものだ。しかもそのベンチャーではネームバリューも実績もなく取引相手としては不十分だからと、自分と同じくらい中堅の会社の孫請けのような形を取っている。そんなことするくらいならうちでもいいだろう、と愚痴の一つも言いたくなるのは分からなくもない。
モルビエ伯爵家の養女になってから辺境伯についてあらためて勉強して、政治的にもかなり気を遣う立場だと知った。
ヴェルニュ領に限らず、辺境伯は国の防衛の要だ。外敵の侵入を防ぐ盾なのだから当然だが、同時に周辺国への寝返りを警戒される立場でもある。だからこそ、王家の信頼が厚いものが任命され、また王家からの監視も厳しくなる。
野心をもって自分の娘を売り込んでくるような家は避けたいところに現れたクレッソン男爵の野心が、政治ではなく商売に向いているのは辺境伯家にとっても都合がよかったのだ。以前は高位貴族の人たちは大変だな、くらいにしか思っていなかったが、実際に自分がその中に入るとなると、多方面に気を遣わなければならず、大変どころの騒ぎではない。息をするように状況に合わせて返答のできる人たちを尊敬する。
せめて足を引っ張らないようにと気合を入れ直しにこやかに笑って、それからの時間をなんとか乗り切った。
パーティーを終えて、最後の招待客を送り出してから、ジョフリーとともにしばしくつろいでいる。エリサはこの後モルビエ伯爵夫妻とともに伯爵邸に戻るので、伯爵夫妻を待っているところだ。
できることならソファに横になりたいが、さすがにそれは令嬢としてやってはならないことだと分かっている。けれど、少しくらいはだらけても許してほしい。初めての慣れない社交を終えたばかりなのだ。
「一日、お疲れ様。疲れただろう?」
「私、大丈夫でしたか? 何か失敗をしていませんでしたか?」
「きちんと受け答えもできていたし、問題ないよ」
微笑みを顔に張り付けていたので、頬が疲れた。今後は会話だけでなく、表情筋もトレーニングしていく必要がありそうだ。
すでに辺境伯夫人ヴィクトリアや次期辺境伯夫人ジュリアと一緒にお茶会に参加することが決まっている。そこにはジョフリーはいないので、今日のようにジョフリーに任せて横で笑っているだけというわけにはいかない。
ところで一つ、パーティーの中で気になったことがあった。
「多くの方がジョフリー様におっしゃっていた、恋が叶ってよかった、というのはどういう意味ですか?」
「ああ、あれはね、エリサ嬢に私が一目ぼれをした、といううわさが流れているからだよ」
聞くと、「ロベールとの婚約破棄で意気消沈し、魔法陣技師として生きていこうと決意したエリサが、ヴェルニュ辺境伯領の魔物の素材に興味を持ちジョフリーに接触したところ、ジョフリーがエリサに一目ぼれして、婚約に至った」といううわさが出回っているらしい。出回らせたのは、ヴィクトリアだそうだ。
「なぜまた、そのようなうわさになったのですか?」
「それなら、エリサ嬢がお茶会に出ない理由として、魔法陣技師の仕事に専念している、と言えるからね」
「それは……、私のために、申し訳ございません」
社交が苦手なエリサのために、ジョフリーが濡れ衣を着せられたようなものだが、辺境伯家としてはお茶会でエリサにうかつな発言をされると困るというのもあるのだろう。けれど、エリサの令嬢らしかぬ部分も、仕方がないと受け入れてくれている。そういう度量の広いところが、エリサにとってはありがたい。
「エリサ嬢、すごくいまさらだけど、貴女となら辺境でもいい関係を築いていけると思っている。そういう意味では、一目ぼれ、というのも間違いではないよ。私と婚約してくれるかな?」
「私もジョフリー様となら上手くやっていけそうですわ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
打算で始まった関係ではあるが、それだけではない信頼を、これまでの短い時間でお互いに築くことができた。
これからいろいろと想定外のことが起きて、困ることもあるだろう。それでもジョフリーとなら乗り越えていける気がする。
いつかは二人で恋も育てていければいいなと、エリサにしてはロマンチックなことを考えていた。
風花の舞った冬の日、エリサとジョフリーの婚約が正式に成立し、公表された。結婚式は秋を予定している。
その話は庶民にまで瞬く間に広がり、大手商会の娘が高位貴族を射止めたという夢物語の劇が作られるほどの話題となった。
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