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8.「……折角だもの。利用させていただきます」

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 自宅に辿り着き、人目につかないよう地下室へ逃げ込んだ猫は持ち前の体力で少し休むとすぐ人の姿に戻ることが出来た。そんなニーナが真っ先に向かったのは夕飯はまだかと怒鳴る家族ではなく、心配ばかりかけてしまった友人のところだった。

 尋ねてすぐ、飛び出してきた友人はニーナに抱きつき安堵から暫く泣いた。

「ニーナ……無事なのは本当によかったけど……本当に受けるの? 私は怖いからやだよお」
「うん。私ひとりでも受けるつもり」

 ようやく泣き止んだリリィが一応、とニーナに差し出したのは『王族専属調香師選抜試験』の申込用紙だった。
 参加しないことを前提に話していたリリィは即答で参加する意志を示したニーナに不安が隠せない。
 けれどもう、ニーナはこの用紙を見た瞬間に決めたのだ。

 このチャンスを無駄には出来ない。あの第二王子にまた会うことになればからかわれることになるのかもしれないが構わなかった。寧ろ、あの男にからかわれたままではいられないとすら思う。

「やってやるわよ……」

 ニーナはリリィから受け取ったペンで申込用紙にサインをした。
 すると用紙は輝き、星屑のようにキラキラと光の粉になってしまった。

「受付されたんだよね……? 魔法用紙なんてやっぱり王族はお金持ちだなあ」

 ニーナの手の中で輝く光の粉を眺めリリィが溜め息をつき、ニーナはその粉に鼻を近づける。

「……香りってしないのね、残念」

 全く危機感のない友人に、リリィはお腹を抱えて今日一番笑った。


 ◇


 ニーナはまた野良猫のようにこっそりとクーリッヒ邸へ戻った。
 自分の家でもあるのに、夜中になってしまったこともあり足音を極限まで抑え行動する。
 クーリッヒ邸の地下室。物置と兼用のため薄暗く湿っぽいが、ニーナにとってこの家で唯一心安らぐ場所だ。

 ニーナは物置の隅にある、戸棚の前で瓶や調合道具を片手に頭を抱え、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。

 試験の内容は二段階に分かれているらしい。
 第一試験は香りの判別テスト。それに合格すれば持参した香水を試験官に試香してもらい、一定水準を満たせば王族が直々に試してくれるのだという。そこで専属調香師が選抜される。
 まずは持参する香水を作ろうとあれこれ試しているのだ。だが、どれも納得できない。

 ニーナは一息ついて、戸棚の奥から古いノートと香水瓶を取り出した。

「お母様……力を貸してくださるかしら」

 その香水は古い見た目とは裏腹に、液体は透明で無臭だ。母が病気になる前に作った最後の香水だった。そしてそれは結局完成させることができなかったのだ。

 ――お母様は毎日魔力を込めて調合レシピを考えていた。でも、完成しなかった。

 瓶の底には香水の名が刻まれている。母の字で《真実の愛》と。
 母は父の浮気に気づいていた。そしてこの香水を完成させて愛を取り戻そうとしていたのだ。だが、それも結局叶わなかった。

 ニーナは香水瓶を胸に抱き、縋るように祈る。

「……お願い。どうか……っ」

 この香水が完成すれば、これをもって試験に臨みたい。きっとどこにもない調合レシピだ。
 この香水にニーナが祈るのは日課のようなものだった。想いを変えて、母のレシピをベースに調合を変え何度も、何年も祈り続けている。

 母の想いを少しでも報いたい。そして、娘としての気持ちとは別にもう一つ密かな夢があった。

「……だめね」

 胸に抱いた香水はなんの反応もない。
 ニーナはなんだか泣きそうになった。今日のキスが、触れられた指と舌が頭をよぎる。
 いつか、なんの後ろめたさもなく初恋の彼に告白しようと、合コンも全て断ってきたというのに、はじめてのキスは戻らない。まるで、もう想いを告げる資格はないと言われている気分だった。

 母の形見の香水に毎日祈りを捧げるもう一つの理由、それは初恋の彼へ告白するときに渡したい。そう夢見ているからだった。
 でもそれは、叶わないらしい。いや、今はまだ、という意味だとニーナは何とか持ち直して他のレシピを探してノートをめくる。
 このノートも母の形見で、そこにニーナの考案したレシピを書き足している。

「植物系の香りは人気だけど…あの方たちの好みに合わせた方がいいわよね……」

 うーん、と唸ってみるも王族の好みなどニーナには分からない。
 ふと、帰り際やはり試験に参加するニーナが心配だと言い出したリリィの言葉が蘇る。

『ニーナも知らないわけじゃないでしょう? あの悪名高き第二王子が持たざる極悪王子と呼ばれているのを』

 ――聞いたことはあるけれどよく知らないわ。持たざるって?

『言葉の意味通り、あの方は生まれつき魔力を持っていないらしいの。だからその腹いせに少し自分が気に食わない人がいると女子供も関係なく非道な処分をしてるって話しよ』

 ――魔力を持たないって……この国では誰でも多かれ少なかれ持っているものではないの? それに、いくら王族でもそんなことをして許されるの?

『許されないわよ! それに当たり前を持っていないからこそ恐ろしいんじゃない。でも、みんなが溜飲を下げてるのは訳があるの。それが一月後の赤い満月の日よ。第一王子のお誕生日と重なるんですって。その日に第二王子の悪行が裁かれるって話しなの。だからみんな堪えているのよ――』

 話によると、非道な悪行だけでなく、竜族の聖なる力によって護られているはずの土地の加護が薄れているのも第二王子が持たざる者であることが原因らしい。
 公にされていないそれらの情報はニーナにとってただの根も葉もない噂でしかなかったが、今日実際にあのような態度を取られると納得してしまう部分がある。

「極悪王子……持たざる者……酷いい草ね、でも」

 極悪と呼ばれるあの人を、思い出したくないニーナの気持ちと、調香師としての本能がせめぎ合う。

 ――あの方、香りがしなかった。

 専属の調香師を探しているくらいだ。今はまだ香水をつけていなかったのかもしれない。とはいえ、普通その人自身の香りや、魔力によって独特の香りがするはずだ。ニーナだって自分が気づいていないだけでしているだろう。それが全くの無臭というのはまるでそこに存在していないような不思議な感覚だった。なぜか、寂しいような、そんな印象を持ったのだ。
 ニーナは首を振りかけて、少し悩んだ末自分を納得させるようにゆっくり頷いて戸棚から材料を探してかき集める。

「……折角だもの。利用させていただきます」

 これは仕事のチャンスだ。そう自分に言い聞かせて彼のイメージを膨らます。

 ――冷たい瞳、抑揚のない声、誰も信じていないような態度。……なにが彼をそうさせているのだろう。

 ニーナは香水に魔力をこめる時、纏う人をできるだけイメージする。
 一人ひとりにオーダーメイドの香水をつくることができるのであればいいがそうではない。だからこそ、少しでもそれに近づけたいと思っている。

「香りがないのなら……きっとどんな淡い香りも映えるはず」

 モノは試しだと、人気のある香りをベースにすることにした。
 アップル、少し男性的になるようにムスクとオークモスを少々、それから最後にジャスミン。香りの素を調合容器に入れていく。

 香水はつけた瞬間から少しずつ香りが変化していく。例えば、ニーナの店で人気の香水は花のジャスミンから始まり、少し経つと桃へ、最後に林檎に近い香りを残す。纏う人はフレッシュで可愛らしい印象を周りに与えることができる。

 香水は含まれる魔力による効果はもちろん、香りによって自分がどういう気分になりたいのか、相手にどういった印象を与えたいのかを演出することができる。それこそが魔力よりも魔法のようだとニーナは感じていた。
 寂しげな碧い瞳を思い出して、不意にそれが思い出の中の彼と重なってしまう。

 ――泣かないで。

 強く願った瞬間、ぱあっとニーナの手の中で香水瓶が光り輝く。
透明だった香水は淡い琥珀色へと姿を変えた。最後の最後で第二王子ではなく思い出の中の彼を想ってしまったが、それは温かみのある優しい色合いを醸し出している。

「今までで一番いい色だわ……」

 ニーナは香水瓶を宙に掲げ、くるくるとまわしてみせる。ゆらゆら、キラキラと香水が輝いて完成度の高さに自分がいちばんびっくりしてしまった。
  香りはどうかしらとシュッとひとふきしてみる。

「これは――日向ぼっこの香りだわ」

 温かみのある優しい香りは、昔、森の中で猫の姿になって走り回り、木登りをした懐かしい記憶を呼び覚ます。自然と顔がほころんでしまうような、そんな香りだった。

 ――敬愛すべき竜王族とはいえ、人としては好きになれない人だけれど、この香水があの人に届きますように。

 ニーナは完成した香水をベースに若干の改良を重ねることにした。
 あとは自分の出来ることをやるだけだと、ニーナは意気込んで試験当日に備え、準備に勤しんだ。

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