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25.「これ以上、俺に生きていたいと思わせないでくれ」
しおりを挟む朝の光が差し込む森は、眩しくて暖かい。
見上げると木々を包む葉がキラキラと風に揺れている。
まるで一匹の猫を少し戸惑いながら歓迎するように。あのときも、こんなふうに森がニーナを迎え入れてくれていた。
――手を引いてくれた彼は、あの日渡した香玉をポケットにいれて嬉しそうに笑っていた。
陽の光をたっぷり含んで揺れる髪は金色にも、虹色にもみえる美しい銀髪だった。
また忘れてしまわないようにニーナは頭の中で何度も彼を思い出す。そしてそれは必然のように目の前の男と重なっていった。
ニーナは周りに人がいないことを確認し、くるくるとその場で回ってみた。木々の中でたんぽぽ色のワンピースがふわりと舞う。
「この森は伝説の竜がつくった森ですよね」
「ああ。伝説上では白銀の竜が愛した猫のために造り上げた森と言われている」
「この森に迷い込んだ猫は歳をとらなかったとか、不治の病が治ったとか、そんな噂もありましたね」
唐突な話題にロルフは少し訝るような視線を向けたがニーナの無邪気な様子にすぐ目を優しく細めた。
「真偽は不明だがこの森に不思議な力があるのは事実だ。例えばこの果実や植物は他では生息していない。それに、竜族が祈りを捧げるほど森は豊かになり、自然の力と相まって農村も潤すほどの未知な力がある。この森で暮らす子供たちも悪い夢はみないと聞いた。森は竜が望む猫の幸せを実現する……すまない、これでは伝説を読み上げているだけだな」
「それは、たとえば猫の幸せのために記憶を奪うことも……あるんですよね?」
ロルフはハッとして表情を引き締めた。この森に来てから気持ちを緩めているからだろうか、いつもより感情がはっきりしてみえる。一瞬だったが、確かにロルフは動揺した。
「……昨日のことか?」
「昨日のことも納得していません。でも、それより私はずっと忘れてたことを思い出したのです」
ニーナの新緑色の瞳はロルフから一瞬たりとも目を離さない。絶対に誤魔化されたくない。
「ロルフ様は私の初恋の方のこと、銀髪が珍しいだけっておっしゃってましたよね。私、覚えてなかったんです。彼のことで覚えていたのは蒼い瞳だけ……」
「……言い間違えだ。忘れてくれ……それ以上なにも考えないでくれ……」
「ロルフ様は私に初めて触れた時、香水ではなく私自身の香りを不思議がっていました。魔力から香るのであればロルフ様が以前仰っていたように運命だから……」
「ニーナ」
縋るような声だ。これ以上の言葉を遮るような。けれどニーナは止めない。
「あなたは私の運命の方だったから、本能が覚えていたのではないでしょうか。だからあなたを誘う香りを私が魔力にのせていた……あなたは私の初恋の彼。お持ちですよね、十三年前にお渡しした香玉を」
ロルフはあからさまにニーナから視線を逸らした。そして頭を抱えて俯く。
ニーナは不安になって、抱きしめたくなるのを必死にこらえた。ロルフの言葉で真実が聞きたい。
たとえ、貴方にとっての運命が私でなくても。
けれど、ロルフは答えてくれない。その表情はフードの中に隠れたままだ。
「……俺は、思い出してはいけないんだ。俺がそう望んだ。君を失いたくなくて。俺が君を……」
「ロルフ様。私はここにいます。あなたのいちばん大切な方にはなれなくても、ここにいます」
ニーナは精一杯微笑んだ。ロルフの隣にいたい。その本音と、少しだけの建前。
「……君が側に……」
ロルフはうわ言のように呟くと、フードを脱ぎ胸ポケットから小さな包みを取り出した。
その中にはいっていたのは、ニーナが想像した通りの«香玉»だった。
ニーナ手にそれが渡ると、同時にロルフからはほんのりと寂しげな香りが漂う。
初めて感じた、ロルフ自身の香り。十三年前の記憶が蘇る。思い出すことを許されたかのように。
「……あなただったんですね。ロルフ様、私、私ずっとあなたを……」
感極まって抑えきれなくなるニーナを黙らせるようにロルフは強く抱きしめた。でもそれは、熱く抱きしめ返せるものではななった。ロルフの腕は震えていて、息は荒い。圧し掛かってきた体は茹だるように熱い。
「だめだ。それ以上は……頼む、これ以上俺に生きていたいと思わせないでくれ。幸福で……怖いんだ」
呪いによる発作がおきているのだとニーナは悟った。マント越しに、背中のアザがあった場所が燃えているように熱をもつ。
昼間だから発作は起こらないだろうと油断していた。
「ロルフ様……!」
ロルフの意識は朦朧としている。いつもの発作より酷いのは一目瞭然だった。素性を隠している以上、助けを呼ぶことも出来ない。
「……君の言う通りだ。十三年前、この森で彼女に出会った。しかし俺は無能な王子だった。このままでは彼女に危険が及ぶ。だからこの森に願ったんだ。彼女が俺を忘れ幸せになるようにと――だが、もう遅かった。そう、思っていたのに……君は……」
ロルフの口から初恋の彼女が語られる。目の前にいるのがニーナだということさえ分からない状態らしい。
ニーナは急いでポケットから香水を取り出した。
母の形見である未完成の«真実の愛»を持ってきていたのだ。今のロルフの苦しみを救えるならこの香水が完成しなくても構わない。それほど強い想いがニーナの魔力となって溢れ出す。
「――尊き者の盾となり……いいえ、愛する者を導く光となり、寄り添う想いをここに宿してください……っ」
ニーナが胸に抱いた香水瓶がぱあっと大きく光った。今まで見た事のない輝きに、目を見張る。
その光は眩しすぎるほどなのに、優しく包み込むような香りに変化する。その光に反応するように森が唸って、大きな風が巻き起こった。
「あっ――」
しっかり握っていたはずなのにニーナの手から香水瓶が離れ、風に乗せられてくるりと回って光り輝く。まるで、森の力が香水に注がれるようだ。ニーナは手を伸ばして、瓶を森から受け取った。
淡い黄金色の香水をロルフにしゅっと吹きかける。それは、太陽の香りだった。
大好きな人と木の上で日向ぼっこをしていて、抱き合った時に溢れるような愛しい香り。
「……っ、……はっ……」
苦しみに朦朧としていた彼の表情は一瞬穏やかになった。けれど。
「ぅ、ぁああっ……!」
「ロルフ様!」
突然目を見開いて苦しみだしたのだ。まるで内側からこじ開けられているかのように自身を抱え込んだロルフを強い風が攫うように包み込んだ。ニーナは無意識にロルフを離すまいと抱きしめていた。強風に煽られ目を固く瞑る。眩い光に照らされて、恐る恐る瞼を開く。
「ロルフ……様……?」
抱いていたはずの体温が感じられなくなり、代わりにひんやりとした硬質なものに触れている。ニーナは目の前の光景に言葉を失った。
柔らかな陽の光を泳がせ、虹色に輝く白銀の鱗。研ぎ澄まされた刃のように鋭い爪、どこまでも飛んでいけそうで神秘的な勇ましさを感じさせる翼。そして、深い空のように凛々しい碧眼。
その姿は紛うことなく、白銀の竜そのものだった。
ニーナは目の前の竜がロルフであることがすぐに理解できた。そしてこれが、ロルフの本当の姿であることも。
「ロルフ様……っ、すごい、本当に……っ」
ニーナは無意識に涙を零していた。新緑色の瞳から、ぽろぽろと安堵と感動が伝う。大きな竜は、猫の頬に寄り添うと丁寧にその涙を舌で拭った。ざりっとした感触がくすぐったい。ふふっと身を捩ると、竜は安心したように美しい目を細めた。竜の姿になっても、彼は彼のままだ。
青い瞳と見つめ合ったとき、遠くからふたりを呼ぶ声が響いた。そしてタイミングを見計らうように白銀の竜はまた光に包まれていく。
『ロル様ー! 大丈夫ですかー! さっきこの辺りからすごい風が……! って、あっ、お邪魔しましたっ』
ロルフが竜に姿を変えた瞬間に巻き起こった強風だとは知る由もない村人が散歩にでたふたりを心配し探しにきてくれたらしい。たどり着いた村人の前でふたりは静かに抱き合っていた。
「俺たちは問題ない。そろそろお暇するとしよう」
ロルフはニーナの手を握って歩く。胸に秘めるには大きすぎる感動をニーナは必死に噛み締めて、竜の背中を見つめ足を進めた。
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