35 / 39
35.「ニーナは俺が嫌いか?」
しおりを挟む赤い月が昇っている。禍々しさすら感じさせるのに、降り注ぐ月光は明るくて森の中はまるで昼間のようだ。
やはりこの森は不思議だ。入り口は同じだったはずなのに竜を乗せた馬は正面からやってきた。今、この森は残念ながら猫の味方ではないらしい。
「んにゃっ!」
慌てて近くの草むらに逃げ込んで真っ直ぐ走り抜けたのに、出てきたのは入った場所と同じ場所だったからだ。これが竜の味方をする森の答え。
馬から下りたロルフは逃げ場をなくした猫に駆け寄り、すかさず抱き上げる。
「君はすぐに猫化して服を脱ぎ捨ててしまうな。この愛らしい姿で帰ってくるつもりだったのか?」
「……にゃっ」
帰るつもりなんてなかった。行き場所なんてないけれど、もういっそのことこの姿のままどこか遠くへいけないだろうかとすら考える。呆れるほどの現実逃避だ。
耳を伏せて俯いていると、そのすきに首になにかが巻かれる。
驚いて首元に触れると猫の肉球でもわかるほど上質なレースがあしらわれたリボンだった。
それに、特別な魔力も感じる。普段着ている服とは全くレベルの異なる質であることは一目瞭然だ。
不安げに顔を上げるとロルフが眉をさげる。
「君の友人、リリィと言ったか。彼女が君のためにと提案してくれたドレスだ。猫の姿ではこうして首飾りになる。……どうか着てみせてくれないか?」
どうやら、ニーナが脱ぎ捨てた服を持って追いかけようとしたロルフに、リリィが完成したばかりのドレスを持たせたらしい。
王族の服はいつ竜化と人の姿を繰り返してもいいように特別な魔法糸で作られていると聞いたことがある。
唯一の友達であるリリィが提案し、愛するロルフが自分のために誂えてくれた特別なドレス。猫の手は首飾りを解けるほど器用にできてはいないし、人の姿にならなければどちらにせよこのまま城へ連れ戻されてしまうだろう。
ロルフと言葉を交わすことからこれ以上逃げることはできそうにない。選択肢は観念することだけだった。
ニーナはまた俯いて、静かに猫から人の姿へと戻る。
「驚いたな……あまりに綺麗で言葉が見つからない」
ドレス姿のニーナを凝視するロルフは照れるように口元に手をやる。ドレスは本当に美しくて、ニーナはさらに困惑してしまう。
「私は……こんな素敵なものをいただけるような猫ではありません……」
堪えきれなくて、翡翠色の瞳から大粒の涙をこぼした。
レースの首飾りは人の姿になったニーナを純白のドレスとなって包み込む。
繊細な刺繍がたっぷりと施されていて、魔法で紡がれた糸は星の光を吸い込んだ雲のようにきらきらと輝いている。どれだけ貴重で、どれだけ自分に不釣り合いな美しさか一瞬にして理解させられる。
そして、純白のドレスが表す意味も。ウィルデン王国では婚約の際、伝説を模して男性が女性に純白のドレスを贈り、女性が香り玉や香水をお返しするのが習わしだ。
ウィルデン王国は竜と猫と香水によって成り立つ特殊な国で、結婚に互いの身分は関係ない。もちろん、貴族は家同士の繋がりだと意識する者が大多数ではあるが、ルールとして当人同士が純白のドレスと香水を交わすことによって婚約を成立させることができる。
だからこそ、ニーナは自分が纏うドレスの意味に顔を覆わずにはいられなかった。
「俺は君を心から愛している。離したくない」
ロルフがニーナを逃がさないと腕に閉じ込める。ニーナはそれにただ首を横に振った。
「……ですが、愛は目に見えません。もう私には分からないのです。もし、ロルフ様の言葉が真実なら呪いが解けるはずなのにって……」
こんなに愛しているのに。
「ニーナ。君が涙を流すほど不安になるのは……俺を信じ切れないからだろう? 俺の不甲斐なさがずっと君を傷つけ続けている」
そうなんだろう、と優しく問われる。すぐに首を振れない自分がいた。
愛を信じていなかったのは私のほうだった。ロルフから逃げたのはそれが伝わってしまうのが怖かったから。なんて酷いんだろう、私は。
「違うんです……っ、ロルフ様のせいじゃ……」
ロルフのせいではない。もし、本当に彼が《真実の愛》を知ることで呪いがとけるのであれば、その原因は自分にある。
理由はとっくに分かっていた。だから、縋るようにこの森にきてしまったのだ。
ニーナは、ロルフとの出逢いの記憶を完全に取り戻せていなかった。
どれだけ愛を囁き合っても、体を重ねても、ロルフが大切に慈しんでくれている過去の自分の言動も、ロルフがくれた言葉も思い出せない。
そしてそれは、自分に原因があることもわかっていた。
「分かっていたんです! 十三年前、ロルフ様が一方的に私の過去の記憶を消したんじゃないってこと……っ、あれは私がお願いしたんですよね? あの森に入った女の子が殺されたのを見て怯えて……」
頭がズキッと痛む。ここまでは、ここ数日夢にみて思い出したものだ。
「ニーナ、無理に思い出す必要はない。もういいんだ」
ロルフがニーナを記憶の波から引き摺り出そうとする。森がざわめいて、ニーナの耳を塞ぐ。
そうだ。あのとき、神々の森に入って遊んでいたのはニーナだけでなく、他にも数人の子がいて、年の離れたお姉さん、今の自分と同い年くらいの女の子が一人混ざっていた。
そしてその子こそ『加護を受けたいがために竜を誑かした』としてニーナの目の前で秘密裏に処刑されたひとりだった。
碧眼の少年は諦観した瞳でその光景を眺めた後、隠れていたニーナを見つけて蒼白な顔になった。
怯えた少女の表情は、少年をどれだけ傷つけただろう。
少年は少女の手を握ると優しく告げた。
『記憶を消すってことは、今までの君を殺すって意味だ。おれはこれから君を殺す』
『私、死んじゃうの?』
『うん。でもこれからの君は生きていくんだ。大丈夫。おれは君の幸福だけを祈ってるよ』
『……あなたの名前をきいてもいい?』
『だめ。……名前を知ると呼びたくなるから。俺も知らなくていい。さあ、そろそろ時間だ……目を瞑って』
瞼を上げたとき、そこは神々の森の外だった。香水の材料が欲しくてはいったはずなのに手にははにもなくて、不思議な気持ちだけが残った。
それからというものの、神々の森に不法侵入する不届き者が現れ、結界を強化したと大きな話題になった。森で珍しい植物を嗅いだ記憶のあるニーナはきっと自分のことだと後ろめたさから森に近づくことはなくなった。
初恋の少年がいた。どこかの木の上で一緒に遊んでいて「空をみせてくれる」と約束してくれた。それが、どこの木の上なのかは分からない。けれど、神々の森では植物以外と出会っていないのだからそこはあり得ないと、そう思っていた。
十三年前、ニーナは七つと幼かったが、ロルフだって十一歳の子供だった。
そんな子供が自分だけが覚えている記憶を重ねていくのはどれだけの苦しみになっただろう。
「ロルフ様に全部背負わせたんです。それすら忘れて都合のいいことだけ覚えていて……初恋なんて綺麗な思い出にしていたんです! そんな私に……真実の愛なんて……伝えられるはずないんです、だから私は本当はロルフ様に相応しく――」
もういい、そう遮るように顔を覆っていた手を引かれて口付けられる。
噛み付くように、宥めるように、浅く深くを繰り返すキスに涙より心臓の音が早くなった頃、ようやく唇が解放された。
「俺と関わった記憶を消していなかったら、君は殺されていたかも知れない。俺はなんの力も持たず君を護ることもできなかったんだ。当然の判断だった、君はなにも悪くない」
「でも……っ」
「でも、はいらない。君が俺を嫌いだというのなら今ここで俺を殺して構わない。だが俺に相応しくないかどうかを決めるのは俺自身だろう?」
頬を優しく両手で包まれ、至近距離で問われると目をそらせない。ニーナはまた涙が零れそうになるのを必死に堪える。
「……っ、違和感に気付いてからずっと、ロルフ様の呪いが解けたら、そのときは姿を消そうと思っていました……ロルフ様の未来を見守ろうって……」
家族に蔑まれ、捨てられ、調香師として母の形見の香水すら完成させられず、よりどころだった初恋は都合のいいところだけ覚えているような自己中さで。
こんな私が、彼の側にいる資格なんてない。だからこそ早く呪いを解かなければ。そう焦っていた。
「俺は君との未来が欲しい……ニーナは俺が嫌いか?」
「っ、そんなことありえません……!」
優しく微笑む彼に分かっていて聞かれているのだと悟る。
「辛い記憶ばかりを思い出してしまったんだな、そしてそれに捕らわれているんだ。楽しかったことは思い出せるか?」
「楽しかったこと……」
思い出せるのはロルフが「空をみせてやる」と約束してくれたこと、そして香り玉をわたしたことだけだ。そうやって会話をするようになった経緯があるはずなのだけれどそれは思い出せない。
ロルフは森をぐるりと仰いで高らかにいった。
「神々の森よ。聞いてくれ。どうか彼女に記憶をすべて返して欲しい。その見返りはこの俺がいくらでも支払おう」
「ロルフ様……っ」
「大丈夫。生まれてからずっと封印されてきた竜の聖力だ。有り余っているだろう」
森が竜の願いを聞き入れたかのように森が大きく唸り、強風に包まれた。
ロルフが初めて竜化したときと同じように――目を開くと、そこには白銀の竜が凜と佇んでいた。
「……やっぱり、綺麗です」
思わず見とれてしまったニーナに竜は背中に乗るよう促した。
――君に空をみせたい。
直接、頭の中に語りかけられて思わずきょろきょろと周りを見渡してしまったが今ここにいるのは自分とロルフだけだ。
改めて竜は神秘的な存在なのだと思わされているうちに、ニーナを乗せた白銀の竜は空へと飛び立った。
1
あなたにおすすめの小説
甘い匂いの人間は、極上獰猛な獣たちに奪われる 〜居場所を求めた少女の転移譚〜
具なっしー
恋愛
「誰かを、全力で愛してみたい」
居場所のない、17歳の少女・鳴宮 桃(なるみや もも)。
幼い頃に両親を亡くし、叔父の家で家政婦のような日々を送る彼女は、誰にも言えない孤独を抱えていた。そんな桃が、願いをかけた神社の光に包まれ目覚めたのは、獣人たちが支配する異世界。
そこは、男女比50:1という極端な世界。女性は複数の夫に囲われて贅沢を享受するのが常識だった。
しかし、桃は異世界の女性が持つ傲慢さとは無縁で、控えめなまま。
そして彼女の身体から放たれる**"甘いフェロモン"は、野生の獣人たちにとって極上の獲物**でしかない。
盗賊に囚われかけたところを、美形で無口なホワイトタイガー獣人・ベンに救われた桃。孤独だった少女は、その純粋さゆえに、強く、一途で、そして獰猛な獣人たちに囲われていく――。
※表紙はAIです
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
こわいかおの獣人騎士が、仕事大好きトリマーに秒で堕とされた結果
てへぺろ
恋愛
仕事大好きトリマーである黒木優子(クロキ)が召喚されたのは、毛並みの手入れが行き届いていない、犬系獣人たちの国だった。
とりあえず、護衛兼監視役として来たのは、ハスキー系獣人であるルーサー。不機嫌そうににらんでくるものの、ハスキー大好きなクロキにはそんなの関係なかった。
「とりあえずブラッシングさせてくれません?」
毎日、獣人たちのお手入れに精を出しては、ルーサーを(犬的に)愛でる日々。
そのうち、ルーサーはクロキを女性として意識するようになるものの、クロキは彼を犬としかみていなくて……。
※獣人のケモ度が高い世界での恋愛話ですが、ケモナー向けではないです。ズーフィリア向けでもないです。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる